週刊READING LIFE vol.128

トラブルは旅のスパイス《週刊READING LIFE vol.128「メンタルを強くする方法」》


2021/05/17/公開
記事:西野順子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
一人旅、という言葉にはちょっとノスタルジックな響きがただよう。
一時期、毎年のように海外へ一人旅をしてた時期があった。バックパックを背負って世界一周などの大層なものではなく、会社の休みに1週間ほど知らない国にちょっと行ってみようか? といったかんじだった。
 
私が一人旅をするようになったのは、ひろこさんという旅好きでアクティブな女性と出会ったからだ。ひろこさんは、お正月や夏休みに一人でバンバン海外にドライブ旅行に行っていた。彼女と2人でお正月休みにカリフォルニアに旅行した時、 空港に着いた彼女はレンタカーを借りて、アメリカの道路をスイスイ運転し、サンフランシスコでレインボーブリッジなど少し観光したあと、ワインの産地として有名なナパバレーに行き、ワイナリーを巡ったり、ワイン列車に載ってカウントダウンを楽しんだのだ。
 
移動は車で、ガソリンはセルフで入れて、日が暮れてきたら、目についたリーズナブルなホテルに泊まる。普通に生活しているような感覚だった。それまで、海外旅行は一大イベントだと思っていた私にとっては目から鱗が落ちるような衝撃で、海外旅行ってこんなに簡単にできちゃうもんなんだ、と思ったのだ。
 
旅行中に、ひろこさんから、航空券の取り方、ホテルの選び方や予約の仕方などいろいろとレクチャーを受け、なんとなく私もやってみようと思うようになったのだ。

 

 

 

初めて一人で行ったのは、カナダ東部の小さな島、プリンスエドワード島。赤毛のアンの島だ。子供の頃にアンが大好きだった私は、治安がいいこの島を、最初の一人旅の旅先に選んだ。必死になって観光局で情報を集めて、恐る恐る旅立った初めての一人旅では、赤毛のアンの作者のモンゴメリー女史の生家の博物館を訪ねたり、美しい自然を楽しんだり、とても楽しかった。何より、心配性の自分が一人旅ができたことが、ちょっとした自信にもなった。これに気をよくした私は、それから毎年のように、アジアやヨーロッパなどに出かけるようになった。
 
私は入社してからずっと平凡な事務職として働いていたので、ふだんの生活にはそれほど変化はなかったから、一人旅は私にとってはちょっとした冒険で、 自分の知らないものと出会い、 自分の可能性や自分の視野を少し広げてくれる貴重な機会を与えてくれる場だった。
 
一人旅のいいところは、自分のペースで何でもできることだ。ちょっとしんどいところは、当たり前だけど、何でも自分で決めないと動けないこと。どこに泊まるか、どこに行くか、どのお店に入るか、決めるのはすべて自分。結果が楽しくてもそうでなくても、美味しくてもまずくても、すべて自分の責任だ。ふだんはこれだけ頻繁に自分で決め続けることはなかったから、一人旅をすることは、まあまあハードな即決のトレーニングでもあり、精神的にも鍛えられた気がする。
 
話す相手もいないから、結構まわりも観察する。ナビのない時代、初めての場所だと、バスに乗ったり、目的地に行くのも大変だ。偶然横に座った人と話をして盛り上がったり、時にはいろいろ交渉したりと、ふだん使っていない感覚が鍛えられる感じだ。一人で食事しているときなど、たまに淋しく感じるときもあるが、ワクワク楽しいことの方が多い。
 
ちょっとしたトラブルに出会うこともある。その時の事や、その時の会話などは、ちょっと辛いスパイスのような記憶として、不思議とずっと覚えていている。でも、現地の人の優しさに触れることが出来るのも、トラブルがあった時のことが多い。

 

 

 

あるとき、パリとチェコのプラハに行ったことがある。パリは華やかな都市だ、オルセー美術館や、ルーブル美術館をはじめ。見応えのある美術館は星の数ほどもあるし、ゴージャスなオペラ座で見るバレエもうっとりするくらい素晴らしい。でも、観光客の多いパリにはスリも多い。
 
パリ郊外のクリニャンクールという蚤の市を歩いていた時に、「もしもし」と大柄な男の人に呼びかけられた。コートの肩のところにタバコの灰が落ちている、と言う。瞬間、「マズイ!」 と思った。
 
心配性の私は、旅に来る前に、ガイドブックは穴があくほど読んでいる。特に「日本人が巻き込まれやすいトラブル」のページなどは熟読している。タバコの灰の手口もガイドブックにあった。一人がタバコの灰を観光客につけて、その人が慌てて両手で灰を払っている間に、相棒が鞄をひったくる、というものだ。あっと思って、すぐに肩からかけたカバンの方を見ると、後ろに仲間らしき少年がいる。とっさに「No!」 と叫んで、鞄を抱きかかえた私は、走って逃げた。危ない危ない。
 
また、別の日には地下鉄で財布をすられそうになった。この時は私をじろじろ見ている斜め前の男の目つきが何かヘンで、嫌な予感がした。ポーチを見ると案の定半分ファスナーが開けられていた。一瞬「やられたか」と血の気が引いた。 慌てて次の駅で別の車両に移った。こっそりカバンの中を見ると、運がいいことに財布は無事だった。パリではホテルに戻るまでは本当に気を抜けなかった。

 

 

 

パリで数日過ごした後、チェコに列車で移動した。車窓を眺めながら、列車でのんびり旅をするのは大好きだ。途中で乗り換えて、プラハ中央駅に到着し、一旦ホテルに行く。駅の近くの家族経営の小さなホテルで、受付で出迎えてくれたのは、小柄で少し年配のおじさんだった。物静かだが、笑うとシワのよった顔がクシャッとしてチャーミングだ。私が通されたのは最上階の部屋で、屋根の梁がみえるシンプルなお部屋。窓からは市内も少し見える。少し休んで、受付でおじさんに、プラハの地図をもらい、おすすめ観光ルートを聞いて、プラハ市内の観光に出かける。
 
プラハの旧市街は中世の街並みをそのまま残しており、石畳が美しく、どこを撮っても絵になる。、坂道を上ってプラハ城へ行く。高台から見えるプラハ旧市街の街並みは、赤いとんがり帽子の屋根が連なって、おもちゃの街みたいだ。
 
ブルダヴァ川に架かるカレル橋は、中世の歴史ある石橋で、欄干には聖人増が並び、重厚な雰囲気だ。この橋の上から眺める旧市街の眺めも美しい。天気もよく、観光にはうってつけの日だった。
 
その後、国立歌劇場の近くを通り、公園をぶらぶら歩いて、中央駅を通ってホテルに戻ることにした。確か公園から中央駅に行く途中だったと思うが、短い地下道があった。人は少なかったが、地下道の中も明るい。歩いて出口の方に向かっている途中で、前から来た2人の男が「エクスキューズミー」と私の前に立ちはだかった。警官らしき制服姿だ。
 
なんだろう、と思っていると
「あなたは旅行者ですか?」 と聞く。
「ええ」 と答えると、
「私たちは警官で、最近この辺りでもスリなどの犯罪が多いので、この辺りをパトロールしています。旅行者の方にも、今身分証の提示をお願いしているので、パスポートを見せてくれますか?」
 
聞いた瞬間に、「怪しい」と思った。「日本人が巻き込まれやすいトラブル」ページに、ニセ警官によるパスポートや貴重品の盗難事件の手口も載っていたのだ。人を信じやすい日本人は、こういった手口の詐欺によくひっかかるから注意するように、とも書かれていたのだ。
 
一瞬、もしホンモノの警官だったら? という考えも頭をかすめたが、多分ニセ警官だろう、と思った。パスポートや、貴重品は肌身離さず持ち歩いてはいるが、ここで盗られるわけにはいかない。私は、助けてくれそうな人がいないかと、辺りを見回した。あいにく地下道の中には誰もいない。なんとかここを切り抜けるしかない。
 
「警察の方なら身分証明書見せていただけますか?」
と、ガイドブックに載っていた通りに聞いてみる。
すると、二人は写真付きの証明書を見せてくれた。しかし、チェコ語で書かれていて、それが身分証かどうかもわからない。将棋のように、二手先や三手先を考えられるといいのだが、そんな余裕は全くない。
 
「パスポートや貴重品はホテルセーフティボックスに預けてきました」 と私は言った。すると、
「トラベラーズチェックや、現金は持っていないですか?」と聞いてくる。
この瞬間、「もしかしたらホンモノ警官かも?」 といううっすらとした思いは吹き飛んだ。なんとしても、ここから逃げなければならない。ああ、話しかけられても、わからないふりしてさっさと逃げておけば良かった。うかつに返事をした私がバカだった、と思ってももう遅い。さあ、どうする? いろんな思いが頭の中をぐるぐるとかけめぐっていた。
 
旅行中、私は財布とは別に、現地通貨の小銭と小額紙幣を入れた小銭入れをカバンの外ポケットに入れていた。できるだけ人前で財布を出したくないので、簡単な買い物はこちらで済ませていたのだ。
 
こうなったら、この小銭入れだけ渡して逃げようと思って、チェコのお金が入った小銭入れを渡す。2人は財布を開けて中身をチェックして、
「これではなく、ドルはないのか? 日本円は?」と聞いてくる。
 
だんだん、腹が立って、アホらしくなってきた。
「そんなものはありません」
「パスポートも円もドルもないのか?」
「そういったものは全てホテルにおいてきています。よろしかったらホテルまでお越しいただけませんか? そうしたらお見せします」 と言い捨てて、くるりと後ろを振り返ると、私はホテルに向かって猛スピードで歩き出した。
 
後ろから、「ハロー、ハロー」と呼んでいる声が聞こえたが、追いかけてくる感じはない。私は後を振り向かず、ひたすら地下道の出口を目指して歩いた。ちょっとでも足音がしたら、走って逃げるつもりだった。幸い地下道はそれほど長いものではなくて、すぐに出口が見えてきた。外に出たとたん、明るい太陽の光が私を包んだ。公園では人々がゆったりと散歩を楽しんでいる。
 
「助かった」
ほっとして、足の力が抜けてヘナヘナとなった。
 
今から考えると、私は本当に運がよかったのだ。あのニセ警官たちが凶暴な人でなかったことに感謝するしかない。

 

 

 

さすがにその後は観光する気にもならず、すぐにホテルに戻った。
ホテルのおじさんは、昨日と同じように受付に静かに座っていて、玄関から入ってきた私を見た。おじさんは、私のただことならない気配を感じ取ったのか
「お帰りなさい。ちょっと疲れたようだね。温かいコーヒーでもいかがかな?」とお茶に誘ってくれた。
 
この心遣いが本当に嬉しかった。一人旅のいいところは、自由気ままに過ごせることだが、その代償をもあって、綺麗な景色を見てものすごく感動した時も、何か困ったことや悲しいことがあった時でも、その気持ちを聞いてもらえる人がいないのだ。
 
おじさんは、温かいコーヒーを入れた白いカップを二つ持ってくると、丸いテーブルの脇のイスにしょぼんと腰をかけている私の前にカップを一つ置いて、向かい側の席に座った。ミルクがたっぷり入ったコーヒーで、湯気がほかほかと立ち上っている。一口飲むと、コーヒーの温かさ、甘さ、ほろ苦さがすっと体中に広がった。
 
おじさんが聞いた。
「どうかしたの?」
それまで張り詰めていた気持ちの糸がプツッと切れて、私は話し出した。
「今日は、カレル橋やプラハ城に行ったんです。天気もよくて、ステキな街並みを見て、とても楽しかったです。その帰り、ホテルに向かおうとプラハ中央駅の近く地下道に入って歩いているとき、2人連れの警官に呼び止められたんです。そして、……」
と、 私は先ほど起こった出来事を、話し始めた。
おじさんは黙って静かに聞いてくれた。私は起こったことを順番に話した。
「最後に、パスポートはホテルにあるからホテルまで一緒にきてくださいと言って、一目散に逃げてきたんです」
その時のことを思い出し、怖さと腹立たしさで気持ちが高ぶって、ちょっと涙声になりながら私は話を終えた。
 
しばらくじっと私の方をじっと見ていたおじさんは、静かな口調でこう言った。
「もう大丈夫だよ。怖い思いをしたね。よくやったよ」
「……」
 
「少しは落ち着いたかい?
あなたが初めて来たチェコで、そんな目にあうことになって、本当に申し分けない。
 
でも、これだけは覚えておいてほしいんだ。
どこの国でもね、いい人間もいれば、悪い人間もいるんだよ。
そうだろう?」
 
おじさんの静かな声を聞いていると、荒波のように揺れていた私の心は、少しずつ静かになった。
おじさんが、「こんなことがあったからといって、チェコの事を嫌いにならないでね」と言ったんだったかどうだったかは覚えていない。私は、一休みしたあと、その晩は国立歌劇場にオペラを見に行って感動し、2日後、おじさんにサヨナラを言って日本に戻ってきた。
 
私が今までチェコに行ったのは、この一回だけだ。カレル橋のこともプラハ城のことも、もうあまり覚えていないし、その時お世話になったホテルの名前ももう覚えていない。でも、 おじさんの静かなたたずまいと、言ってくれた言葉は、今でもはっきり私の耳の奥に残っている。
 
旅は楽しい。たくさんの優しい人や、素晴らしい光景に出会った。トラブルに会うこともあった。感動した記憶も、嫌な記憶も、葉っぱのように一枚一枚積み重なって、旅の記憶という木は少しずつ大きくなっていく。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
西野順子READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

神戸出身。電機メーカーで人材開発、労務管理、採用、システム開発等に携わる。2020年に独立し、仕事もプライベートも充実した豊かな生活を送りたい人のライフキャリアの実現を支援している。キャリア・コンサルタント、社会保険労務士、通訳案内士

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

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2021-05-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.128

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