週刊READING LIFE Vol.354

わかっているけど、ここから生まれる。だからこそ、手放せないの《週刊READING LIFE Vol.354「たまらない背徳感」 》


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2026/04/30 公開

記事:藤原 宏輝READING LIFELIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

「よしッ、気合い入れて終わらせよう」

地下鉄に吸い込まれるように、仕事を終えた人たちが帰路へと向かう時間帯、21:00。

灰色のビル群。

無機質に並ぶその窓の灯りが、ひとつ、またひとつと浮かび上がる。

流れに逆らいながらその光に吸い込まれるように、人が少なくなっていく方へと急いだ。

この時間、この空気、この流れ。

私の中からじわじわと湧き上がってくる、いつも以上の集中力とやる気! たまらない背徳感。

この日も昼下がりのオフィスでは、打ち合わせ、電話、確認事項、キーボードの音、人の声。すべてが重なり合い、空気は少しだけ熱を帯びていた。

「社長、これ先方が急いでいて、確認と判断をお願いします」

「社長、この見積もり週末にお客様に提案するので、明日までに確認お願いします」

言葉が、次々に投げられた。

私はそれを受け取りながら、途切れないように返していく。

速く、正確に、迷わずに……。そうしなければ、回らない。

気づかないうちに、どんどん肩に力が入っていった。

完璧にやろうとするほど、ほんのわずかなズレが気になり、そのズレを埋めようとして、さらに力が入る。

そんな感覚を抱えたまま、私は、ふと時計を見る。

そろそろ、いい時間。

「ちょっと、行ってくるね」

何気なく明るく普段通り、スタッフに声をかけたつもりだが、いつもより声が弾んでいるような気がした。

「あれ、今日外出でしたっけ? 行ってらっしゃい、社長」

チーフからのひと言。

他のスタッフも一瞬こちらを見るが、すぐにそれぞれの仕事に戻っていく。

壁にある行き先ボードには、すでに美容院の会社名が書いてある。

ネイル、美容院、整体、まつエク。

どれも仕事の延長線上にある、日頃からお客様を紹介しているサロンばかりだ。

だから、誰も疑わない。

「ご新婦様の事か、来期の打ち合わせか何かな」

その程度の認識だろう。

もちろん、それぞれのサロンに出向く時には、実際に仕事の話をしている。

だが、その日の目的は少し違った。

もっと個人的で、もっと自由で、そして少しだけ、後ろめたいもの。

サロンの椅子に座ると、一瞬にして世界が切り替わる。

仕事の顔から、一人の人間へ。

鏡に映る自分は、経営者でも、責任者でもない。

ただ、少し疲れて、少し整えたがっている私だ。

ネイルが整う日、髪が形を変える日、まつ毛が静かに存在感を増していく日、身体が整う日。

その変化は、小さくて、確実で、そして確信的だ。

誰のためでもない。ただ、自分のためのアップデート。

スタッフやお客様の対応、打ち合わせ、週末の挙式準備。

みんなそれぞれに、オフィスで、現場で頑張ってくれている。

しかし、私は……。これが、たまらない。

21:00、灰色のビル群。

人の流れに逆らいながらその光に吸い込まれるように、スタッフがもう誰も残っていない静まり返ったオフィスに戻る。

美容院で整えたばかりの髪から漂うかすかな香りを感じながら、オフィス特有の少し冷えた空気を感じる。

「今日は日付が変わる前に、終わらせよう」

自分を調律するように、リズム良くキーボードを叩く。

私の仕事だけに集中出来る、そんな贅沢。静寂に包まれたオフィスは至福の時間

スタッフからの「今日中にお願いします」もやり切った。

「逃げじゃないなぁ、今日の私。エネルギーチャージだな」

そう思った。その日の仕事を終え、そっとオフィスを後にした。

さらにここ最近の私は、数年前には想像もできなかったような、時間の使い方をしている。

それは、背徳感を極限まで引き上げる。

3年ほど前、ほぼ同時に3人の三浦さんにご縁があり出会った。

私の人生や考え方を大きく変化させていく、そのきっかけになった方たち。その中の1人が、ゴルフのコーチ三浦先生。

毎週火曜日の夕方。

オフィスを2時間ほど抜け出す、ゴルフレッスン。クラブを握る手には、いつも力が入っていた。

「違いますねぇ、今のは力が入りすぎています」

うまくいかないスイング、思った方向に飛ばないボール。

三浦先生の冷静な声が響く。

ビジネスの現場では見せない表情が、ここではいくらでも出せる。

悔しさ、焦り、ほんの少しの苛立ち。

頭では分かっているのに、力が抜けない。

当てにいこうとするから、ボールは逸れていく。

「今のスイングは、何を考えていましたか?」

「ちゃんと当てようと」

私が悔しそうに答えると、三浦先生は少しだけ間を置いた。

「それが原因です」

私は、思わず顔を上げた。

「当てにいくと、崩れます」

もう一度、深く息を吸って吐き、力をなんとか抜こうとする。

そう意識した瞬間、逆に身体がぎこちなくなる。

「無理して、抜こうとしなくていいです」

三浦先生が、静かに後ろから言う。

「そのままで」

そのまま何も考えないで、落ち着いて、もう一度クラブを握り直して、振り上げ振り降ろした。

「あっ……

思わず声が漏れた。右手がクラブから外れてしまった。

しかしボールは、まっすぐに伸びた。余計な力が、どこにも入っていない美しい軌道。静かで、素直な一打。

振り返ると、三浦先生がこちらをじっと見ていた。

「今のです」

たった、ひと言それだけ。私は偶然決まった一打に、思わず笑みがこぼれる。

三浦先生は、感情と無意識を見抜く観察者だと感じる。

レッスン中、どんどん感情抜きに事実だけを突きつけてくる。その言葉に、なぜか仕事の光景が重なった。

ゴルフの技術の話をしているのに、人生の話に聞こえる。

ゴルフを教えてくれているのに、私の思考を整えてくる。

三浦先生が教えてくれいるのは、スイングだけじゃないな。と、私はふと気づいた。

最近の極め付けのアドバイスは、「無駄な力は、結果を鈍らせます」完全に仕事にも通じる。時間をかけてやればいいってものでもなく、力を入れ過ぎると伴わなくなる。

三浦先生は相手を見抜いて、相手を変化させようとする人ではなく、気づかせてくれる人。

レッスン中は役割から解放された、ただの一人の人として、私はボールを打っている。汗がにじむ、呼吸が荒くなる。けれど、そのすべてが心地いい。

これは遊びじゃない、私の最高の手放せないたまらない背徳感

筋肉痛や落ち込みといった「生々しい痛みや感情」は、ビジネスの場では見せられない人間らしさだが、三浦先生というプロの視線にさらされ、ただ一打に集中するこのたまらない背徳感の瞬間。それが結果として、仕事の成果を研ぎ澄ます。

平日夕方のゴルフレッスンは、今の私にとって必要な時間。

レッスンを終え、すぐに着替えて、私は再び何事もなかったかのように、2時間後にオフィスへ戻る。

エレベーターのボタンを押し、ふと時計を見る。

まだ、18時。

今日も誰かは残業している、そう思いながら静かにオフィスの扉を開ける。

「社長、おかえりなさい。これ、後で見てください」

「そこにメモ置いておきました。折り返しの電話、お願いします」

言葉が、次々に投げられる。

昼間と同じオフィスにいるのに、まるで違う場所のように感じる。

私はそれを受け取りながら、途切れないように返していく。

速く、正確に、迷わずに……

気づかないうちに、どんどん肩に力が入っていった昼間とは全く違って、身体は軽く、思考は澄んでいて、驚くほど仕事が進む。

不思議と何も引っかからない、昼間に抱えていた問題が、まるで嘘のように解けていく。

それは、あの時間があったからだ。

ネイルも、髪も、まつエクも、そして、ゴルフレッスンも。

すべてが、この瞬間のために繋がっている。‘ONOFF’それが、私の1つのリズムだと気づいた。。

昼間、あれだけ力を入れていたものが、今は何も意識しなくても流れていく。

考えすぎない、当てにいかない、整えようとしすぎない。

ただ、必要なことだけを置いていく。

画面に映る資料を見ながら、私は小さく息を吐いた。

今日一日のすべてが、一本に繋がる。

ゴルフの一打と、この一行の判断が、同じ感覚で結ばれているかのようだ。

そして、スタッフがみんな帰って行った後。

昼間とは、まるで違う。

誰の視線もない、急かされることもない、判断を委ねられることもない。

すべてを、自分で決められる時間。

整えた指先がキーボードを叩く、新しい髪型が、わずかに揺れる。

日付が変わる直前。

「やっと、終わった」

思わず声が漏れる。静かなオフィスに、自分の声だけが残る。

達成感、充実感。そして、確かな満足感。

ネイルを整え、ゴルフで汗を流し、精神をリセットしたからこそ、深夜の仕事は研ぎ澄まされ、誰も追いつけないスピードと質で成果が生まれる。この「自分だけのサイクル」を持っていることへの、静かな自負。

翌朝。

何事もなかったかのように、ミーティングが始まる。

私の髪型は少し変化している、誰か1人でも気づいているのか、いないのか。

誰も何も言わない。けれど、それでいい。

夕方から夜にかけて私がいない日も、翌朝には、すべての指示が完璧に整っている。

それが、すべての答えだ。

スケジュールの空白。それは、サボりではないし、逃げでもない。明日の決断を曇らせないための、私だけの時間。

背徳感は、悪ではない。

むしろ、それは自分を最高の状態に保つための、戦略。

誰にも見せない積み重ねの時間が、誰にも真似できない結果をつくる。

「今日も1日、頑張った!」

と自分を褒め、ついスイーツを我慢できずにコンビニに立ち寄り、深夜に食べてしまう。

そんな罪悪感にも、どことなく似ている。

どこか甘く、抗えない感覚。やめられない、たまらない背徳感……

そんなたまらない背徳感とともに、翌朝。

朝の光が、オフィスのブラインドの隙間から細く差し込んでいた。

いつも通りのミーティングが始まり、資料は揃い、進行は滞りなく進んでいく。

どうやら誰も、やっぱり気づいていない。

「髪型、気づいて」と一瞬思ったが、気付かれていない方が都合いいし、誰も昨夜のことには触れない。

そのまま、私は淡々と指示を出しながら、全体を見渡す。

その中に、入社して7年の信頼するチーフの姿。

結婚前は、誰よりも遅くまで残り、誰よりも数字にこだわっていた。

ブライダルの現場が、大好きで仕方がない。

そんな働き方をしていたが、今は違う。

時計を見ながら、保育園の迎えに間に合うように仕事を組み立てる。

優先順位は、明確に子ども。けれど、仕事の精度は落ちていない。

むしろ、無駄が削ぎ落とされている分、以前よりも研ぎ澄まされているようにさえ見える。

私は、その変化をずっと見てきた。

そして、いつも「かっこいいな」と思っている。

午後の会議が始まると「こちらの進行ですが」

チーフが口を開く。的確で無駄がないうえに、一つひとつの言葉が、現場を知っている人間の重みを持っている。

私は頷きながら、そのまま次の議題へ進めた。ふと、資料をめくる手が止まる。一瞬だけ、視線が合う。

チーフの目は静かだった、何かを知っているようで、それでも何も問わない。

毎週火曜日の夕方から外出する、時間の使い方。

夜、誰もいないオフィスで何をしているのかも。

もしかしたら、私の背徳感に気づいているのかもしれない。でも、彼女は何も言わない。詮索もしないし、評価もしない。

ただ、淡々と仕事をしている。

そして「この進行、すごく綺麗ですね」と言った。

その言葉は資料に向けられているようでいて、それだけではない響きを持っていた。私は、一拍だけ間を置いて、

「ありがとう」とだけ返す。

それ以上は、何もいらない。でも、わかっている。

彼女には彼女の時間がある、子どもと過ごす。そんなかけがえのない時間。

私は私の時間を持っている、誰にも見せない、あの時間。

どちらが、正しいではない。

どちらも、自分で選び取っている限り逃げじゃない。

会議が終わり、15時になった。チーフは時計をちらりと見て

「では、私はこれで失礼します」

軽く頭を下げて、足早にオフィスを出ていく。その背中を見送りながら、チーフも戦っている。と思った。

何も言わないまま、それぞれの時間へと戻っていった。

私のたまらない背徳感は、灰色のビル群を見上げると生まれてくる。

それは、自分を整える時間であり、未来のために使っている。

だからこそ、手放せない……

【終わり】

ライタープロフィール

藤原宏輝(ふじわら こうき)『READING LIFE 編集部 ライターズ俱楽部』

愛知県名古屋市在住、岐阜県出身。ブライダル・プロデュース業に25年以上携わり、2200組以上の花婿花嫁さんの人生のスタートに関わりました。思い立ったら世界中どこまでも行き、知らない事はどんどん知ってみたい。好奇心旺盛で、即行動をする。

何があっても、今を全力で生きる。切り替えが早く、とにかく前向き。

これまでのブライダル業務の経験を活かして、次の世代に、未来に何を繋げていけるのか? 

といつも模索しています。2024年より天狼院で学び、日々の出来事から書く事に真摯に向き合い、楽しみながら精進しております。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

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2026-04-30 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.354

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