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株式会社ドッペルゲンガー

第4話 「鬼才の筆致」《小説連載「株式会社ドッペルゲンガー」》


Web READING LIFEにて、新作小説の連載がスタートいたします!
 
近未来の日本で、最新科学技術で作り出した自分そっくりのアンドロイドを使用する人たちの群像劇。
 
編集長も太鼓判の作品です。ライター・吉田けいが創り出す、ダークな世界観をお楽しみください。

第3話はこちら!

第3話 「俺たち、家族だろ」《小説連載「株式会社ドッペルゲンガー」》

記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 

「──お会いできまして光栄です、蔵部遊助先生」
 
その男は、僕の全身を上から下までじっくり観察した後、ゆっくりと微笑んで右手を差し出した。僕も反射的に右手を出して握手を交わす。がさがさした、嗄れた、血管の浮いた手。手を離すと名刺を渡してきて、代わりに僕の名刺を受け取った。
 
株式会社ドッペルゲンガー、代表取締役社長、榑屋敷玄朔。
 
「読めませんよねえ、私の名前」
 
男は慣れた様子で笑い声を上げた。
 
「くれやしき、げんさく、と読みます。陰気な名前でしょう」
「いえ、そんなことは」
 
反射的に否定をしたが、男──榑屋敷は軽く肩をすくめただけだった。僕が座るように促すと、応接室のソファーに沈み込むようにゆっくりと座った。
白髪の多いグレーの髪を短く刈り込んでいる。中肉中背というには、やや線が細すぎるか。皺のない、華もないモノトーンのスーツとネクタイ。手と同じで嗄れた、初老の男の顔。細い眼鏡の奥に見える、下がった目尻と、たくさん刻まれた皺。
僕も向かいのソファーに座るのを見計らって、榑屋敷が口を開いた。
 
「私ねえ、昔から蔵部先生の漫画のファンなんですよ」
「それは、ありがとうございます」
「異界フロンティアの頃からでしてね」
「そんな前からですか」
 
異界フロンティアは僕の商業誌デビュー作だ。もう三十年近く前になるだろうか。あの頃はやる気と体力しかなくて苦労したなあ。榑屋敷はゆったりとした口調で異界フロンティアの感想を言い、僕はそれに相槌を打った。
 
「ありがとうございます、榑屋敷さん。……それで」
 
老人の顔が、懐古を慈しむ元少年の顔から、ビジネスマンの不敵な表情に変わる。
不敵な、というより、不可思議な、という方がしっくり来るだろうか。
 
「僕のドッペルゲンガー、……お作りいただけるんですよね」
 
僕のソファーの横に、僕とつながれた点滴のスタンドが立っている。
ぽたり、ぽたりと薬品が垂れる音が聞こえてきそうなほど、病院の応接室は静かだ。
 
「勿論です。きっとご満足いただけるドッペルゲンガーをお作りして見せましょう」
 
榑屋敷は、両手を組んで膝の上に置くと、口の端を上げて微笑んで見せた。

 

 

 

僕が蔵部遊助としてこの世に誕生したのは二十歳の頃だ。高校を卒業する頃にはいくつか賞を取ったことで担当がついていて、晴れて連載開始を機に本名からペンネームに変えた。本名は倉辺雄介だから、読みはどちらもくらべゆうすけ、ただ漢字を変更しただけ。単純だけど気に入っていて、それ以来ずっとこの名前だ。
 
嬉しいことに、僕には漫画の才能があったようだ。インターネットで誰かが「蔵部遊助はトキワ荘の生まれ変わり」と発言してあっという間にバズを起こし、それが僕の代名詞となった。昭和古典マンガの代表と言われる手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、天才たちがひしめき合っていたトキワ荘。僕はその中の誰かでなく、トキワ荘そのものの生まれ変わり、と言われた。それは僕が原稿を書くスピードが異様に早かったことと、子供向けからエログロまで、いろいろなジャンルでいろいろな作風を描くことが出来たからだと思う。僕はこの時代の漫画家なのに、ペン入れまではすべてアナログで作成していた。プロになる前は効果や仕上げもすべてアナログだ。それでもデジタル原稿より早く描けるのは、下書きを一切しないで、いきなりペン入れ出来るからだった。
 
真っ白な原稿用紙を見ていると、登場人物の顔や動きが、セリフが、コマ割りが、次々と思い浮かんで止まらなくなる。メモなんてしていたら間に合わない。とにかく急いで、イメージが消えないうちに急いで書き留めているような感覚だ。僕の認識では、ペンで原稿用紙を一通り撫でると、もうそれが完成原稿になっている。描いている間のことはよく覚えていない、熱に浮かされているというのはこういう状態なのだろうか。子供の頃から絵を描くと時間を忘れて没頭していたけど、それが漫画になってから更に酷くなった。でも速く描くから雑というわけではない。書き込みと余白のバランス、デフォルメや筆跡のタッチの絶妙さ、シナリオやセリフ回し。自分で言うのもなんだが完璧だ。惚れ惚れとするような仕上がりだ。デビューするまではその勢いでスクリーントーンやベタ塗りなどもアナログでやっていたが、アシスタントを付けてもらってからは、そこから先はデジタルでやってもらっている。でも、どんなに頑張っても、最初からデジタルで描くと思うように手が動かなかったし、出来上がったものも自分で面白いと思えなかった。だから僕は割り切って、「アナログトキワ荘」の道を究めることにしたのだ。
 
一人の漫画家が刊行した冊数のギネス記録は、石ノ森章太郎の500冊、手塚治虫でも300冊。200冊でもまだ数人しかいないという。平成以後の漫画は、美麗になった分、どうしても掲載ペースが遅くなってしまったけど、僕は時代に合った絵柄を維持しながら驚異的な速さで描いて描いて描きまくり、今年とうとう300冊を超える計算になった。漫画の神様を超えてしまうなんて恐れ多いが、「アナログトキワ荘」としては、偉大なる先輩方の遺志を引き継いで、ギネス記録に挑戦したい、なんて思ってしまう。そうやって頑張っていると、紫綬褒章とか、人間国宝なんて言われたりするけれど、僕はただ、漫画が描きたい、もっともっと面白い物語をみんなと共有したい、そんな気持ちでいっぱいだった。
 
「お父さん、ごはんだよ!」
 
原稿に没頭していると、息子に声をかけられて我に返った。三人兄弟の末っ子、努だ。今年で小学校五年になる。声をかけたものの、キラキラした目で僕の机を覗き込んでくる。僕は僕でそのまま書き続ける。集中が途切れるとアイディアも消えてしまうので、声をかけてからその原稿を書き終えるまでは待っててもらう約束になっているのだ。
 
「……よし、終わり。お待たせ、努」
「お父さん、今書いてたのは何の原稿?」
「これは来月のヤングヤングに載せるやつだよ」
「ちぇー、ステップじゃないのかー」
 
努の年頃はいつの時代も週刊ステップが大人気、僕の連載も友達の間で大好評らしい。発売前の物語を見られないように気を付けていても、ご飯を知らせに来てくれる子供たちから原稿をすべて隠すのは難しい。いや、こいつらは確実にそれを狙っている。その証拠に、努に連れられてマンションのワンフロア上の自宅スペースに行くと、長男で高校生の勇、次男で中学生の治がバタバタと駆け寄ってきた。
 
「努! 今日の原稿なんだった!?」
「ヤングヤングのやつだって!」
「うわーなら惑星ニビル伝だ! 見たいー! どうなってた!?」
「ぼかーんってなってた!」
「それじゃ分かんねえよ!」
 
僕のことなんかほったらかしで、男子三人、玄関で大騒ぎ。毎日毎日、電話もメッセージにも気が付かない僕を食卓に呼びに来るのを口実に、僕の連載の続きを盗み見したくてたまらないのだ。あまりにも頻繁に仕事部屋にやってくるので、ごはんを呼びに来るときだけ、一回につき一人だけ、行くのは兄弟で順番、お父さんの原稿作業を見てていいのはその時描いてた一枚だけ、と妻がルールを決めてくれた。そんな妻の香織が、ダイニングから顔を出し、ほらほら、と三兄弟を呼んだ。
 
「アンタたち、玄関で団子にならないの! お父さんまだ仕事するんだから、はやくみんなでご飯食べましょう」
「はーい」
「親父、後で惑星ニビル伝の続き教えて!」
「あっずるい父ちゃん俺も!」
「ほらほら、ごはんだぞ、三人とも」
 
子供たちは僕のことを一応お父さんと呼ぶが、その様子を見ている限り、父というよりは憧れの漫画家として接されているような気がしてならない。でもまあそれも仕方ないのかもしれない、僕は漫画を描いてばかりで家のことなんて全然できなかったから。でもそのおかげか、反抗期とかで僕に生意気な態度を取ることもなく、いつもどこか嬉しそうに、興奮したように話しかけてくれる。漫画を描くと、無条件に息子が尊敬してくれる。こんなありがたいことはないなあ。
キッチンに入ると、食卓の横に、スーツの男性が申し訳なさそうに立っていた。講英館の僕の担当さんだ。僕と目が合うと、慌てて背筋を伸ばしてからぴょこぴょことお辞儀をする。
 
「やあ、遠藤くん」
「先生お邪魔しております。そろそろヤングヤングの原稿が仕上がる頃かと思い伺いました。奥様のお言葉に甘えて、ご夕食ご一緒させていただきます」
 
僕より一回りも二回りも年下だろうか。僕は編集さんとの打ち合わせは一切なしで漫画を作成するし、締切に遅れたこともない。なので、新人編集者の育成にはぴったりらしい。僕の近くで僕の迫力を感じることが、他の漫画家さんとの打ち合わせに役に立つんだとか。ホントかなあ。
来客が多いので大きいテーブル。僕と香織、三兄弟、遠藤くん。おかずは香織特製とんかつだ。それぞれに配膳された分と、真ん中の大皿にもどっさり。
 
『いただきまーす!』
 
三兄弟は我先に席について、猛烈な勢いで食べ始めた。真ん中の大皿は自分の分を食べ終わったら食べていいことになっている。食べ盛りの少年たちは一枚でも多くとんかつを手に入れようと必死なのだ。ああこんなシーンをどこかの漫画で描きたいなあと思いながら、僕もとんかつを食べた。香織のごはんはいつ食べても美味しい。
 
「今日も美味いな」
「よかった! あなたもいっぱい食べてね」
 
香織はもとは小学校の同級生、幼馴染だ。二人とも漫画が好きでよく話をするようになった。図書館で顔を寄せ合って読んだり、お互いが持ってる漫画を交換で貸したりして、たくさん漫画談義をした。僕が描いた漫画を最初に読んで、ゼッタイ漫画家になりなよ! と背中を押してくれたのも香織だった。ずっと僕を応援してくれているなと思ったら、気が付いたら僕の奥さんになっていて、三人の子供のお母さんになっていた。身の回りのことは全部やってくれて、本当にありがたい。
誰が食った、あいつが一枚多いと賑やかな三兄弟を眺めながら描きかけの漫画のことを考えていると、先生そういえば、と遠藤くんが声をかけてきた。
 
「先生はドッペルゲンガーってご存知ですか?」
「ドッペルゲンガー? オカルトで自分と同じ人物が現れるってやつだっけ。そんなタイトルの漫画あったっけな」
「あはは、違いますよ。今、そういうアンドロイドが流行ってるんです」
「アンドロイド?」
 
僕が聞き返すと、遠藤くんはそうです、と頷いた。香織も何食わぬ顔で会話に聞き耳を立てているようだ。
 
「自分そっくりの外見と、自分の人格を移植したAIをもつ、もう一人の自分だそうですよ。記憶を共有することもできるそうです」
「あ、それ俺知ってる! シャインちゃんがやってるやつ!」
 
勇がとんかつを食べようと口を開けた姿勢のまま会話に加わってきて、その横から治に箸の先のとんかつをがぶりと食べられてしまった。
 
「あー! 何すんだよ!」
「うっせ! にーちゃん独り占めすんな!」
 
……目も当てられない大騒ぎだ。まだ口論しているだけなので止めなくていいか、と大人三人が顔を見合わせると、僕も知ってるよ、と努が話しかけてきた。
 
「シャインちゃんのそっくりさんを作ったって、ネットニュースで見た!」
「シャインちゃんってよく見かけるアイドルの子だろ? そんな子もやってるんだな」
 
努の言葉に、やたら遠藤くんが感心している。もしかしてファンなの? と香織が茶々を入れたが、遠藤君くんはいや、違うんです、と首を振った。
 
「ドッペルゲンガーの方ですよ。先生の本の担当営業の神田が、最近ドッペルゲンガーを購入したらしくて、社内で話題になってるんです」
「へえ、神田さん。一度お会いしたなあ」
「はい、神田の奥さんも弊社の社員で、子供の面倒だとか家事だとかをドッペルゲンガーにさせて、二人ともフルタイムで働いてるんです。話を聞くにすっごいよさそうなんですよ」
「なに、それをネタに僕に新しい連載描けってこと? 遠藤くん無茶ぶりするなあ」
「いやいや、そうじゃなくてですね、先生」
 
遠藤くんは箸を置き、茶碗を置き、背筋を正して僕の方に真っ直ぐ向き直った。
ちょっと嫌な予感がする。
 
「先生のドッペルゲンガー、お作りになりませんか」
 
ほらみたことか。僕も顔をしかめて、箸と茶碗をテーブルに置いた。
 
「先生、ただでさえお忙しいですし、腱鞘炎も腰痛もちっとも治らないじゃないですか。目もお疲れで眼精疲労が酷いと聞いています。ドッペルゲンガーを作って、作業を分担して、少しお体を休めたらどうかと思うんです」
「そうだね、遠藤くん、いいこと言った!」
 
香織がここぞとばかりに便乗してくる。やれあなたは睡眠時間が少なすぎる、偏食で野菜を全然食べないからもっと食べろ、もっと運動しろ、晩酌を控えろ……お小言が次から次へと並んでくる。遠藤くんも、仕事が早いのはありたいがお歳を考えてほしい、と更に追撃してきて、我慢していた僕の堪忍袋の緒が切れた。
 
「二人ともうるさい! 僕はそんなけったいなもの作らない!」
 
大声で怒鳴ると、香織と遠藤くん、それから三兄弟までピタッと静かになる。
 
「僕はデジタルで描けないんだ、嫌いなんだ! アンドロイドなんかに僕と同じように漫画が描けるわけない! 今でも十分描けてるんだからいいじゃないか!」
 
僕はアナログトキワ荘の蔵部遊助だぞ。せっかく美味しいとんかつだったのに、これじゃ気分が台無しだ。子供たちだってとばっちりを食らって鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてるじゃないか。もう食事なんかしていられない。
 
「……仕事に戻る」
 
精一杯冷静な声を出して、僕は立ち上がり、玄関を目指して歩き始めた。まったく、胸糞が悪い、気分直しに何か昔の漫画でも読むか。玄関で靴に手を伸ばし、足を入れながら立ち上がる。ドアノブに手を伸ばそうとしたが、何かに引っ張られて、手はドアノブの前の何もないところを掴んだ。
 
あれ。
 
ものすごい引力で、身体が地底に引きずり込まれていく! なんだこれは! 体勢を崩して振り返ろうとすると、視界がどんどん暗くなっていく。なんだこれは……。
 
すべてが真っ暗になり、強烈な衝撃が頭いっぱいに走り、僕の意識はそこで途切れた。

 

 

 

──ピッ、ピッ、ピッ……
 
どこか遠くから電子音が聞こえているな。なんだろう、規則正しい、でも時計の音とは違うようだ。僕は何をしていたんだっけ。深い水の底から水面に上がるときのように、視界が明るくなるのを感じる。
 
「あっ! 父ちゃん起きた!」
 
すぐ横で少年の声がして、僕が目を開けると、白い天井が見えた。そこからすぐに次男の治が僕の顔を覗き込んでくる。昨今では珍しい詰襟の、中学校の制服だ。ひどく驚いた顔で、すぐに首を引っ込めると、母ちゃん、看護士さん、父ちゃん起きた! と慌てふためいてどこかへ行ってしまった。
 
……だいたい察しがついた。こんなシーンは何度も漫画で描いた。僕はきっと倒れて意識昏倒して、病院に運ばれて、今目が覚めたところなのだ。果たして何日くらい眠っていたのか。治の様子を見る限り、何年も経っていた、というわけではなさそうだ。あたりを見回すと、どうやらどこかの大病院の個室のようだった。左腕には点滴の針、その横でポタポタしている点滴とそのスタンド。ベッドの横にはリビングのような空間、簡易ベッド。いわゆる貴賓用の特別室といったところか。開けっ放しの扉の向こうからドタバタと大騒ぎが近づいてきて、治、香織、看護士、医者、それから遠藤くんが飛び込んできた。
 
「先生! 申し訳ありませんでした!」
 
遠藤くんはギャグマンガみたいな勢いで、僕のベットの前でガバッと土下座した。
 
「私が軽率なことを言ったばかりに! 先生に何かありましたら、僕は全人類に恨まれてしまいます! 本当に申し訳ありませんでした!」
 
香織も膝をついて、はらはらと涙を流す遠藤くんの背をさすってやっている。
 
「遠藤くん、ずっと自分のせいだって、三日も泊まり込んでてくれたのよ」
「そうだったのか。心配かけたね、遠藤くん」
「先生……! ご無事でほんっとうに良かったです……!」
 
今度はオイオイと男泣きする遠藤くん。いちいちリアクションが漫画くさいな。僕が苦笑いしていると、今度は香織が口を開いた。
 
「……今回は特に異常なしで、過労だろうって。血圧が高いから、次は心筋梗塞か、クモ膜下か、脳梗塞か、どれが来てもおかしくないって」
 
……香織、迫力あるなあ。僕がタジタジとしていると、医者と看護士が僕にいくつか質問したり、目や脈や呼吸の様子を確認したりした。遠藤くんはその間ずっと男泣きしていて、さすがに気の毒になって声をかける。
 
「遠藤くん、心配かけたね、もう大丈夫だよ。三日ならカラー扉をやめれば休載しないでいけると思う」
「はい、仰る通りです、すぐ準備いたします」
 
涙でぐしゃぐしゃの顔だが、返事は嬉しそうだ
 
「よし、僕も早く退院して頑張らないとな」
「ねえ、父ちゃん」
 
僕の目覚めの第一発見者、治は少し離れたソファーに座って一部始終を見守っていたが、遠慮がちに声をかけてきた。持っていたスマホをテーブルに置いて、僕のベッドまでやってきた。ちょっと前に生まれた気がするけど大きくなったなあ。そんなことを考えながら息子の顔を見ていると、あのさ、と治は切り出した。
 
「今言うの、アレだと思うけどさ、父ちゃん、作りなよ、ドッペルゲンガー」
「ん?」
「治くん!」
「治、その話は」
 
遠藤くんと香織が色めきたつが、治はそれにひるまず、僕をまっすぐ見据えて続ける。
 
「オレさ、父ちゃんの身体も心配だけど、父ちゃんの漫画大好きなんだよ。死んじゃわなくても、病気とか怪我とかで描けなくなったりすることもあるかもしれないじゃん。オレ、父ちゃんが病気すんのも、漫画読めなくなるのも嫌だ」
「治……」
「父ちゃんもさ、好きな漫画家さんが死んじゃうと、もう続きが読めないって泣いてたじゃん。オレにとって、父ちゃんの漫画、世界で一番楽しみにしてるんだよ。続き読めないなんてやだよ」
 
確かに、尊敬する漫画家の訃報を聞くたびに胸が張り裂けるような思いがしていた。手塚治虫は病床でもモルヒネを打ちながら原稿を書き、完成させたいと泣いていたという。今回は何事もなく目覚めることが出来たけど、半身不随とかになっていたら、もう僕の絵で漫画を描くことはできなくなってしまう。もう漫画を描けないかもという恐怖は、死や病気よりもずっと重く僕の心にのしかかった。
 
「……分かった」
「ホント!?」
「やったー!」
「お父さーん!!!」
 
僕が頷いた途端、部屋の入口から勇と努が飛び込んできた! 治と一緒になって肩を組んでピョンピョン跳ね回り、やったやったと雄叫びを上げている。僕、遠藤くん、香織が呆然としてその様子を眺めていると、ごめん、と勇が泣き笑いしながら頭を下げた。
 
「実はさ、親父が倒れた時に、三人で話してたんだ。親父が元気になったら、親父のドッペルゲンガーを作ってもらおうって」
「勇にいちゃんが電話して、待っててくれたんだよ! お父さんが目が覚めたら、すぐ来てくれるって!」
「……待ちなさい三人とも、それって」
 
香織が顔色を変えるのと、コンコン、と入り口の扉がノックされるのは、ほぼ同時だった。来た! と三兄弟は興奮した様子で入り口に駆け寄る。扉の外、廊下へと続く空間に立っていたのは、白髪交じりの短髪の男。
 
「──ご連絡をいただき、急ぎ参りました、株式会社ドッペルゲンガーと申します」
 
細い眼鏡の奥の瞳が、かすかに光ったような気がした。

 

 

 

病院の貴賓向けの個室というのは応接室もついてるんだな。資料としては知っていたけれど、実際に自分で使うのは初めてだ。株式会社ドッペルゲンガーの社長、榑屋敷玄朔と向かい合い、僕の漫画の話を一通りした後、僕から本題を切り出した。
 
「……自分で言うのも恐縮ですが、僕の漫画はアナログで、僕の右腕の技術がすべてです」
「それはもう、存じております」
 
榑屋敷は底の知れないような、人当たりのよさそうな笑みを浮かべて頷いた。くれやしき、という苗字もあまり聞かないし、何だか掴みどころがない。僕は意味もなく気圧されてしまったが、負けじと言葉を続ける。
 
「人格をAIにコピーすると言っても、土台は普通のアンドロイドなんでしょう。僕の右腕と同じように、細密な作業が出来ないと、作る意味はないんです」
「ご心配はもっともだと思います。先に不躾なことを申し上げますが、もし蔵部先生と同等の性能を持つアンドロイドをご用意できるのであれば、ご予算はいかほどでしょうか」
「お金なんていくらでもいいよ、使わなければ税務署に持って行かれちゃうだけだから。でも、今からそういう技術を作るんだと、時間がかかるんじゃないの?」
 
僕たちのやり取りを横目に、香織がテーブルにお茶を置いてくれた。遠藤くんは部屋の隅の方にこぢんまりと立っていて、三兄弟は扉の向こうから出歯亀しているのだろう。
どうせドッペルゲンガーを作るからには、納得のいく性能で作りたい。僕の畳みかけるような質問に、榑屋敷は逆に満足そうに頷いた。
 
「先生の筆致を再現するために、医療用ロボットの技術を応用するプロジェクトを立ち上げております。遠隔で脳や心臓の複雑な手術をする時に使うような、最先端の技術です」
「ロボット? アンドロイドではなくて?」
「はい、現行のアンドロイドでは、おそらく先生の筆致の微細な差を再現しきることができないでしょう」
 
榑屋敷は鞄から資料を取り出し、テーブルの上に広げた。人形を分解して並べたような図面に、何やら細かい注釈が描かれている。
 
「アンドロイドの腕パーツは、人間でいう肩甲骨あたりから取り外せるのですが、そこを丸ごと医療ロボットアームにすげ替え、専用のプログラムを構築させていただきます。ドッペルゲンガーを稼働させる前に、蔵部先生が執筆なさっている様子を遠隔モニタリングし、先生の筆致の再現性をご確認いただきます。もちろんご不満があれば微調整し、ご満足いただける状態になってからドッペルゲンガーとして組み立てます」
「なるほど……」
 
医療用ロボットの進化は目覚ましいもんな。人間の何百倍もの精密さで、脳や血管の細かな手術をこなしていくと聞く。しかも、その操作を人間の医師がすることもできるんだっけ。人間は拡大されたバーチャル術野で悠々と執刀する。その動きを縮小することで、ゴッドハンド医師でなくても超精細リアルタイム手術ができるようになった。前に医療漫画を描きたくて取材した時でも素晴らしい技術だったから、今はもっと進化しているんだろう。
 
よし。
僕と、僕の物語を守るためだ、今が決め時だ。
 
「分かりました。出来るだけ早く完成させてください」
「承知いたしました」
 
榑屋敷は、あの謎めいた微笑みと共に、ゆっくりと頭を下げて見せた。

 

 

 

僕が倒れていたことは極秘扱いされていたようだが、目が覚めてからその情報が解禁された。ついでにドッペルゲンガーを作ることになったことも大々的に報道されてしまい、完成までを密着取材するドキュメンタリー番組が組まれることになってしまった。
 
無事退院できて、香織にさんざん言われ、仕事を少しだけセーブした。今抱えている連載以外に新しい仕事は入れないようにして、カラーもすべて断った。それだけでも少し余裕ができたから、あれ、これだけでよかったんじゃないかな、と時々思ってしまうが、ドキュメンタリー番組はそうもいかないようだ。
 
「では、先生がテストしているところを録らせていただきますー」
 
榑屋敷は、自分自身が画面に入ることは拒否したが、ドキュメンタリー作成自体はOKした。榑屋敷の部下が担当者という体裁で僕とのやりとりっぽいことをしているシーンを撮影し、それでうまくやるとのことだ。今日は医療用アームを僕用にカスタムしたもの、名付けて蔵部アームの初めてのテストの日だ。僕は医療機器メーカーのラボに呼び出され、榑屋敷、その部下、メーカーの人、テレビの人と一緒に、テスト兼撮影に挑むのだ。
ラボは小学校の教室くらいだろうか。机が二つ並び、一つは椅子だけ、もう一つはSFみたいな巨大な機械から、にゅっと人の腕の形をした機械が飛び出しているものが置かれている。
 
「じゃあ、僕はセッティングさせていただきます」
 
香織と、興味本位で付いてきた遠藤くんと、子供三人。僕の仕事場から、いつも使っているペン、墨汁、原稿用紙など、いろいろ持ってきた。機械の方の机にそれぞれ並べればセット完了だ。僕が並べていく様子を、カメラが三台、いろいろな角度と距離から撮影している。
 
「では先生、こちらのセンサーグローブを着て頂きます」
 
医療機器メーカーの人が、向こうが透けるほど薄い手袋を差し出してきた。……手袋にしてはいやに長くて、たぶん腕の付け根あたりまである。表面にはいろいろな模様が描かれていて、たぶんセンサーの回路なのだろう。僕は言われるがままにそのグローブに手を通した。他にも、頭や首、背中に電極やパッチをたくさん貼られて、VRゴーグルをつけて、ようやく完成だ。
 
何かの実験体になった気分だな。
子供たちが写真を撮っているようなので、ロボットっぽいポーズをすると大ウケしたが、香織に怒られた。
 
「では、同期開始します」
 
いよいよだ。僕は指示通り椅子に座る。僕が右側、機械が左側、二人並んで試験を受けるみたいだ。メーカーの人と榑屋敷がそれぞれ何かチェックして、機械のスイッチをいれたようだ。ゴーグルに映像が映し出された。僕の目の前にある机と似ているが、そこにはペンや道具が並んでいる。機械側の視線を映し出しているのだ。
 
「先生、手を動かしてみてください」
「はい」
 
僕は試しに右手を上げてみた。すると左側で、機械も右手を上げたようだ、かすかな音がした。僕はできるだけ普段通りになるように、敢えて適当にペンを手に取った。墨汁をつけて、原稿用紙を左手で押さえる。さて、何を描こうかな。せっかくだし、今この状況を描いてみようか……。
 
気が付くと、原稿用紙に一枚、書き終わっていた。機械と僕、それから今連載中の惑星ニビル伝の主人公が机を並べて試験を受けている絵だ。
 
「……これは、素晴らしい出来ですね!」
 
遠藤くんが感嘆の声を上げて、機械の方の机から原稿を取り上げた。
 
「この勢い、筆遣い! 先生と寸分の狂いもありません!」
「ほんとだ、お父さんの絵だ!」
「すごい、すごいー!」
 
みんなが大騒ぎする様子を、カメラが慌てふためきながら撮影している。僕もその輪に入って、機械が描いた原稿を眺めてみた。デジタルに挑戦していた時は、実際はほんの少しなんだけど、思う通りの線や勢いにならなくてモヤモヤした。今回描いている時はのびのび描けたんじゃないかな。
榑屋敷が僕の手元を覗き込んで、首を傾げながら聞いてくる。
 
「いかがですかな、蔵部先生」
「想像以上ですね、完成がますます楽しみになりました」
 
僕の照れたような笑顔も、ばっちりカメラに撮影されていたようだった。
 
それでもやっぱり細部を確認すると微調整してほしいところがあったので、いくつか要望を出し、何度かテストをした。同時進行で、僕のAIをつくるための測定やテスト。全てのデータを取り終わって、最終調整をして、僕のところに新しい僕がやってくるのはおよそ一か月後だという。例のドキュメンタリーも放送され、僕自身も楽しみに待ち、ようやくその日がやってきた。
 
そいつは、榑屋敷玄朔に連れられて、僕の仕事部屋にやってきた。
 
「やっと会えたね、蔵部遊助」
 
ちょっとおちゃらけてサングラスをとり、僕に挨拶してきた、僕。僕が動いている、喋っている。僕は感無量で呆然と立ち尽くしていたが、もう一人の僕がすっと手を差し出してきたのを見て我に返り、その手をがっしりと握った。
 
僕と同じ、ペンだこがたくさんある、漫画家の手だ。
 
「待ってたよ、蔵部遊助! これから一緒に頑張ろう!」
「もちろんだ!」
 
僕たちが握手をした瞬間は、ちゃっかり末っ子の努が写真に撮っていて、どこかのテレビ局に売りつけたらしい。翌日のニュースで大々的に放送されてしまい、香織に怒られていた。
 
ドッペルゲンガーと仕事をするようになって、僕の仕事環境は激変した。僕たちは僕のことを蔵部、ドッペルゲンガーのことを遊助、と呼ぶように決め、アシスタントたちにもそう統一してもらうようにした。まず、あまり考えていなかったのだけど、AIと人間の脳の違い。僕の脳は、誰も思いつかないような面白い発想をするのが得意、でも日が経つと忘れてしまう。遊助の脳は、突飛な発想というより、膨大な記憶から抽出するような発想が得意、一度覚えたことは忘れない。遠藤くんや香織が見ても、どっちも同じようにすごい、区別はつかない、って言ってたけど、僕と遊助にとっては大きな違いだった。一方、絵のクオリティは榑屋敷の尽力のおかげで、どちらが描いても申し分のないクオリティだ。僕は腱鞘炎その他の治療もあったし、自分で書くのは一番好きな惑星ニビル伝だけにして、他はストーリーを構想するところまで、あとは療養とインプットの時間に充てた。一日に一回メモリーシェアをして、遊助のメモリに僕のアイディアを記録し、それをもとに遊助が仕事をする。
 
みんな前から僕に少し休めって言ってて、自分は全然平気なのにな、と思っていたけど、そんなことはなかったと痛感した。治療を始めると腱鞘炎は手術しないでもみるみるよくなったし、腰痛もあっさり治った。その他いろいろ細かい不調も次々良くなって、身体が軽いとはこういうことか、と思い知った。そんな健康に関する気づきをエッセイ漫画にして遠藤くんに無理を言って掲載してもらったら、大ヒットして単行本化されたりもした。
 
遊助を買ってよかったなと思うのは、何よりも漫画の話をしている時だ。知っている漫画、自分の昔の漫画、今考えている構想、自分自身でアイディア出しをしているようなものだけど、目の前に人間がいて、それと対話をしていると、面白いように発想が飛躍していく。僕もまだ若手に負けない新しい発想ができるんだな、と嬉しくなり、新しい連載の企画を作って遠藤くんに提出したら、お気を確かに、さすがにお二人でも連載数が多すぎます、とたしなめられた。何て勿体ないことをするんだろうと二人して憤慨し、もういっそインターネットに自分のサイトでも作って公開してしまおうかとやさぐれたが、香織に怒られて実現しなかった。
 
僕に何かあっても、遊助が僕の後を引き継いでくれる。僕が思いついた物語は、順番待ちをしているだけで、いつか必ず日の目を浴びさせてやることが出来る。そう思うだけで、どれだけ心が軽くなったことだろう。でもやっぱり、自分の手で描くのも楽しい。香織の言う通り、健康に気を付けながら、無理のないペースで続けていきたいな。ずっとずっと、漫画を描き続けていきたい……。

 

 

 

──ピッ、ピッ、ピッ……

いつかと同じ病院の特別室に、心臓の鼓動を知らせる電子音だけが奇妙に響いている。
ベッドに寝かせられている男。酸素マスクをして、点滴をして、力なく横たわっている。窓からは日の光が降り注いでいるが、電気を点灯していない室内はどこか薄暗い。
横たわる男の様子を医者、男の妻、子供たち、そして男に瓜二つの男が、断崖の淵から崖下を見下ろすように、おそるおそる覗き込んでいた。
 
医者がぽつりと口を開く。
 
「手は尽くしました。今は機械で問題なく生命維持しておりますが、いつまで続けられるかの保証はできません。また、いつお目覚めになるかも今の医学では分かりません」
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
誰しもが顔を見合わせる。医師の言葉に驚く者はいなかった。誰もが、その状況を理解し、受け入れ、ただ恐れていたのだ。
 
「本当に、こんなことになるなんて……」
 
男の妻が深い深いため息をつき、ぼさぼさの髪をなでつけながら、ぽつりと呟いた。
偉大なる漫画家、蔵部遊助が昏倒しているのを彼女が発見したのは今朝のことだ。ドッペルゲンガーの遊助は別室で違う仕事をしていたが、眠るように机に突っ伏している蔵部を見て、異変とは認識しなかった。そのまま朝になり、夫が仕事場から帰宅していないことに気が付いた妻は、朝食ができたよと夫を迎えに行った。肩を叩くと椅子からずり落ちる夫。救急車が手配され、懸命の措置に最悪の事態は免れたが、蔵部の意識は戻らなかった。
 
「今後の方針はいかがされますか、奥様」
 
遠慮がちに医者が尋ねる。
 
「もちろん延命してください、夫はきっと回復します。治療費は惜しみません、何でもしてください」
 
はらはらと涙を流す妻、既に泣き涸れてうつむいている子供たち。承知しました、と医師は頷き、静かに部屋を後にした。
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
再び、心拍の電子音だけが、室内に響く。
誰も何も言わないままずいぶんと長い時間が過ぎる。
 
「……ねえ、香織さん」
 
男のドッペルゲンガーが、苦し気に顔を歪めながら、おずおずと口を開いた。
 
「蔵部と、メモリーシェアしてみてもいいかな。あいつが何を考えてるか、こんな状態でも、シェアなら分かるかもしれない……」
「そうか……そうね」
 
医師が呼び戻され、メモリーシェアのためのヘッドギアが眠る男に取り付けられた。男とドッペルゲンガーが記憶のシェアを開始する。ドッペルゲンガーは瞳を閉じてうつむいていたが、突然吹き出し、それから火が付いたように笑い出した。
 
「蔵部……! お前ほんとバカだなあ……!」
「遊助、蔵部は何て……?」
「香織さん、こいつ、漫画のことしか考えてない。こんな状況で混乱してるのに、次から次へとアイディアが沸いてきて止まらないって。それがさあ、こんな状況なのに、面白いんだよ……!」
 
ドッペルゲンガーの言葉に、妻も泣き笑いをする。息子たちも、全く親父は、お父さんらしいや、と笑顔が戻った。
 
「蔵部、お前が目を覚ますまで、僕が描き続けるぞ! お前のアイディアは絶対世に出すからな!」
 
眠ったままの男の顔に、窓からの光が差し掛かり、肌の青白さを際立たせていた。

 

 

 

──ピッ、ピッ、ピッ……
 
蔵部遊助、病床から執念の新連載! 死の淵から蘇る蔵部ワールドを括目せよ!
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
ドッペルゲンガーを駆使して連載を続ける蔵部遊助、その才能に迫る。新境地の阿修羅の雫、その着想と原風景を追う。
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
蔵部遊助、デビュー50周年を記念し一大プロジェクト始動! デビュー作の異界フロンディア、最高傑作の惑星ニビル伝、オーディンの槍、企画多数、蔵部の奇跡を見逃すな!
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
暮れ行く西日が差し込む、病院の特別貴賓室。機器に繋がれ、枯れ木のようにやせ衰えた老人が、ベッドの上で眠り続けている。
 
「ねえ、あなた……」
 
その横で、同じように老いさらばえた女が、皺だらけの手で男の手を握っていた。
 
「まだ、漫画を描きたいの……?」
 
老女の問いかけに、老人は何も答えない。老女はゆっくりとため息をつき、老人と手をつないだまま、何も言わずずいぶん長い時間を過ごした。窓の外の世界はゆっくりと日が沈み、茜色に染まっていく。電灯をつけていないので、貴賓室の中も同じ色に染まり、機器の光だけがいやに眩しく光っていた。
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
「あのね……」
 
老女は何か言おうとしたが、その先の言葉の代わりに、涙が一粒零れ落ちた。それはベッドのシーツの上にぽつりと落ちて、小さなシミをつくる。老女は次々流れる涙を拭おうと、老人の手を握っていた手を離した。老人の手はぼとんとシーツの上に落ちる。老女はごめんねと呟き、涙をぬぐい終わると、再び老人の手を握った。
 
嗄れた手が、老女の手を弱々しく握り返す。
 
「……えっ?」
 
老女は狼狽し立ち上がろうとするが、老人の手は今度は落ちず、老女の手を握ったままだった。老女が老人の顔を見ると、閉じたままの瞳から、一番星のような涙がころりと滑り落ちた。
 
老女は顔をこわばらせ、老人の顔に自分の顔を近づける。
老人はうっすらと目を開き、乾いた唇で、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
 
「……、……」
 
老女の顔色がみるみる青ざめていき、絶望した表情で老人を見下ろした。
 
「それを、私に、やれって言うの……?」
 
老人はもう動かない。
ただ、心拍音と酸素マスクの音だけが、病室に響き渡る。
老女は震える手で、ゆっくりと酸素マスクに手を伸ばす。指先がマスクに触れ──
 
「……だめ! 出来ない!」
 
老女は弾かれたように立ち上がると、わっとその場で泣きだした。
 
「出来ない、出来ないよ、あなたに頼まれたって、どれだけ苦しくても私には出来ない! あなたが死んだら、漫画の続きが読めなくなるじゃない! お願いだから漫画を考え続けて、でないと私もうやっていけない!」
 
──ピッ、ピッ、ピッ……
 
黄昏の部屋に、老女の泣き声と、心拍音だけが、ずっと響いていた。

 
 
 
 

❏ライタープロフィール
吉田けい(READING LIFE公認ライター)
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。

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2019-04-22 | Posted in 株式会社ドッペルゲンガー

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