週刊READING LIFE vol.129

命がけのウルトラハードなレース《週刊READING LIFE vol.129「人生で一番『生きててよかった』と思った瞬間」》


2021/05/24/公開
佐藤謙介(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)
 
 
「生きて帰ってこられた」
 
私が趣味にしているウルトラトレイルランニングは、100km以上の山道を走る山岳レースである。
こう話すとほとんどの人から「人間って100kmも走れるんですか?」といった距離に対しての驚きの反応が返ってくる。
 
一般的な人にとって「走る」という行為の最長距離はフルマラソンの42.195kmではないだろうか。
もちろん知識としてそれ以上の超長距離を走る人がいることは知っているかもしれないが、それはかなりレアケースで、言ってしまえば変態的な人たちがどこかの国で行っている変態レースくらいに思っているのではないだろうか。
 
それが実は、隣にいる同僚が「俺、こないだ100km走ってきたんだよね」と言い出すのだから、まさか自分のすぐ近くに「変態」がいるなんて思いもよらないだろう。
実際ウルトラトレイルレースを20回近く走っている私ですらたまに「よくこんな距離走れるな」と思うほどなのだから、まったく走ることに興味を持っていない人からすれば、想像することすら難しいに違いない。
 
ただ、そんなウルトラトレイルランナーたちもいきなり100kmなんて距離を走り始めたわけではなく、最初は5kmとか10km程度のレースから始めている人が殆どだ。
実際、私も最初に参加したレースは「ファミリーコース」という10kmのレースで、周りには子供やご年配の方と一緒に、ほとんど山は登らず森の中を気持ちよく走る程度のレースから始めた。
この時まで10km走った経験もほとんどなく「自分に走れるだろうか?」と不安な気持ちを抱きながらレースにのぞんだことを今でも覚えている。しかし走ってみると、森の中は涼しい風が吹き、川沿いの美しい景色と、遠くに見える雄大な山を眺めながら走ることが、まさかこれほど気持ちのいいものだとは想像すらできなかった。
 
このたった一回のレースで私はすっかり「トレイルランニング」の魅力にはまってしまった。
実は現在の様々な研究で「自然と触れ合うこと」が人間のストレス値を下げたり、マインドフルネスに効果があることが実証されている(これを専門用語で「バイオフィリア」という)
日本には昔から「森林浴」という言葉があるほど、日本人は森からのエネルギーを全身で浴びる効果を感じてきた国民なのだ(ちなみに英語に「森林浴」に該当する単語はない)
また運動がもたらす効果は、鬱などの精神疾患の改善にも効果があることが分かっており、抗鬱剤を飲むのと、30分の軽い運動では同じくらいの効果があると言われている。
 
つまり、自然の中を自分にとって気持ちの良いくらいのペースで走る「トレイルランニング」は、実は全てのスポーツの中で最もマインドフルネスに効果があるスポーツと言っても過言ではないのだ。
 
とはいえだ、トレイルランニングが気持ちいいことは分かったとしても、100km走るのはさすがにどうかしていると思うだろう。実はここにはもう一つ脳のカラクリがあり、それが発動してしまうと「ウルトラの沼」にハマってしまうのである。
 
 
人間の脳は快楽的な刺激を受けたときに脳内で「ドーパミン」という物質が大量に発生する。このドーパミンが脳内で作られると人は「快・喜び」を感じるようになっている。そして一度この「快・喜び」を感じてしまうと、再びそれを感じたくなる。しかも前回と同じ刺激では物足りないため、さらに強い刺激を求めるようになるのだ。
 
つまりウルトラトレイルランナーになった人達にも同じことが起こっている。
最初は5kmから10kmという自分にとって、ほどよく気持ちいい刺激を経験する。しかもその気持ち良さはマインドフルネスをビンビンに刺激するものだ。しかもゴールという達成感まで加わり、頭の中にはドーパミンがこれでもかというほどドバドバ出る。すると途中の上り坂で息があがってきつかったことも、下り坂を恐る恐る降りたことも全部が「楽しかった思い出」に変わってしまう。
 
レースから2、3日もすると「あ~、週末は楽しかったなあ」とあの時の気持ち良さが再度蘇ってくる(実は人間は記憶を思い出すだけでもドーパミンが出るらしい)
するともう一度あの刺激を味わいたくなってくる。そして仕事中にも関わらずこっそりネットで他にも参加できそうなレースを検索してしまう。そして「前回は10km走れたから、次はもう少し長いレースに出てみようかな」とさらに強い刺激を求めるようになる。
そしてまたレースに参加して、同じような刺激を受け、さらに脳は気持ち良さを記憶する。こうしてどんどん強い刺激を求めていくうちに「ウルトラトレイルレース」にまで行きついてしまうというわけだ。
 
これを読んで勘の良い人ならお気づきだと思うが、このサイクルを別名「中毒」「依存症」と言う。
そう、つまりウルトラトレイルランナーたちは「トレイルランニング」という脳にとって最高に気持ちが良いスポーツの「中毒」になっている人たちなのである。
 
そのため、トレイルランナーたちは走る距離が30km、50kmとどんどん伸びていく。
普段の練習でも最初は近場の山で5km程度だったのが、気づけば休みの日ずっと山の中を走り10時間、50kmなんてことになり、それをSNSに発信して、同じ変態仲間からの「イイね(承認)」をもらうと、さらに気持ちよくなり、また走りたくなってしまうのだ。ここまで来たら完全な「トレイルランニング中毒者」の出来上がりだ。
 
ただ、どんな中毒にもやはりそれなりのリスクが伴う。
トレイルランニングにおいては、山の中を走ることに対するリスクだ。ここを甘く見てしまうと大きな怪我や最悪死に繋がることもあるので、十分な注意が必要である。
 
その意味で私も過去に参加したウルトラトレイルレースでは命からがら完走したレースがあった。
私が初めて参加したウルトラトレイルレースは「NASUロング」というレースだった。
このレースは福島県の羽鳥湖から栃木県那須塩原市にある板室温泉までを繋いだ全長100kmのウルトラトレイルレースである。途中には日本100名山にも名を連ねる那須岳も通り、壮大な景色を見ながら走ることが出来るレースになるはずだった。
 
ところがレース当日の天気はあいにくの雨。朝5時のスタート地点には小雨が降り、6月の下旬というのに気温は12℃と肌寒い気温だった。トレイルランニングは
 
「雨天決行、荒天中止」
 
というルールがある。
つまり「多少の雨ならやる。でもスゴイ荒れたら中止ですよ」ということだ。
当然小雨程度の雨ならレースは開催されるため、スタート地点には数百人のランナーたちが集まっていた。
 
私も初めてのウルトラトレイルレースということもあり、やる気満々でスタートラインに立った。しかし万が一に備えて、防水加工されたレインウェアを上下、さらに寒さ防止のために手袋と替えのシャツをザックに入れて準備を整えた。
 
そしてレーススタート。
雨は相変わらず降り続けていたが、レインウェアを着るほどの雨量ではなかった。肌寒いとはいえ走ればすぐに暑くなり、汗が噴き出るので、レインウェアを着るほうが発汗をうながし身体を冷やしてしまう。しかも日中になれば少しは気温も上がるだろうと思い、私はTシャツ、短パンで走り続けた。
 
ところがレースが進むにつれて、雨はどんどん強くなり、本降りとなった。レース中に超える山は大きくは5つあり、もっとも高い山では1,800m近くまで登ることになる。ここまで来ると下界とは気温もだいぶ変わってくる。
 
通常気温は標高が100m上昇するごとに0.6℃下がる。
スタート地点は標高700mの高原にあったため、最高到達地点とは約1,000mの標高差ということになる。つまり、山頂付近では気温が6℃下がるということだ。
スタート地点での気温は12℃。つまり山頂は6℃近くまで下がる。しかもこの日は雨で山頂は遮る木もほとんどないため、雨風がダイレクトに選手たちの身体に打ち付ける。そのため選手たちの体感温度は実際の気温以上に低くなった。
 
案の定、私がいくつかのピークに登ると雨と風、そして濃い霧が立ち込め、想像以上の寒さを感じた。体感温度ではほとんど氷点下ではないかというほどの寒さだった。ここに長居しては低体温症になる可能性が高まるため、山頂付近は出来るだけ早く通過しなければいけなかった。
 
レースは時間が経つにつれて過酷さを増していった。日中になっても気温は一向に上がらず、選手たちの体力をどんどん奪い去った。そして中間の50kmのエイドステーションにたどり着いたときには、ほとんどの選手が気力も奪われ、次々とリタイヤをしていった。実際この中間地点でおよそ半分の選手がリタイヤをしてしまった。
 
私も既に身体が冷え切っていたが、初めてのウルトラレースをリタイヤすることはしたくないと考え、ここで持っていたレインウェアを上下着込み、手袋をはめ後半戦に臨んだ。
この先は日没になるため、雨の山中をヘッドライトを頼りに進むことになる。雨はさらに強まり、朝の小雨とは打って変わり土砂降りになっていた。地面は雨に濡れてぬかるみ、場所によっては滝のように水が流れ、コースが全く分からない箇所もあった。
 
目印を頼りに進むが、雨で視界が悪く、さらに気温が下がり、レースは過酷さを極めた。
レースも終盤に入ると前後にほとんど選手の姿が見えなくなった。私が山の中を進んでいるとこの1時間半、誰とも会っていないことに気が付いた。通常のレースで1時間以上誰とも会わないことなんてまずない。
この時、私は頭の中で「雨天決行、荒天中止」の言葉を思い出した。
 
「もしかして既にレースは『荒天』で中止になったのではないか」
「自分だけそれを知らずに山の中を彷徨っているのではないか」
と急に自分の置かれている状況が怖くなった。
 
そんな恐怖を抱えながら山を下りると、山道の出口にライトを持ったボランティアスタッフの姿が見えた。
私はスタッフに「レースはまだ続いてますか?」と尋ねた。するとスタッフは「まだやってますよ。頑張ってくださいね」と声をかけてくれて、ホッとしたのと同時に「まだやってるのか……」とこの後まだ10km近くあることを思って暗い気持ちになった。
 
そして最後の山に入ると、降り続いた雨でコースの一部が土砂崩れでも起こったのかというほど斜面が雨と泥でドロドロになり、滑り台のようになっていた。そしてこの斜面の先にコースの目印が見えたが、そこまでどうやってたどり着いたらいいのか分からず、その場に立ちすくんでしまった。
私は自分の体重を絶対に支えることなどできないと分かっているのに、地面に生えている長めの草に掴まり、ゆっくりと降り始めた。斜面の向こう側には川が濁流となって流れている。一歩でも踏み外したら泥の滑り台を転げ落ちてあの川に落ちてしまう。そうなったら一巻の終わりだ。距離にしたらほんの数メートル。しかしその距離が自分の命を懸けないと渡れないほどの緊張感を産み出していた。
 
そして何とか斜面を降り、コースに戻りゴールを目指して走った。
山道を出て、ロードをしばらく走ると、視線の先に明るく光るゴール会場が見えた。私は最後の力を振り絞って会場に入り、そしてゴールテープを切った。
 
猛烈な達成感が一気に体の中を駆け巡った。
時間は深夜1時を回っていたが、ゴール会場で待っていてくれた家族が駆け寄ってきてくれた。
家族の顔を見たときに
 
「生きて帰ってこれた」
 
安堵感でその場に座り込みしばらく動くことが出来なかった。
 
初めてのウルトラトレイルレースは、まさに命がけのレースとなった。
終わってみると完走率は22.9%。通常のウルトラレースの半分以下となる完走率が、このレースの過酷さを物語っていた。そして私は、このレース以上に過酷なレースはその後も経験していない。
 
しかしこんな過酷な経験をしたにも関わらず、私は翌年にはまた「NASUロング」に参加したいと思っていたのだから「中毒」とはいやはや恐ろしいものである。
(ところが実際にはその後、この大会が開催されることはなかった。理由はご想像にお任せする)
 
 
注)ウルトラトレイルレースに限らずトレイルランニングは山の中を走る競技のため、一定のリスクが伴う。この記事も実はレースに完走したことを手放しに称賛するものでもない。賢明な選手は天候とレースコンディションを考え、これ以上は危険と自ら判断しレースを辞めた選手もいる。自分の実力を見誤って先に進むと、大怪我をしたり、低体温症で動けなくなり、自分だけでなく周りでサポートしてくれる人にも大きなリスクを伴わせることがある。そのため、トレイルランニングには冷静な判断力が求められることはご承知おきいただきたい。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
佐藤謙介(天狼院ライターズ倶楽部 READING LIFE公認ライター)

静岡県生まれ。鎌倉市在住。
幼少期は学校一の肥満児で、校内マラソン大会では3年連続最下位。ところが35歳の時にトレイルランニングに出会い、その魅力に憑りつかれ、今ではウルトラトレイルランニングを中心に年に数本のレースに参加している。2019年には世界最高峰のウルトラトレイルランニングの高い「UTMB」に参戦し完走。2021年より「WEB READING LIFE」公認ライターとして、トレイルランニングの記事を連載予定。

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2021-05-24 | Posted in 週刊READING LIFE vol.129

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