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週刊READING LIFE Vol.37

人の攻撃性は止まらない《週刊READING LIFE Vol.37「怖い話」》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

人は本来、善である。
 
しかし善であるはずの心が、ともすれば豹変することがある。
たとえば嫉妬がもとで人の足を引っ張ったり、意地悪をするケースである。
多少のものは誰にでもある。
ただ、嫉妬心がその人の持つ攻撃性の引き金を引いたとき、どうにも止まらなくなる場合がある。
私がそんな人の性(さが)に接したのは入社20年目だった。
自分にとって陰湿ないじめなんて無縁の世界だと思っていた。
まさか、自分が経験することなどありえないと信じていた。
 
百貨店での内勤生活も9年半を過ぎようとしていた。
そんなとき、なんの前触れもなく異動の辞令を受けた。
異動先は日本橋本店の食品コーナー、しかもマネージャーだった。
フラッグシップともいえる本店の管理職ということで、周囲からは祝福の嵐だった。
 
しかし私の心は深海に沈んでいくようだった。
 
なぜならば、食品を販売した経験が皆無だったからである。
それにともなって業務知識、衛生面の基本的な働き方についてはまったく知らなかったからだった。素人同然だった。
 
しかも店頭は、私の内勤生活の間に完全にオンライン化されていた。
 
こんな状態で果たしてうまくいくんだろうか?
新たな職場にあいさつに行く途中、「入る会社を間違えた」と思い始めていた。
 
日本橋本店の食品の事務所は、社員通用口のとなりにあった。
食品を統括するゼネラルマネージャーにあいさつをしたところ、私の職務は輸入食品の販売マネージャーと知らされた。
 
担当は、英国ハロッズの紅茶やジャムなどのハロッズ製品の他、フランスのダロワイヨのパンをはじめ惣菜の販売、さらには2ヶ所のティーサロンの運営である。
 
人員構成は女性だけで63人、男性社員はゼロだった。
 
マネージャーの私と、マネージャーのすぐ下の職務のセールスリーダーが新任である。
 
組織のトップ2人が同時に異動?このウラにはなにかある?
という予感が漂い始めていたが、やるしかない。
 
未経験の食品販売、初めての現場マネジメント、男性社員は私一人、現場はオンライン化……
など、レクチャーを受けようにもスタートは翌日だった。
仕事という列車にひとまず飛び乗るしかなかった。
 
輸入食品コーナー初日。
午前10時の開店のベルが鳴り、ヨハン・シュトラウスの『美しき青きドナウ』のBGMの流れるなか、お客さまのご来店である。
初めて店頭に立ったとき以上の緊張感だった。
輸入食品コーナーで唯一の男性社員の私は目立つ存在。
当然のことながら、「トイレはどこ?」「今週の催し物は?」というような問い合わせは私に集中しがちである。
 
しどろもどろになりながらも、なんとかこなそうとした。冷や汗、脂汗状態である。
となりの新任のセールスリーダーを見ると、臆することなくお客さまににこやかに接している。
入社以来15年間にわたって酒の販売一筋というキャリアは、品物こそ違え、販売のプロとして堂々としていた。
 
「なんとかなるかもしれない」と淡い期待を抱いていたものの、初日から早速クレームの洗礼を受けた。
ジャムの異物混入と、「態度がよくない」という接客状の苦情だった。
とにかく謝るしかないということで、平身低頭していた。
気づくと19時の閉店が過ぎていた。目が点になることばかりの1日。
率先垂範するしかないと思って行動しているのに、なぜか女性社員との間に違和感を感じ始めていた。
居心地がよくないのである。
特に、女性社員のナンバー2のMとナンバー3のBの2人は、職場をあとにするとき、きつい視線を投げかけてきた。
きついというよりも、冷たい視線。女性からこんな目をされたことは生まれて初めてだった。
 
翌朝の午前8時半。
男性社員が1人ということで、ダンボール箱を運んだかと思えば、納品の品物を取りに行ったり、
開店の1時間以上前からてんてこ舞いだった。
 
準備が一段落したしたときである。
「お話があるんですけど」という言葉に振り返ると、声の主はMだった。
となりにはBがいる。
私はいきなり2人からバックヤードに連れて行かれた。
朝からいったいなにごと?
 
狭い倉庫だったが、私たち3人以外誰もいない。
「においがきついんですけど?」
 
「なにが?」
 
「マネージャーは分からなかったんですか? セールスリーダーのにおいですよ、ニオイ」
「においって、なんのこと?」
 
「食品ににおいって、ぜったいありえないってご存知ないんですか?」
 
食べ物を販売する以上、においがご法度ということは理解できる。
ただし前日、セールスリーダーと半径3メートル以内ですれちがってもそんなにおいは感じなかった。
 
「セールスリーダーのにおいは、香水ですよ。食品の販売の基本中の『き』ができてないんです」
 
「ちょっと待ってよ。私は分からなかったんだけど」
 
「マネージャーが言わないんだったら、総務に言いつけますから」
 
驚いた。いきなり言われても……
「本人に確認する」とだけ伝えてその場を逃れた。
 
(やれやれ)
初めての食品の販売だけでなく、人間関係のしがらにに接するとは。
しかし私はそのとき気づいていなかった。
この2人に完全にナメられていたことに。
 
その日、セールスリーダーの出勤はシフトで遅番だった。
彼女が午前10時半に出勤したときである。
 
周りにだれもいないのを確認して聞いてみた。
「なんかさぁ、においがきついっていう声があるんだけど?」
 
彼女は笑いながら答えた。
「(食品販売のプロが)においのきついものなんて、つけるわけないじゃないですか」
 
「そうだよな。そんなはずないよな」
 
その場の会話を終えた。
それ以上話してもなんの進展もないと思った。
ひとまず、仕事に取りかかろうと思った。こんなこと関わっていたら大変なことになると思い始めていた。
 
午後1時、セールスリーダーが昼食に出たときである。
MとBが私をバックヤードに呼んだ。
 
「リーダーに伝えていただけました、においのこと?」
Mの目には怒りの炎が宿っている
 
「伝えたけど、本人はにおいのきついものなんてつけるわけがないって言ってたよ」
 
「そんな、今日だってにおってるんですよ」
 
「私はわからないんだけど」
 
「マネージャーは、それでもプロの販売員ですか?」となりのBが言ってきた。
 
正直なんとリアクションして良いのやら?
ひとまず、この状態を逃れるしかない。
「お客さまに電話をするんで」と言った私は、受話器を取ってあるはずのない電話番号をかけた。相手が出ていないにもかかわらず、会話を始めていた。
やってられない。この2人に付き合っていたらとんでもないことになる。
しかしそれは、始まったばかりだった。
 
翌朝だった。
いきなり総務のお客さま相談センター、いわゆるクレームの窓口に呼ばれた。
 
相談センターの福田(仮名)マネージャーは苦虫をかみつぶしたように言った。
「なんか、きみんとこで、においがきつい社員がいるって電話が入ったんだ」
話を聞くと、都内日本橋にお住まいのご婦人だという。
「ハロッズの紅茶を買うのが楽しみなんだって。昨日だけど新任の女性社員がいて、そうそう、名前はきみんとこのセールスリーダーなんだよね。名前が特定されてるからさぁ」
 
電話のレポートを見た。
たしかに日本橋浜町のご住所が書かれている。
 
(やはり、におうのか?)
 
セールスリーダーになんて言おう?
 
悶々としたまま持ち場である、輸入食品コーナーに戻った。
 
においの張本人がそこにいた。
「じつは、…‥」私は淡々と伝えた。
 
もう、ここまできたら弁護のしようがないと思った。
 
「おかしいですねぇ。昨日は私、いつものシャンプーは使わずに、それも水浴びだけだったんですよね」
 
たしかに変だと思った。
 
「分かりました。気をつけます」
 
その後1週間、店頭は平穏だった。
あれほどうるさかったMもBも普通に仕事をしていた。
 
(問題は解決したのかなぁ)
私のなかではホッとしたというか、安堵の心境だった。
しかし、人生そうは問屋が卸さないものである。
 
日曜日の午後だった。
店頭が一番活気があって、猫の手も借りたいようなときである。
いきなりお客さま相談センターの福田マネージャーから電話が入った。
 
「まただよ。あれほど言ったのに、ぜんぜん改善されてないじゃないか」
 
大急ぎで行くと、前回のにおいのクレームを送ってきた日本橋浜町の女性からだった。
「また、あの女性が店頭にいて、しかもこんどは舶来の香水のようなにおいがしたよ」
電話のメモそのままだった。
 
もう逃げも隠れもできないと思った。
 
「音声を聞かせてもらえます?」
ところが当時、音声録音のシステムは取られていなかった。
しかも前回も今回も日本橋浜町とだけ書かれて、丁目も番地も表記されていない。
 
さらに、電話番号も空欄なのである。
 
「なんで、住所も電話番号もお知らせいただけないんですか?」
 
「そりゃ、お客さまには個人情報の保護の意味もあって、それ以上聞かせてもらえない場合は聞けないんだ」
 
現場に戻った私は、セールスリーダーに正直に言った。
 
「分かりました。これには何かがあります」
彼女はそれだけ言うと現場にもどった。
 
(もういい加減にしてくれ)
 
バックヤードの机に座ったまま、ボーッとするしかなかった。
 
午後3時、遅い昼食を取っていたときである。
社員休憩室のかたわら、厨房の影に隠れたスペースで、セールスリーダーがだれかに話しているのが見えた。
 
誰だろう?
 
よく見ると、相手はMだった。
Mに対して強い口調で何やら話しているようである。
距離にして30メートルはあるだろうか。
詰問状態に締め上げているようである。Mの表情はと見ると、半泣き状態になっていた。
 
いったいなにが?
 
これ以上、男性の私が立ち入ると墓穴を掘るだけである。
ほっとくことにした。
 
その1時間後である。
総務に書類を提出する際、またもや休憩室のかたすみにセールスリーダーの姿を認めた。
誰かと話しているのである。
よく見ると今度の相手はBだった。
 
Bの表情を見ると、ハンカチで口を覆っているのである。
 
泣いている?
 
セールスリーダーは激しい口調でなにか言っているのが分かった。
 
ただ今回も詮索しないことにした。
 
その日の就業後である。
「ちょっといいですか?」
たまたま食品部門の他のマネージャーから声がかかった。
 
「ほんとはお伝えしておいたほうがいいと思いましてね」
 
MとBについてだった。
 
2人は仕事はするけど……
面白くない社員がいると、結託していじめを始めるとのことだった。
いままで、新入社員をはじめ、この2年間ですでに5名の女性社員が退社に至ったという。
それも、上司や周りの男性に分からないように巧妙な手を使うということだった。
 
前任のセールスリーダーは上司からの評価が非常に高かったものの、MとBからの執拗ないじめに遭って休職を余儀なくされた。
 
私の前任のマネージャーも管理不行き届きということで、地方店に異動となったという。
 
そこに異動してきたのが、私であり、セールスリーダーだったのだ。
 
とんでもないところに異動したものだと思ったが、もう後の祭り。
 
翌日も「嫌だなぁ」と思いながら、朝礼をしている自分がいた。
 
するとおかしなことに気づいた。
あれはど距離のあったセールスリーダーとMとBが店頭で和気あいあいと話しているのである。
 
(一対一で強く言っていたのは何だったんだ?)
 
私のなかでは疑問だけが膨らむばかりだった。
 
におい事件もそれっきり聞かれなくなった。
お客さま相談室からのレポートも過去のものとなり始めていた。
 
季節は初夏から夏になろうとしていた。
仕事場の男性は私一人。
マネージャーとはいえ、荷物運びをはじめとして、力仕事は私の仕事である。
 
ある日、Bが私に言った。
「お客さまがマネージャーのことを汗臭いって言ってます」
 
衝撃だった。
自分の体臭について言われたことは人生ではじめてだった。
仕事に対して全力投球するのがモットーなのに、どうしてよいか判断がつかなかった。
 
Bのひとことが原因となったのだろうか。
いままでの人生を否定されたような気持ちになった。
そんななか、女性スタッフたちはセールスリーダーを中心に、MもBも結束が高まりつつあった。
 
ある日、バックヤードに掛けあった私のジャケットが濡れいているのに気づいた。
水ではなかった。
よく見ると、裏地にはブルーがかった液体のシミがついている。
なんだろう?
 
べつに濡れるような場所に行ったのではないのに。
においを嗅いでみた。
洗剤、いや、強烈なにおいだ。
なんだこれ?
 
バックヤード奥のキャビネットがほんの3センチほど空いているのが見えた。
このキャビネットは棚卸しのときは空だったはず。
 
なかを開けてみた。
すると、なかにはトイレ洗剤『消臭元』の原液200ミリリットルが全部で20パックほど保管されているではないか!!
 
まさか?!
 
と思ったが、原液のフタを開けてにおいを嗅いでみた。
 
そしてジャケットのにおいも嗅いだ。
 
同じだった。
 
私は、ジャケットに消臭元の原液をかけられてしまったのだった!!
 
犯人を探すまでもなかった。
 
3ヶ月後、Mは他部署に異動し、Bは退社した。
 
この経験から大きな学びを得た。
 
それは、
「ひとたび、人が自分のなかに攻撃性を持つと、どうにも止まらなくなる」と。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ベストメモリーコンシェルジュ。
慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。

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2019-06-17 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.37

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