週刊READING LIFE vol,101

「この鎖をくいとめることができるなら」《週刊READING LIFE vol,101 子ども時代の大事件》


記事:青木文子(天狼院公認ライター)
 
 
「パシッ」
 
よろける身体を転ぶまいと立て直した。すぐに2回目に同じ音がした。頬が一瞬熱くなって、気持ちがこわばるように冷たくなった。
 
父の手が上がるのと、反射的に私が顔をそむけたのはどちらが先だったろう。人は何度も手を上げられていると、気配だけで身をすくめるようになる。
 
まだ建て直す前の古い家の台所だった。戦後に立てられた家で、床の木は黒光りがして年期が入っている。身体がよろけたときに床の木の節目が見えた。そこ場にうずくまってしまいたかったがそれはできなかった。
 
事の発端は覚えていない。休日の昼間の事だった。昼食の片付けをしている私に父が何かを注意したのだった。でもその注意が誤解だったので、私は悪くはないと口答えしたのだった。そのまま私に張り手が飛んできたのだった。
 
私が父に口答えしたのはこのときが最初だったかもしれない。手を上げた父は興奮しているようだったが、そのまま台所を出てテレビの前に座り込んで無言でテレビを見始めた。私は半泣きになって、2階の自分の部屋に駆け上がった。2階の部屋からは屋根の上に出られるようになっていた。もちろん屋根の上にでないようにとは常日頃親から言われていたが、私は度々屋根の上に出ることがあった。
 
屋根の上は誰にも見つからない私の秘密の場所だった。昔ながら赤レンガ色の屋根。屋根の上はホコリや汚れが結構ある。服が汚れるのでいつも体操座りするだけだった。屋根の上に出て寝転がると、空が見えた。背中はもちろん屋根の汚れがついて大変なことになるけれど、もうどうでも良かった。何度か深呼吸してなんとか自分という輪郭を保っていた。もう自分の身体が中から張り裂けそうだったのだ。
 
父は三姉妹の中で長女である私にだけ手を上げた。多動気味だった私はおしゃべりで、声が大きくて、箸の持ち方が悪くて、いうことを聞かなくて、そんな叱られるのにはかっこうの子どもだった。
そんな理由が父の手を上げさせたのだろう、のときはそう思っていた。父が手をあげる理由が私にあると。それは大きな間違いだったと今ははっきりいうことができる。
 
東京の大学を卒業して、地元の文具メーカーで働き始めた私は、それなりに人生を送っていた。会社でもそれなりに働き、遠距離恋愛をして、とくに盛り上がりもしなければ困りもしない毎日を送っていた。そう、自分ではそう思っていた。
 
会社から実家まで、時折歩いて帰ることがあった。ほとんど残業がない会社だったので、時間はかかるけれど、気晴らしに歩いて帰るのは好きだった。帰り道の途中に大きな書店があった。その書店に入って立ち読みをするのも、また自分にとって好きな時間だった。
 
ある日の帰り道、その本屋に寄った。雑誌の棚の傍らに、見慣れない薄い雑誌?  ムック? が1号2号と並べてあるのが目にとまった。
 
背には『賢治の学校』と書いてある。賢治って宮沢賢治? 宮沢賢治は大好きな作家のひとりだ。思わず手を伸ばして中身をパラパラと読んだ。私は目にとまった何ページかを読んで雷に打たれたようにその場で立ちすくんでしまった。
 
「これは私だ」
 
幼少期親からの暴言や暴力で、生きづらさを感じている人たちが綴った手記の特集だった。自分に向かい合いながら書かれたその言葉の連なりは、まるで切れば血が出るような文章ばかりだった。
 
「私と同じひとがいる」
 
雑誌を出版している東京賢治の学校は、元教員の代表の鳥山敏子さんが立ち上げた団体だった。いまではシュタイナー学校になっているが、当時は立ち上がったばかりだった。自然農と、野口整体と、幼少期や自分と向かい合うサイコドラマワークを中心として人がいきいき生きていける社会をつくるために活動している団体だった。
 
まるで自分自身のような人たちの手記を読んで頭が混乱した。どうしていいか分からなかった。そのまま雑誌『賢治の学校』1号2号を手に取ってレジに並んだ。どうやって家まで帰ってきたかは覚えていない。その日も夜遅くまで雑誌『賢治の学校』を繰り返し読んだ。
 
翌日の会社の昼休みに、雑誌の奥付にある電話番号に思い切って電話をした。そして、鳥山さんが近いうちに名古屋でワークショップをすることを教えてもらったのだった。
 
ワークショップは幼少期の親子関係を見つめ直すものらしい。そのぐらいしか分からなかった。よく分からないけれども申し込みをした。そしてある日の日曜日、名古屋市内のワークショップの会場に向かったのだった。
 
ワークショップはサイコドラマという演劇的手法をつかったものだった。
 
参加者は30人ほどだったろうか。床に円を描いて座った。
 
「この中で今日、自分のワークをやってみたい人」
 
思わず手を上げていた。鳥山さんに会うのもはじめてなのに、こんなワークショップに出るのもはじめてなのに、何をするかもよく分かっていないのに。
 
「じゃあ、円の真ん中に来てちょうだい」
 
手招きされて円の真ん中に出た。
周りの人たちは周囲を広く取り囲んで床に座っている。
 
「そう、ぶんちゃんっていうのね。あなた、幼少期で思い出すシーンって何かある?」
 
あの台所でのシーンを思い出した。そのことを話すと、鳥山さんは何度も何度も深くうなずいた。今思えばあのときの鳥山さんにはいくつもの事が見えていたに違いない。
 
「じゃあ、やってみましょう。この参加者の中で一番お父さんと雰囲気が似ている人を選んでみて」
 
参加者の顔を見渡した。おひとり身体ががっちりしていかにも真面目そうな男性がいた。その方を指さした。「ぼくでいいのなら」とその方がいってくれた。Yさんという。Yさんは前に出てきて下さった。今でもその方を私はYお父さんと呼んでいる。
 
円の真ん中でYさんと私が対峙した。
鳥山さんからいわれて、その台所でのシーンを再現することになった。そのとき私の父がどんな口調で私に何をしたかをYさんに手短に伝えた。
 
幼少期を再現して、そこの生き直しをするものをサイコドラマという。
とはいうものの、あくまで演じているだけだろう。はじまるまで私はそう思っていた。
 
Yさんが父の口調で父の役を演じた途端にあたりの空気が変わった。いや私の身体が変わった。一瞬にしてあのときの恐怖と緊張が身体によみがえった。
 
「もっと抵抗しても、言い返してもいいのよ」
 
鳥山さんに言われたが、そんなことはできない。私の身体はあの小学生の小さな私そのものになっていた。手を上げられた恐怖と、なぜいつも私ばかりかという悔しさと、それをどうしようもできないという無力さに身がすくむばかりだった。
 
パチン!
 
鳥山さんが手をたたいてサイコドラマがそこで閉じられた。
 
「じゃあ、文ちゃん役をほかの人にやってもらいましょう」
 
手を上げてくれた女の子がいた。Bさんだ。Bさんはこの場面をみていて居ても立っても居られなかったらしい。
 
YさんとBさんが対峙した。しばらく息をのむような緊張が続いた。
Bさんの空気はYさんに全く負けていない。Yさんが先ほど同じ台詞同じ動きをした。Bさんは私のように言い返せずに身をすくめているのでなく、相手の威圧に巻き込まれずに言い返した。
 
「なんで私ばかり叩くの?」
「叩かれたくない!」
 
そう言われたYさんがひるんだように見えた。
 
その風景をみながら、私はぼんやりと、そうか私もああやって言い返しても良かったのだ、とどこか人ごとのように意識の遠くで考えていた。
 
パチン!
 
また鳥山さんが手をたたいてサイコドラマが閉じられた。
 
「今度はぶんちゃんがお父さん役をやってみようか」
 
え? 私がお父さん役?
 
思いも寄らないことだった。なぜ私がお父さん役をやるの?
 
Bさんがそのまま私の役をやってくれることになった。
 
サイコドラマは周りで観ている人たちの力が場をつくり場を守ってくれる。私はこのあと、東京賢治の学校のスタッフになり、数多くの人のサイコドラマに立ち会っていくことになるが、サイコドラマに立ち会うことは本当に全身のエネルギーを集中することが必要な役割だ。
円の中でBさんと私が対峙した。
 
父役の側にたった途端に、私の中で強い力が生まれてくるようだった。相手に絶対負けないという気持ち。あえて言うなら暴力的な気持ち。父の真似をして台詞を言ってみた。そして(実際に叩きはしないけれど)演技として手を上げて相手を叩くことをした。
 
正直にいおう。
このときの私の中には支配的な気持ちが突然沸き起こった。どこかに快感があった。相手が絶対に反抗してこないという確信。そして自由にそこに手をあげられる力の実感。
 
Bさんは先ほどのように私に言い返した。
 
「なんで私ばかり叩くの?」
「叩かれたくない!」
 
その台詞をきいて知るものか、と思った。なぜ叩くかなんて知るものか。私の身体は完全にあのときの父の身体と同化していた。なおも支配的な気持ちが強くなるばかりだった。
 
強気で言い返していたBさん目の色が急に変わった。目に悲しみの色が広がった。サイコドラマで不思議なことはその人の演技が場のエネルギーを動かしていくことだ。
 
Bさんの口調が変わった。
 
「どうして私、叩かれなきゃいけないの」
 
「なぜ私ばかりなの?」
 
「私、悲しいよ…」
 
抵抗していたBさんに対して起こっていた暴力的な気持ちが急に矛先を失ったように感じた。戸惑った。どうして良いかわからなかった。
しばらく立ちすくんだあとに、突然自分の口から言葉が出た。
 
「本当は、お父さんもこんなことしたくないんだ」
 
おなかの奥の方から出た低い声だった。自分の声ではないように聞こえた。そしてそれは父の声だということが分かった。
 
私は身体の奥底で言葉にならないものを了解した。
父が手を上げている理由は父もまたわからなかったことを。
父は父の身体に刻まれた、得体のしれない何かに手をあげさせられているのだということを。
 
目から涙があふれた。悲しかったのではない。嬉しかったのでもない。私の身体をしばっていた鎖が突然解けた。私はそのままたちつくして泣いた。膝から崩れ落ちた。そのまま立ち膝で天を仰いで泣いた。私の方を鳥山さんが抱いてくれた。
 
このときのことはすべて言葉になったわけではない。今でも言葉にできているのはその断片でしかない。振り返って思う。ひとつはっきりしたことは父が手を上げていた根っこは父がまたその父から受けた暴力の記憶だということだ。
 
親子間の暴力の連鎖、虐待の連鎖という事が言われている。
言葉にしてしまえばそうだろう。私はこの時のサイコドラマでその鎖のつらなりの一片を理解した。そしてそれを身体として了解した。だからといって父が手を上げていたことを許すことはできない。起こっていたことを了解することとその行為を許すことは別だからだ。ただ、このときに何が起こっていたかを了解することで。私は傷ついた小さかった時の私自身を心の中で抱きしめてあげられるようになった。
 
「怖かったね。あなたは何も悪くないのよ」
 
社会的にランクの高いところにいるものが低いところにいるものへ、ゆえなく感情を発散させるものはすべて暴力だ。私はすべての暴力を許さない。私が父に、父がしたことを突きつけるにはここからまた何年かの歳月をかけることになる。
 
だから心から願う。もしこの文章を読んでいる中で、子どもに手を上げている人がいるとしたら、ひとつ深呼吸をしてもらえないだろうか。
 
連なっていく暴力の鎖の一片を、とめることができるのは私自身しかいない。そしてあなた自身しかいない。
 
そしてもし、できるなら(簡単でないことは100も承知だけれども)こう想像してもらえないだろうか。あなたに腹を立てさせる目の前の子ども、あなたがつい怒りにまかせて手を上げてしまうその子どもは、幼少期のあなた自身なのかもしれないと。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青木文子(あおきあやこ)(天狼院公認ライター)

愛知県生まれ、岐阜県在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学時代は民俗学を専攻。民俗学の学びの中でフィールドワークの基礎を身に付ける。子どもを二人出産してから司法書士試験に挑戦。法学部出身でなく、下の子が0歳の時から4年の受験勉強を経て2008年司法書士試験合格。
人前で話すこと、伝えることが身上。「人が物語を語ること」の可能性を信じている。貫くテーマは「あなたの物語」。
天狼院書店ライティングゼミの受講をきっかけにライターになる。天狼院メディアグランプリ23rd season、28th season及び30th season総合優勝。雑誌『READING LIFE』公認ライター、天狼院公認ライター。

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2020-10-26 | Posted in 週刊READING LIFE vol,101

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