週刊READING LIFE vol.19

たとえ「異端」でも、自分だけの「美」を大切に《週刊READING LIFE vol.19「今こそ知りたいARTの話」》


記事:戸田タマス(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

憧れのフェルメール


 

先日、上野で開催されているフェルメール展に行ってきた。

 

 

 

フェルメールは、17世紀オランダを代表する画家である。大変人気のある画家なのでご存知の方も多いだろう。神話や聖書の題材が多く好まれたバロック期の画家には珍しく、何でもない日常を覗き見たような構図と、光の粒子までも描きだす独特なタッチの絵画で知られている。

 

一番の特徴としては、ラピスラズリという宝石を原材料として作られる深い青色の顔料「ウルトラマリン」を使い、通称「フェルメールブルー」と呼ばれる大変美しい青をふんだんに使っていることだろう。
フェルメールは、当時結婚していた女性の母親がとても裕福だったため、純金よりも貴重で、一般的な青色の顔料の何百倍という値段の付けられたウルトラマリンをふんだんに使える環境にあった。大変幸運な境遇の画家なのである。

 

学生時代、初めてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」という作品を本で見た。暗がりの中、青いターバンを巻き真珠の耳飾りをつけた少女がこちらを振り向くというシンプルな構図の絵だ。

 

この絵画を見た時に感じた衝撃は今でも忘れられない。ターバン部分の深く美しい「フェルメールブルー」や、耳があるはずの暗闇の中で一点だけ強く輝く大きな真珠、少女の謎めいた視線、濡れた半開きの唇まで、その神秘的な雰囲気の全てが私を魅了した。
ドラマティックで動的な要素はほとんどない。しかし、絵の中の彼女は何を思ってこちらを見ているのだろう。一体彼女は誰なのか、年はいくつなのか、フェルメールとどのような関係だったのか、それとも、完全に創造上の女性なのか。

 

絵画自体は湖面のように静かでありながら、見る人の想像力をこれでもかという位かき立てる。私は絵画に翻弄される感覚を初めて知った。
実際、モデルの女性が誰であるかは研究者の中でも意見が分かれており、今でも謎のままなのだ。私はもはや、このまま永遠に分からないままであれと思っている。

 

フェルメールは現存する絵画が35点ととても少ない。今回東京で公開されたのはそのうちの9点だ。「フェルメール? 青いバンダナしてる人?」レベルで全く興味のない夫に娘を頼み、遠足前の小学生のような気持ちで小躍りしながら上野まで行ってきた。

 

 

 

もう言葉が出ないくらい、とろけるような感動をした。

 

 

 

美しさはまるで本で見た通り。しかしその放つオーラの違いはまるで月とせんべいだ。小ぶりなサイズも多いフェルメールの絵画だが、思ったより小さいなとは一切思わない。それくらい圧倒的な存在感。
長い列をゆっくり進み、初めて絵画の前に立った。私と絵画の間には立ち入り禁止のテープしかない。その感動は静かにじわじわと私を覆った。私の頭の中は、すでに17世紀にタイムスリップしたかのような錯覚すら感じていた。一種の催眠だった。

 

そして何より嬉しかったのは、ふと我に返って展示会場を見渡した時、私同様、鑑賞者がそれぞれの世界でそれぞれのフェルメールに酔いしれていたことだ。絵画と鑑賞者だけの、恋人同士のような甘い世界がいくつも見えたように思った。

 

その光景は、私にひどく安心感をもたらした。

 

 

 

家族の中で感じていた「異端」


 

我が家は筋金入りの音楽一家だった。

 

 

 

父はクラリネットとアコースティックギターを所有しており、クラシックとフォークソングをこよなく愛し自分も演奏し歌っていた。母はオカリナとハーモニカを吹いた。
極めつけは、兄は今現役のチェリストである。

 

他にもピアノ、エレキギター、エレクトーン、コントラバスが家にある。
とても裕福な家のように見えるかもしれないがそんなことは無く、音楽以外に興味が薄い人間の集まりだったから、他にお金を使っていないというだけのことだ。

 

子供の頃からクラシック音楽が家中に流れているのが当たり前だった。兄が中学生になって本格的に音楽を始めてからはさらに加速し、マニアックな会話が交わされるようになった。ナニナニ交響楽団の誰々がすごいだの、指揮者の誰々はやっぱり下手だのと、家族全員で講評会が行われていた。

 

そんな中、家族の中で私1人だけが音楽に興味を持てずにいた。
クラシック音楽は全部同じに聞こえるし、音譜だって全く読めない上に読みたいと思ったことがない。ピアノは一年だけ通ったがすぐに行かなくなった。
私の名前も、若い頃は本気で音楽で食べて行こうとすら思っていた父が「音楽好きな子になるように」と願いを込めてつけられたそうだ。だが大変申し訳ないことに、ずっとその期待に応えられないまま今日まで来てしまっている。

 

 

 

その代わり、私はずっと絵を描くことが好きだった。

 

家族中が音楽の話をしている中で、何時間も1人でスケッチブックに絵を描き遊んでいた。
中学生くらいまでは漫画もよく描いていた。私の絵画好きのルーツは間違いなくここからである。
だが、家族の中で自分だけが「異端」であることはうっすら理解しており、父達が音楽の話をし始めると何となく別の部屋に移動して描いていた。
何より苦しかったのは、「音楽面白いのにどうしてやらないの?」「絵の何がそんなに楽しいの?」などと言われていたことだ。もちろん家族には悪気はなく、純粋な疑問から言っていただけだと分かっている。だが気の弱い私は、いつも真綿で首を絞められているように感じていた。

 

 

 

音楽が面白くない自分は変なのか。
絵が楽しい自分は間違っているのか。
やはり、1人だけ「異端」は寂しかった。

 

しかし、それから10年以上も経ったある日、あの時の自分を救ってくれるような言葉に出会った。

 

 

 

美は見る人の目の中にある

 

私は30代になってから、あるデザイン学校にてWEBデザインの勉強をした。全くのド素人であった私がまず講師から教わったのは「アートとデザインの違い」という内容であった。

 

アートとデザインは、似たイメージを持ちながらも全く正反対の役割を持つ。

 

まず「アート」の大きな役割は「表現すること」。
例えば画家などに代表される「アーティスト」という肩書の方々は、自分の中の激情を「表現すること」に重きを置く。そしてそこには、鑑賞者がどんなふうに感じるかなどという意思は存在せず、とにかく主観的なものである。売れた、評価された、というものは「結果的に」ついてくるものであり、鑑賞者も何を良いと思うかはそれぞれの感性にゆだねられる。

 

対する「デザイン」の役割は「相手に伝えること」。
「デザイナー」と呼ばれる人の仕事は、「商品を売るため」「○○というイメージを伝えるため」というはっきりした商業目的がある。その目的達成にむけて情報を集め計画し、組み立てていくものである。そのため、良い悪いが存在する客観的なものなのだ。むしろデザイナーが表現したいことを組み込んでしまうと、かえっていいデザインにはならないことがある。

 

クリエイター業界では基本の「き」であり、デザインに多少なりとも携わる身となってからは頭の中に染みついている話なのだが、当時の私にとっては本当に目からウロコの内容だった。
そして、講師がその時「美は見る人の目の中にある」という言葉を使ったのだ。後で有名なことわざだと知った。

 

 

 

ああ、この言葉を昔の自分に言ってあげられたら。そう思った。

 

家族の中で一人だけ絵が好きでも、変でも間違っていたわけでも何でもない。
私の心の中に生まれていた「絵が好き」という気持ちは、絵というアートに対する私の「美」であり、誰にも評価されるものでもないし、逆に誰かに押し付けるものでもない。

 

ただ、言ってしまえば単純だけれど、それが分かった所で「絵が好き」を貫けていたかどうかは分からないと思っている。
私は子供の頃から人から嫌われていないかなど、「人目」を気にすることが多かった。間違ったふうに「承認欲求」をこじらせていたのかも知れない。周りに合わせて自分の意見を変えることも多かったし、そうすることが良いことだとも思っていた。家族に合わせて音楽好きになろうとしたことだってある。

 

しかし、どれだけ無理をしてもいつかはメッキがはがれる。
やはり私は音楽好きにはなれなかったし、いつの間にか絵を描くこともほとんどなくなった。
「人目」ばかり気にしていた結果、私は特別個性のない、普通の大人に成長していった。もしあの頃、「私は絵が好きだから」と自分を貫けていたら、違った未来があったかも知れない。

 

 

 

自分の中の「美」は消えない


 

上野のフェルメール展で私が感じた安心感は、きっと「この人達も自分と同じだ」という意味で「承認欲求」が満たされたからだったのかも知れない。
30代にもなって情けないことだが、やはり私は自分と同じ感覚の人がいると安心するし、嬉しい。家族の中で「異端」だったあの頃、私が欲しかったのは、同じものを好きだと言ってくれる仲間だったからだ。

 

何より、その仲間の中ではいくらでも「自分」を出せるように思った。
フェルメールの絵画の前では、もはや鑑賞者全員が周りなど一切気にしていない。

 

あるご婦人はうっとり涙目になりながら、絵画の前で「ようやく会えたね」とつぶやきほほ笑んでいる。まるで離れ離れになっていた恋人と会っているかのようだ。
またある男性は、思わず絵画に手を差し伸べようとしてしまい、すっ飛んできた係員に怒られている。
その隣で女性2人組が、「額縁とのコントラストがたまらない」など、なかなか斜め上の視点から評価している。

 

今回フェルメール展を知ったのは、たまたまつけていた「日曜美術館」というNHKの番組で特集されていたからだった。「真珠の耳飾りの少女」を初めて見た時の感動が蘇り、気づけばスマホで会場のチケットを購入していた。
きっとそれを見なければ、娘の育児真っ最中の今、絵画を見に行こうなどとは思いつきもしなかっただろう。

 

 

 

ずっと忘れていたけれど、私はやっぱり「絵が好き」なのだ。

 

私の中の「美」は、どこにでもいる普通のおばさんとなった今でも、消えずに残っていてくれた。
大切に育てて大きくしてあげることは出来なかったけれど、今からでも時々こうやって磨いてあげれば、何か光るものが見つかるだろうか。

 

 

 

私は会場を出た。

 

よく晴れた1月の空の下、会場の外は入場待ちの列と、家路につく人の列でごった返していた。先ほど絵画の前で「ようやく会えたね」とつぶやいていたご婦人も会場から出てきていたが、あっという間に人混みに紛れて分からなくなった。

 

あのご婦人も、普段はきっと、どこにでもいる主婦なのだ。
こんなにたくさん人がいて、自分なんてそのうちの1人に過ぎない。何をあんなに「人目」にこだわることがあったのか。
今、自然とそう思うことができた。

 

 

 

また絵を描いてみようか。娘がもう少し成長して手が離れるようになったら、今度こそ本気で習いに行ってみようか。絵が好きな仲間ができたら、美術館に一緒に行ってくれるだろうか。

 

私は、行きと同じ位ワクワクした気持ちで、夫と娘の待つ家に帰っていく。

 
 
 

❏ライタープロフィール
戸田タマス(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
滋賀県出身。同志社大学卒。
派遣社員として金融機関を中心に従事する傍ら、一児の母として育児に奮闘中。
あるオウンドメディア内でライティングを初めて担当し、「書くこと」の楽しさ、難しさを知る。スキルアップのために、2018年8月天狼院書店のライティング・ゼミ日曜コースに参加したことをきっかけに、ますます「書くこと」にハマる。
しがない三十路の主婦がどこまで書けるようになるのか。ワクワクしながら自分へのチャレンジを楽しんでいます。

この記事は、天狼院書店の大人気講座・人生を変えるライティング教室「ライティング・ゼミ」を受講した方が書いたものです。ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。

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2019-02-11 | Posted in 週刊READING LIFE vol.19

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