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お金の代わりにみかんをもらった私の小さな仕事《週刊READING LIFE Vol.62 もしも「仕事」が消えたなら》


記事:久保田真凡(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

午前8時。
「さて、今日は何をするかな……いや、何もしないのか」
 
電車で30分の職場に通勤する夫と、自宅から2キロの保育園に通う子供たちを送り、自宅で1人コーヒーを淹れた。こんな時間は久しぶりだ。
 
私は普段、法律事務所に勤めている。
今日は珍しく平日の休み、特に予定は立てていなかった。というのも、ここのところ予定を詰め込み過ぎていて、少し疲れていたからだ。
 
何もしないために休みをとった。何もしないと決めた自分がどういう時間の使い方をするのか少し興味もあった。
 
まず私が一番にしたことは、溜まった洗濯物を回すことだった。そして洗濯物を回している間に家の掃除をした。もともと掃除が好きな私、「今日はいつもよりこまめに、毎日はしない換気扇や玄関も掃除するか」そんなことを思っていると、洗面から洗濯が終了したことを知らせる音が聞こえてきた。
 
私は掃除を中断し、洗濯物を干した。そしてまた掃除へ。
なんだかんだ掃除に集中してしまい、ふと時計に目をやると10時が近づいていた。スーパーが開く時間である。午後を有効に使おうと、いつもなら夕方仕事帰りに寄るところ今日は早めにスーパーへ。午前中のうちに夕飯の支度を済ませることにした。
 
夕飯の支度は楽しかった。いつもより、心と時間にゆとりが持てた。心にゆとりが持てたので、スープの冷めない距離に住む夫の実家に、煮物を持ち込んだ。義母は喜んでくれ、代わりに義母の実家で作っているみかんを持たせてくれた。
 
午後は出産を控える妊婦の友人が、腰が冷えて困るというので、定期的に鍼灸に通う私は線香灸を薦めようと分かりやすい動画を探して、それを送った。ついでに小豆カイロがあったら良いだろうなと、家にあった余り布で小豆カイロを作り、簡単にラッピングをした。
 
そんなこんなで子供たちを保育園に迎える時間がやって来た。保育園に向かう道中に小豆カイロを届けると、針仕事が苦手な友人は喜んでくれた。そして、自宅に帰ってきた子供たちは、いつもより少し整った家にテンションが上がっている様子だった。
 
何もしない休日は、いつもと変わらない日常を、「誰か」を思いながらいつもより丁寧に過ごした。
 
私はこの日「仕事」を休んだ。仕事はしなかったが、誰かの役に立つ生産活動は行ったのだろう。お金は得られなかったけれど、たくさんのありがとうと、少しのミカンと、子供の笑顔を得ることができた。
 
「あなたの仕事は何ですか?」
そう聞かれたら、私は迷わず「法律事務職員です」と答える。けれど、本当にそれだけが私の仕事なのだろうか?
職場ではボスに感謝もされるし、仕事の対価として給料も支払われる。そのお金があって、生活が出来ていることは否定しない。
 
けれど、仕事の定義を「誰かの役に立つ、もしくは誰かに感謝をされる生産活動」とするならば、世の中は……少なくとも私の身の周りには仕事で溢れかえっているようにも思う。仮にそれが給料の発生しない仕事だったとしても、私がミカンを得たように、何かしら形になって対価は得られると思うのだ。必要なところに必要なものを届けることが出来れば、その内容の大小は問わないのではないか?
 
現に、私は夫の実家から毎週大量の自家菜園で作られた野菜をもらっていて、親戚からはお米をもらっている。息子の服は、知人の子供のお下がりをもらう。そしてそのお礼として、夫の実家にはもらった食材で作った料理を届けたり、友人には娘のサイズアウトした服を譲ったりしている。サービスという観点で言えば、アナログの世界から抜けきれない義理の両親に代わってインターネットでの手続きや、大きく括ってデジタルなことは対応することが多い。
 
誰かの役に立つ、誰かに感謝される生産活動が仕事だとするならば、自分の特性を知り、自分が重宝される場所を見つけるといいのだろう。
 
例えば、私が勤める法律事務所には女性弁護士がいるのだが、彼女には離婚事件の依頼が多い。もちろん、その他の民事事件もそつなくこなす彼女ではあるが、法曹界には30代40代の女性弁護士が少ない。
離婚を考える30代40代の女性が、夫との不仲の事情や離婚についての諸々を話す時、夫婦の在り方が全く違う時代を生きてきた50代60代のベテランの男性弁護士と、経験が10年前後の女性弁護士とどちらを選ぶかと言われると、後者と考えるのは自然なことだろう。
彼女は自分の特性を活かすことができる場所を知っている。
 
自分が得意とすることを、それを苦手とする人たちに提供すれば感謝の度合いは大きい。それが仮に小さなことだったとしても喜ばれる。
 
このようにしながら、小さな自己効力感を少しずつ積み上げていくこともまた、仕事には必要だと思う。
 
自分に能力があると感じることが出来る人は、能動的に行動することが出来る。小さな子供がひとたび皿洗いを覚えると、お母さんを喜ばせたいがために意欲を持って盛んにお手伝いをするように、貢献感と自己効力感は人が働く時の原動力になると思う。
そういった自己効力感の積み重ねのスピードを上げるには、自分を必要とするコミュニティや自分の特性を活かすことができる場所を選ぶことが大事ではないか。
 
ありとあらゆるツールが整っており、それを扱う技術を持つ人も十分にいて、働き方が多様なこの時代においては、およそ働くことと生きることは同義であると思う。
誰もが直接的か間接的か、各々の足りない部分を補いながら、支え合って生きているのである。
 
仕事とはお金をもらうことではなく、自分の価値を他者に提供し、徹底して貢献することである。誰かの役に立つことで「ありがとう」をもらい、自己効力感を育てる。そして、その豊かな心がまた原動力となり社会に貢献することができるという、その繰り返しのような気がする。
 
仕事は消えない。誰かの役に立つ生産活動は目の前にたくさん転がっているからだ。それを仕事と捉えるかどうかは本人次第である。
そう思うと、明日会社が倒産しても、会社をクビになっても、いつからでもどこからでもリスタートできる気がする。恐れる必要はないし、チャレンジするのも楽しいだろう。
 
私は「ありがとう」をもらうために、明日も働く。

 
 
 
 


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