週刊READING LIFE vol.12

金曜の夜の赤坂《週刊READING LIFE「大人の色気~フェロモン、艶っぽい、エロい…『色気』とは一体何なのか?~」》


記事:たけしま まりは(READING LIFE編集部 公認ライター)

 

 

金曜の夜の赤坂は、なんだかロマンチックな感じがする。
ホテルニューオータニのイルミネーションがキラキラ輝いているからか。
「金」「夜」「赤」と、どこかきらめきのある漢字が含まれているからか。
それとも、わたしの心がフワフワ浮かれているからか。

 

「着きました! ビックカメラのお酒コーナーにいます」
19時25分にメッセージを送り、お酒コーナーに並ぶ数々のウイスキーを眺めながら待つ。待ち合わせは19時30分。永田町駅から赤坂見附駅方面のビックカメラに辿り着くのに苦労したけれど、なんとか間に合いホッとため息をつく。

 

ビックカメラのお酒コーナーには世界のウイスキーが勢ぞろいしている。
角瓶、トリス、ブラックニッカ、ジムビーム、ジャックダニエル。聞いたことがあるのはこれくらいで、棚にはその何倍もの種類のウイスキーが置かれている。
重厚な輝きを放つ瓶が並ぶ光景はなかなかに壮観だ。
この茶色の液体はいったいどれだけの人を酔わせてほがらかにし、心をほぐし、惑わせてきたのだろう。そんなことをボンヤリ思っているとあのひとがやって来た。

 

「お待たせ。では行きましょうか」
胸が高鳴った。仕事帰りに会うのははじめてだった。
あのひとは慣れた様子で繁華街に向けてまっすぐ歩き出した。
わたしは後を追いながら、あまりの嬉しさに顔がニヤケるのを抑えることができなかった。

 

いつも憧れていたあのひとから、突然誘いのメッセージが入ったのは今朝だった。
「おはようございます。ダメ元でのお誘いです」という文言から始まったメッセージは大人の配慮が行き届いたもので、それは平日の仕事で疲れたわたしの心にじんわりと染み渡った。
朝の7時にもかかわらず、メッセージを読み終わると度数の強いお酒を飲んだときのような胸がカッと熱くなる感じがした。今週は仕事がハードだったから週末は早く帰ろうと思っていたけれど、あのひとからのメッセージで疲れが吹き飛んだ。言葉にもアルコールのような浄化作用があるのだろうか。2時間ほど時間を置いてOKの返信を打った。即レスしようかどうか迷って、少し時間を置いて返信したのだった。

 

目的地はすぐ近くにあった。普通に歩いていたら素通りしてしまいそうなほどの控えめな店構えで、仄明るく照らされた看板にはかすみ草が添えられてあった。
お店は地下にあり、目的地に着いたところでわたしは急にドキドキしてきた。
意識しすぎちゃだめだ。いつも通りにふるまうんだ。
そう言い聞かせて階段を下り、重ためのドアを開けて中に入った。

 

「わたし、ウイスキーが苦手で。いつもビールばかり飲んでます」
この言葉がどうやらあのひとに火をつけたらしい。
あのひとはお酒が好きだ。どれくらい好きかというと、酒類メーカーに20年以上勤められ、ソムリエの資格も持っているくらいだ。わたしがこう言ったとき、あのひとは「それは美味しいウイスキーを知らないだけだよ! 美味しいウイスキーを飲めばきっとあなたも好きになるよ!」と興奮気味に言われ、わたしはちょっと驚いたのだった。

 

はじめてあのひとと出会ったとき、わたしはあのひとのお酒への並々ならぬ熱に圧倒され、憧れ、そして惹かれた。あのひとと面と向かって話す機会は少ししか無かったけれど、あのひとがわたしのことを好意的に思ってくれているのはなんとなく感じていた。メッセージが来たとき、うぬぼれではないとわかったから余計に嬉しかったのかもしれない。

 

お店は老舗のバーだった。
金曜の夜とは言え、まだ20時前なので店内はガラガラだった。
ここは平日夕方5時から深夜2時まで営業しており、作家の開高健が足繁く通ったバーとして有名なところだ。開高健といえば、ウイスキー。今日の誘いの主旨は「わたしに美味しいウイスキーを知ってもらう会」なのだった。
これまでわたしはバーというところに縁がなかった。控えめにBGMがかけられているものの、店内はとても静かでどれくらいの声量で話して良いのかわからない。あのひとは小さめなのによく通る声で、こういうところによく通うからそういう声を身につけたんじゃないかと思った。

 

「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
女性のバーテンダーさんが優しく声をかけてくれた。あのひとは慣れた手つきでコートを預け、予約した席へと向かう。わたしもまごつきながらコートを預け、おずおずと席へ向かう。
あのひとはL字型のカウンターのちょうど直角にあたる席を予約してくれていた。そこは開高健が座った「特等席」として有名で、わたしはさらに恐縮してしまった。わたしなんかがこんな良い席に座って良いのでしょうか。いいんですよ。そんな会話を交わした後、あのひとは優しく笑った。バーの中だとあのひとの優しさがより際立っているように感じる。

 

「はじめの一杯はいかがいたしますか」
いつも「とりあえずビール」と叫んでいたわたしは沈黙するしかない。今日はあのひとに委ねよう、だってそういう夜だもの、と思い目配せするとあのひとは嬉しそうにバーテンダーさんとあれこれ話をしはじめた。
お酒の種類と飲み方について聞いていると思われるが、まったくついていけない。
ホームステイ初日の留学生みたいな落ち着かない気持ちになりつつ、わたしはもうひとつの問題をいつ切り出そうか迷っていた。

 

「どういうのがお好みですか?」とバーテンダーさんに聞かれ、勇気を出して言った。
「あ……甘い飲み物が苦手です。それと、あの」
「ん?」
「……すみません、すっごくお腹が空いていて。何か食べるものありますか?」
バーでがっつりご飯を食べるなんて場にそぐわないことなんじゃないかと思ったけれど、すきっ腹にお酒を入れて迷惑をかけてしまったら元も子もない。
あのひととバーテンダーさんはフフッと笑った。笑われたのではなく「いい質問ですね」と言わんばかりの表情をして「特製のメンチカツサンドがありますよ」と言ってくれた。
その言葉と声は優しさに満ちていて、わたしの心にふたたびじんわり染みわたった。

 

バーって、優しい空間なんだ。
わたしはそう実感した。
この空間ではお酒が好きな人たちが、同じくお酒が大好きなバーテンダーさんとともに語らい、今日の気分や季節に応じたお酒を飲み、幸せなひとときに浸る。
幸せな人しかいないのだから、自然と物言いも優しくなる。
なんて素敵な空間だろう。まだ一口もお酒を飲んでいないのに、日ごろの疲れや黒い感情が浄化されていく感じがした。

 

結局、すきっ腹にウイスキーは危険だと判断し、はじめの一杯はフルーツのカクテルを作ってもらうことにした。
季節のフルーツを使ったカクテルで、提供されたのは巨峰のカクテルだった。あのひとはジンリッキーを頼み、ふたりで小さく乾杯する。

 

「美味しい……」
フルーツなので甘いだろうと思いきやそうでもなく、アルコールとのバランスが絶妙だった。自然と笑みがこぼれる。ビールの癖でついゴクゴク飲んでしまいそうになる。それはさすがに不作法だと思いなんとかこらえたが、すきっ腹にちょうどよく、はじめの一杯に最適なお酒だった。

 

メンチカツが来るまでの間、ピクルス、ミックスナッツ、チーズ盛合わせといった定番メニューをつまんで談笑する。カクテルのおかげで緊張がいくぶんやわらぎ、いつもの調子を取り戻すことができた。
他愛ない会話をはさみながらあのひとはお酒のことについていろいろと教えてくれた。
ジントニックとジンリッキーの違い。ウイスキーとひとくちに言っても、ジャパニーズウイスキー、スコッチ、バーボンはそれぞれ原材料も作り方も微妙に違うこと。ウイスキーの飲み方について。
わたしはただうなずくばかりで、微妙な相づちでしか応えられない。

 

お酒は一丁前に飲む癖に、「はぁ」とか「ほぉ」とかしか言えなくて情けない。
あのひとはつまらなく感じてないだろうか。「大人としてなっとらん」とか思われてないだろうか。少し不安を抱えつつあのひとの会話に合わせているといつのまにかお互い一杯目を飲み干していた。
二杯目にようやくメインのウイスキーを飲むことになった。

 

さきほどのバーテンダーさんがわたしの好みを丁寧に聞いてくれる。
「ウイスキーのクセの強い感じが苦手で、飲みやすいものが良いです」
「わかりました。それではこちらはいかがでしょうか」
ふたりの前に差し出されたのは「グレンモーレンジィ・ネクタードール」というスコッチウイスキーだった。
あのひとは顔を輝かせている。
「このウイスキーはオリジナルのものを10年熟成した後に“貴腐ワイン”と言われるソーテルヌワインの樽に移し替え、さらに2年寝かせたウイスキーです。ウイスキーなのにクセがほとんどなくて飲みやすいと思いますよ」
バーテンダーさんにそう言われ、わたしは圧倒されてしまった。
日本語だったのにまったく頭に入らず、とにかく飲みやすいウイスキーだということしかわからなかった。あのひとからもう一度解説を受け、熟成されたウイスキーをもう一度寝かせた手間のかかったものなのだということがわかり、わたしは期待に胸をふくらませ「それでお願いします!」と叫んだ。

 

飲み方を聞かれて戸惑ったが、メンチカツサンドと相性の良いハイボールにしてもらった。
ウイスキーと同時にタイミングよくメンチカツサンドも出来上がり、ふたたび小さく乾杯した。

 

「……美味しい! すごく飲みやすい!!」
いままでハイボールは苦くてクセの強いもの、という思い込みがあった。あのひとの言う通りだった。わたしは美味しいウイスキーと美味しい飲み方を知らないだけだったのだ。
「そうでしょう?」
あのひとはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。とてもイキイキした顔をしている。わたしは完全にあのひとの思うつぼにはまっていた。こんなに美味しいハイボールを飲んだのは、生まれてはじめてだった。

 

メンチカツサンドも絶品だった。肉厚なメンチカツが香ばしいトーストでサンドされ、これがハイボールにぴったり合う。メンチカツ、ハイボール、メンチカツ、ハイボールの往復が止まらず、わたしは自分が空腹だったことを思い出した。このままずっとこの往復を繰り返していたいと思った。

 
なんて幸せで、贅沢なひとときだろう。
あのひとは大好きなお酒が入ってとても上機嫌である。
わたしも美味しいお酒と美味しいご飯に癒され、心身ともにほぐされている。
まわりを見ると店内はお客で埋まっていた。
みんなお酒が入ってほがらかな表情で、とても幸せそうである。

 

わたしは自分の知識のなさに悔しさを感じていた。
この幸せな空間は、やっぱりお酒の知識があったほうがもっと居心地の良いところになる。
このバーではバーテンダーさんを船長として、お客が仲良く舵を取り合い幸せの航路を進んでいる。
はじめて乗船したわたしは船にしがみつくばかりで何もできない。それが本当に情けなくて悔しかった。

 

でも、あのひとの上機嫌な顔が見られたのはとても大きな収穫だった。
あのひとは杯を増すごとに饒舌になり、わたしの情けなさを覆い隠してしまうほどの知識量でお酒への愛を語ってくれた。
このひとは本当にお酒が好きなんだなぁ。
わたしは心からそう思った。そして、お酒を語るときの表情は、すごく色っぽかった。

 

自分の心から好きなものを語るとき、つい熱くなってしまうことがある。
そして熱くなりすぎると何から語れば良いか一瞬わからなくなり、言葉にちょっと詰まることがある。
あのひとは、そういうときの「溜め」の表情をしていた。
このお酒が好きだ。このお酒の魅力をどうしても伝えたい。でもどうやったらもっと伝わるだろう。
相手への配慮と自分のお酒への愛が最高潮に達すると、そんな「溜め」の瞬間ができるのだ。「溜め」の表情はどこか恍惚としていて、瞳が輝いていて、愛という名のエネルギーが全身にみなぎっていてイキイキしている。
あのひとの「溜め」の表情は、さらにわたしを惹きつけたのだった。

 

気がつくと時計は22時を回っていた。
グラスを4杯空にしたので、そろそろ解散することにした。
あのひとはスマートに会計を済ませてくれた。わたしはそのスマートさと厚意に大いに恐縮しつつ、丁重にお礼を述べた。

 

来たときはあんなに緊張していたのに、帰りはとてもほがらかな気持ちで夜の赤坂を闊歩した。
あのひとは「よく飲んだねぇ」と言いながら笑った。わたしは満面の笑みで「そうですね!」と返した。駅前で別れ、わたしは贅沢なひとときの余韻に浸りながら電車に乗り込んだのだった。

 

「色気」とはなんなのだろう。
わたしの人生経験では、こういうものだとひとことで語るのはまだ難しい。
けれど「色気」というものを考えたとき、わたしは金曜の夜の赤坂を思い出す。

 

お酒を語るときのあのひとの表情はすごく色っぽかった。
お酒への愛が詰まったあの空間。お酒が好きなあのひとの愛。愛を語るときに垣間見える「溜め」の表情。

 

「色気」の素は、おそらく「時間」なのだと思う。
自分の好きなものに愛を注いできた時間。愛を熟成させた時間。
でもこの時間がどうやって「色気」になるのかは、わたしはまだわからない。

 

わたしは自分の人生をもっと熟成させて、色っぽい「溜め」を作れるような人間になりたいと思った。

 

※参考記事
「ウイスキーノート グレンモーレンジィ・ネクタードール」

【ソーテルヌワイン樽】グレンモーレンジィ・ネクタードール(GLENMORANGIE NECTAR D’OR)

※「あのひと」の記事(松尾さん、どうもありがとうございました)
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❏ライタープロフィール
ライタープロフィール
たけしま まりは(READING LIFE公認ライター)
1990年北海道生まれ。國學院大學文学部日本文学科卒業。高校時代に山田詠美に心酔し「知らない世界を知る」ことの楽しさを学ぶ。近現代文学を専攻し卒業論文で2万字の手書き論文を提出。在学中に住み込みで新聞配達をしながら学費を稼いだ経験から「自立して生きる」を信条とする。卒業後は文芸編集者を目指すも挫折し大手マスコミの営業職を経て秘書業務に従事。
現在、仕事のかたわら文学作品を読み直す「コンプレックス読書会」を主催し、ドストエフスキー、夏目漱石などを読み込む日々を送る。趣味は芥川賞・直木賞予想とランニング。READING LIFE公認ライター。

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2018-12-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.12

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