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週刊READING LIFE Vol.35

自助グループを知っていますか《週刊READING LIFE Vol.35「感情とうまくつき合う方法」》


記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 

「この10分間、何を話せばいいんだろう」
 
心の中で私はそうつぶやいていた。
 
2LDKほどのこざっぱりとしたマンションの一室。8人ほどの人が車座で座っている。車座で座っているのは、私より、15歳も上のひとたちばかり。そのほとんどが女性だった。子どもがいる人も子どもがいない人もいた。
 
そこにひとりだけ紛れ込んだような20代の私。
当時、私は自分の生き辛さにどうしようもなくなっていた。演劇的手法で、幼少期の育ちにアプローチするあるワークショップで、声をかけてくれた女性がいた。
 
「文ちゃん、つらそうだよね」
「私たち、毎月1回、自助グループやっているから、よかったらおいでよ」
 
当時、日本で自助グループが紹介されたばかりの頃だった。自助グループについては話を聞いて知っていた。その彼女に声をかけてもらって、はじめてやってきた自助グループ。
 
マンションの一室にたどりつくと、私に声をかけてくれた女性がにこやかに出迎えてくれた。
 
「文ちゃんはもう知っていると思うけれど、もう一度お話するね」
 
手短にこの自助グループでのルールを教えてくれた。
 
そうしている内にメンバーが集ったようだった。
最初、車座になって手をつなぐ。そして今日のまとめ役の人が呼吸を合わせて、いくつかの言葉を話す。それから、ひとりひとりが話をしていく。
 
自助グループでは、例えば1時間半の時間の中で、参加者が8人なら、平等にひとり10分を持ち時間として話していく。車座になって、ひとりひとり持ち時間10分の時間、何を話してもいいし、話さなくてもいい。ただ、その10分はその人の時間として尊重して、他の仲間達は全身全霊その話を聴く。
 
順番に話が始まった。自分が小さい時に親から虐待された話。自分が今目の前の子どもに暴言を吐いてしまった話。今自分が抱えている人間関係。
 
どの人の話も、どの人の話も圧倒される重みがあった。
そして、不思議なことにときおり、自分の話を聞いているような錯覚に陥った。自分よりずっと年上の他の人達が、自分の育ちの中で抱えた苦しさを言葉にして紡いていく、その深さと真剣さに私はひるんだ。こんな中で、私は一体なにを話せばいいんだろう。
 
自助グループとは、なんらかの困難を抱えた人たちが仲間同士で自発的にあつまり、話す場のことをいう。最初、アメリカで、自助グループはアルコール依存症の当事者の集まりからはじまったという。
 
自助グループにはいくつかのルールがある。
ここで話されたことは秘密をまもって外で一切話さないということ。
同じ参加者どうしても、「あの時話していた話ってどうなった?」というように話は互いに持ち出さないこと。
自助グループへの参加は、あくまで自発的であり、強制はしないこと。
参加者は互いに対等であること。
 
そして、私はなにより衝撃だったのは、この自助グループをはじめる前にいわれた、もうひとつのルール。
 
「自助グループはね、そのひとの時間は全身全霊話を聴くの。もちろん否定はしないけれど、同意もしないのよ」
 
え?うなずいてもいけないの?
 
「そう。やっているうちに文ちゃんもわかるよ」
 
自助グループでの話は順番に進んでいった。
私はときおり、圧倒されたり、時折、うんうんと同意にうなずきたくなる気持ちを押さえて、ただただ聴くことに集中した。
 
私の番がきた。
私はおずおずと話し始めた。
私がなぜここに来たのか。自分の育ちの中でなにが苦しかったのか。父が姉妹の中でなぜか私にだけ手をあげることが怖かったこと。
そのことをどこか他人事のように軽く話したことを覚えている。
 
話し始めて5分も立った頃だろうか。
 
ふと場を見渡すと、何人かの人が私の話を聞きながら涙を流していた。
否定でもなく、同意でもなく、ただ、涙を流していた。
それを見た時に私の中で何かが、弾けた。
私のこんな価値のない話をきいて涙している人がいる。
気が動転した。今まで自分が軽く考えていたこと、考えないようにしていたことへの扉が開いた。
あのときの衝撃をいまも昨日のように思い出せる。
 
ひとりひとりが10分ずつ話し終わると、それで自助グループは終わりだ。最初と同じ様に、車座でもう一度手をつないで呼吸を合わせる。
 
私が、はじめて自助グループというものに参加したのは、今からもう20年以上前のこと。
 
私はこのときからいままでの間にいくつも自分自身で自助グループをつくって運営をした。
あるときはパートナーとコミュニケーションに困難を抱えている仲間との自助グループ、あるときは、自分の生き方を見直したい仲間との自助グループ。
時にそれは毎月2回であったり、2ヶ月に1回であったりした。
どの自助グループも、それは私自身のためだった。
 
自助グループは、ギャンブル依存や、DV被害者、加害者、さまざまな障害の当事者の会のかたちの一つとして実践されている。
アルコール依存の人が立ち直っていくには、この自助グループに入らない場合はまた依存に舞い戻ってしまうという調査結果があるという。
 
自助グループの場では、相手の話を否定もしないし同意もしない。
否定はともかくとして、同意や肯定もされない中で話す経験を、あなたはしたことがあるだろうか。
 
秘密は守られる、何を話してもいい。場を一緒にしている人たちは全身全霊で聞いてくれる。そして否定もそして同意肯定もされない。
 
この中で話すとき、私はまるで暗闇のなかでひとりでぽつんと宙にうかんでいるような感覚になる。その暗闇は決して冷たくはない。一緒に場にいてくれる人たちのお蔭で、体温のぬくもりがある空間だ。でも、どこに手を伸ばしても反応がない。否定も、同意もない中で話すとは無重力の中で漂うようなこと。
 
その中で、ただただ沈黙してもいいし、どんな言葉を紡いでもいい。
 
すると、自分の沈黙も自分の言葉も自分に返ってくる。
話して気づく、あ、それは私が本当に感じていたことではないな。また言葉を紡ぐ。うん、すこしは私の実感に近くなった。
今は沈黙をしていたい。この沈黙は気持ちいいのか気持ち悪いのか。何かを隠したい沈黙なのか。この沈黙は本当に私の感覚から発せられたものなのか。
 
自助グループの空間の中では、人は自分の深いところに、一段づつ、降りていくことができる。もちろん、降りないことも降りることも自分次第だ。
 
でも今振り返って思う。
自分が生きることとは、自分と向き合うこと。自分と向き合うには、この自分だけが暗闇に浮かんでいる無重力の空間が必要だったのだ。
そして、逆説的だけれども、この無重力の暗闇にたった一人で浮かぶには、その場にいる仲間たちとつくる場が不可欠だった。
 
そして、聴くという行為も自助グループの中では日常と変わったものだった。全身全霊きくということは自分の判断を手放すということ。そこにいる一人の懸命な生き方が、まるで自分の言葉のように響いてくる不思議さ。
 
依存症から回復している人たちにとっては、自分の話を話すと同時に、人の話を聴くことが大きな力になるという。自分一人でないという気持ち。似た境遇で戦っている人への尊敬の気持ち。
 
今でも、20年前のあの自助グループを思い出す。
あそこに集まっていた私より15歳よりもずっと年上の彼女たちは、経済的にも物理的にも自由でない中でもがいていた。自分が親からの連鎖を引き受けた被害者であることに気が付きながらも、また同じことを子どもにしている加害者であることに気づいてしまった苦しさ。
 
涙ながらにはなす、彼女たちは世の中の目からみたらきっとみっともないともいわれるような様子だったと思う。
でも、まだ結婚もせず、子どももいなかった私にとって、彼女たちのその姿が輝いて見えた。
 
自分の頭で考えることをやめず、自分の苦しさに向かい合うことから逃げず、時に沈黙し、時に言葉を紡いでいた姿。自分が行きていくことをだれのせいにもせずに、その苦しさを苦しさとしてごまかさずに真正面から引き受けている姿。
 
その姿は私にとってとてつもなく、かっこよく見えた。
 
感情とは、湖の水面だ。
季節によって吹く風や、突然投げ込まれた石によって、湖面は突然波立ったりする。またあるときは、ただただ静かに、太陽を移す鏡のようになる。
 
この感情がどこから来ているか。
その秘密は深い湖底に隠されている。湖底の凸凹によって、その湖面の波は左右されている。湖底が浅いところではいつもいつもさざなみが立つだろうし、湖面の深いところには静かな波紋がゆれる。
 
湖底とはその人の幼少期に形作られたものだ。自分の湖底の様子に気づかないままの人もいれば、一生、そこを探らない人もいる。それはその人その人が選ぶことで良いも悪いもない。
 
湖底を探るには、勇気がいる。湖底を探るのは簡単ではないし、時に苦しくて七転八倒する。
ただ、その湖底を探ってきたひとりとして、はっきり言うことができる。そこを探った人にだけ、手渡されるものがある。
それは生きていく時の密度が濃くなること。人のせいにしない生き方。
 
古今東西の物語の中で、こんな場面がある。
村を救うための、秘宝を探す主人公。その主人公が幾多の困難を乗り越えて仙人に出会う。仙人は、主人公を、秘密の洞窟の前にまで案内する。
 
一緒に洞窟に入ろうとすると、仙人が言う。
 
「ここから先は、あなたがひとりでしか、行けないのだ」
「この洞窟の奥に何かが確かにある。でも、それはあなたがひとりで行くしか、みることができない」
「さあ、お前は行くのか、行かないのか」
 
自助グループとはこの洞窟の中に入っていく時間に似ている。
 
今まで一緒に自助グループを組んできた仲間の顔は、ひとりひとり鮮やかに思い出せる。目に浮かんで蘇る感覚は、この尊敬というか、畏敬の気持ちだ。お互い必死に生きている、そこか逃げずに向かい合っていることへのリスペクト。
 
今は私は自助グループを持っていない。
それでも、また必要になったときにはきっと作るだろう。
 
自助グループの中で私が手に入れたのは、自分の感覚に嘘をつかず、自分の感覚の輪郭を確かめ続けること。
今でもふと思い出すことがある。
あのぬくもりのある、無重力の暗闇を。
あの中で紡いだ言葉たちはどこへ行っただろうか。あの言葉たちは、きっと今も私の中のどこかで、響き続けている。そしてこれからも、そんな言葉を紡いていきたいと思うのだ。

 
 
 

❏ライタープロフィール
青木文子(あおきあやこ)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23nd season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。
 


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2019-06-03 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.35

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