聖徳寺豊穣祈願春祭会(せいとくじほうじょうきがんはるまつりえ)《 通年テーマ「祭り」》
記事:黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
銀のフレームを中指で持ち上げる。こんなメガネの直し方をする人を、私は一人しか知らない。
電車の照明が点滅した。
古い型の車両なのでそういうこともあるだろうと、菅野は気にせず本を読み続けた。すると、その明かりが確かに翳った。
「先生」
かけられた声にハッとして、手元の文庫本から視線を上げる。
「お疲れ様です。休日出勤ですか?」
声をかけてきたのは、ビジネススーツにコートを羽織った、若い女性だった。
「やあ、瀬良君ですか。ええ、部活動を見ていましてね」
菅野は目を細めて彼女を見た。照明が眩しかったが、すぐに元教え子の瀬良だと分かった。最後に会ったのは5年前だったが、その顔立ちはほとんど変わっていない。
「部活ですか……先生まだ文芸部の顧問でしたよね? OGの私が言うのも何ですが、帰宅部員の隠れ蓑たる文芸部に、休日返上してまで活動する内容があるとは思えないのですが……」
「ははは、身も蓋もないことを言いますね」
確かに彼女の言う通り。菅野が顧問を務める氷室高校文芸部は、部員数こそ多いものの、その大半は籍だけを置いておく、幽霊部員が占めていた。
部活動全員参加制の弊害だな、と思いながらも、まあ、それも選択肢の一つだろうと来る者は拒まず、さりとて活動しない者に何を言うでもなかった。
そしてそれがために、代々帰宅部の隠れ蓑になったり、学校外のクラブに参加している生徒などの受け皿となったりしていた。
「私の時だって、私と一つ上の天田先輩だけだったでしょ? そのあと文芸部っぽいことをする人はとうとう入ってこなかったような……」
「ええ、でも今年入ってきた子が優秀でしてね。若いのになかなか大人びた文章を書く。彼女、総合文化祭に作品を出したいと言うんですよ。それで図書室を開けてほしいと言うものでね」
卒業した古巣の現状説明に、瀬良は、そうですかと淡白な調子で答えただけだった。
「女の子、なんですね」
「ええ、君や天田さんと同じで熱心ですよ」
ふーん、と、また抑揚なく彼女は呟く。
だが、すぐに現役時代の無邪気な笑顔に戻り、
「先生、それより今日はお祭りですよ、お祭り。聖徳寺の」
と嬉しそうに手をひらひらとさせた。
「ああ、今日でしたか。ふむ、時が経つのは早いものだ」
「うわ、テンプレなオジサン的セリフだ」
「実際おじさんですからね。もう50を過ぎました」
「はぁ、そりゃ確かに時が経つのは早いですねぇ」
そう言って、キシシ、と歯を見せながら笑う。その仕草も高校生の時のままだ。
「ね、せっかくだから寄っていきましょうよ。いつだったか連れてってくれたじゃないですか」
「ああ、そんなこともありましたねぇ……あの時はたかられたなぁ……」
菅野はそう呟いて遠い記憶を引き出す。
誰が言い出したかは忘れたが(と言っても大体察しがつくが)、部活動の一環として、休日に文学館見学に行こうということになった。もちろん、幽霊部員で参加する生徒はおらず、集合場所に集まったのは瀬良と当時部長だった天田だけだった。
その帰り、駅に向かう途中で、瀬良が目ざとく祭り提灯を見つけた。よく商店街などにかかっている、あのピンクと白のカラフルなやつだ。
「聖徳寺豊穣祈願春祭り」
よく見るとそう書いてあった。
せっかくだから、と赴いた祭りは、小さな境内に似合わず盛況なものであった。
その時は昼過ぎだったが、休日ということもあり、中高生と思しき若者から孫連れの老夫婦まで、大勢の参拝客でごった返していた。
入り口の鳥居をくぐるや否や、現役女子高生2人は、早速手前の屋台に向かった。
「先生、焼きそば食べましょう。おごってください」
そして遠慮のかけらもなくねだってきたのだった。
「あれには参りましたねぇ。高校生女子の胃袋を侮ってはいけないという良い教訓になりました」
その後も食べ物の屋台を見るたびにねだられ、勢いに押し切られて全ておごる羽目になったのだった。
「いい思い出になりましたよね」
「君はそうでしょうね」
そんな話をしていると、電車が駅に止まった。駅名板と簡易な待合小屋がある無人駅だ。
「さ、さ、先生、降りましょう。お祭りに行きましょう」
「一応言いますとね、私は終点まで乗らなくては帰れないのですよ」
「なるほど。一応聞きました。さ、行きましょう」
瀬良は意に介さず、菅野の腕を引っ張ってきた。
(やはりこうなるか……)
菅野は苦笑しながら、電車を降りた。
電車から降りると、ふわりと漂う風が、季節はすっかり春だということを感じさせた。
駅から伸びる坂道を登っていくと、例の祭り提灯が道の空にかかっていた。左端は電柱に結ばれ、右端は桜並木の一本の枝に結ばれていた。ここの桜は遅めなのか、4月を随分過ぎたが今が満開となっている。その並木をたどっていった先が聖徳寺である。足元には数枚の薄紅色の花びらが舞っていた。
「水を渡って、また水を渡って」
不意に、前を行く瀬良が口にした。
「花を眺め、また花を眺める」
振り向かずに、ゆっくり歩を進めながら、歌うように口ずさむ。
「春風吹いて川の道」
そこでくるっと、落下傘のように振り向いた。
「いつの間にか、あなたのおうちに着きました」
少しの間、菅野はその姿を、何かの演劇を見るように眺めていた。
「『胡隠君を尋ぬ』、高啓の詩ですね。よく知っていますねぇ。さすがは元文芸部部長だ」
菅野の言葉に、瀬良は少し顔を赤くした。
「えへへ、先生が読んでたじゃないですか。『春の漢詩百選』って本。おもしろそうだったから、私も読んでみたんですよ。そうしたらこの詩があって……私、好きだな、これ」
確かに、部活動の時間、菅野はよく本を読んでいた。大体が古文系統の本だったが、思い出してみれば、タイトルだとか内容だとかを、よく彼女から質問されていた。
「よく見ていたもんです」
「うん、見てたよ」
瀬良はまた前を向いて歩き出す。
「『唐詩選』『平妖伝』『山海経』……まあ、ほとんど内容は分からなかったけど、先生が読んでいるのを見てたら、おもしろそうって思ったから」
「それは殊勝なことです。で、実際おもしろかったですか?」
「だからぁ、内容は分からなかったんですってばぁ」
振り向きもせず、彼女は足を早めた。
境内はいつか見た風景とよく似ていた。狭いスペースの中に、所狭しと露店が軒を連ねている。
以前と大きく違うのは時刻である。時刻は午後7時を数分過ぎていた。
黄昏時を過ぎてはいるが、宵闇が到来するにはまだ時間がある、藍色の空。その空の下、橙色の灯りをそこかしこに掲げ、祭りは賑わいを見せていた。
「おお! これですよこれ、この匂い! 祭りはこうでなくっちゃ。さあ、先生、とりあえず焼きそばを食べましょう! おごってください!」
「はて、既視感ですね。反射的に財布の紐が閉まります」
「ちょっと何言ってるか分かんない。あ、唐揚げからでもいいですね。そのあとたこ焼きを経て本命の焼きそばという手も……」
「とりあえず焼きそばだけにしておきなさい」
屋台の焼きそばを食べたのは何年ぶりだろうか。塩辛いだけだと思っていたが、なかなかどうして美味である。
「最近の屋台の焼きそばは美味しいですねぇ。意外と具も入っているし、やはり昔とは違いますねぇ」
「最近はいわゆる『テキ屋のあんちゃん』が入れないようにしていますからね。この店だって、有名店の出張屋台ですよ」
「ほお、時代ですねぇ……」
本殿に近い石段で焼きそばをすすり、菅野は遠き幼い日に想いを馳せるが、うまく思い出せない。
「それらしい食べ物を食べたのは久しぶりです」
「それらしいって……先生、ちゃんと自炊してます? しっかりご飯食べてますか?」
瀬良は横目で睨むように菅野を見る。
「いえ、そういう意味で言ったわけではないですよ。それに一人暮らしも長くなりましたからね。そこらへんは大丈夫です」
菅野は10年ほど前に伴侶を病で亡くしている。それまでは家事に疎い身であったが、必要にかられてこなしているうちに、何とか形になってきた。
「本当ですかぁ? 男の人って『納豆があれば大丈夫』とか『白米があれば大丈夫』とか言って、ロクな物食べてない人が多いって聞きましたよ?」
「確かに納豆と白米があれば万全ですね」
「ほらもう! 知っていますか? イエス・キリストもこう言っていますよ。『人はパンのみにて生きるにあらず』いろいろなものをちゃんとバランスよく食べなくちゃ」
「知ってるけど意味が違います。まあ、安心なさい。君が思うほど不健全な生活はしていません」
「ホントかなぁ、もう。だったら……」
早く再婚すればいいのに、と瀬良は小声で言った。
対して菅野は、考えたこともない、と言う。
「それにもうこの歳ですからね。できるだけ人様に迷惑かけないように、静かに生きて生きますよ」
「いや、流石にそんな歳じゃないでしょ。まだまだ生徒のために尽くしてもらわないと」
「はあ、そろそろ勘弁してほしいのですがねぇ」
二人して笑いながら、こんな話ができるのも祭りのせいだな、と菅野は頭の片隅で思った。
祭りって不思議ですね、と屋台を巡りながら瀬良が言う。
「こんなに賑やかなのに、何かさみしくなっちゃう」
「ふむ、そうですねぇ、中心が賑やかなだけに、周りの静けさが強調されるのかもしれませんね。光が強く当たれば、周囲の暗闇が強調されるように」
そんなもんかな、とどこに視点を定めるともなく、瀬良は呟いた。
「盆踊りとかさ、この世の人ではないモノも現れる、って言うでしょ。だから、それだと分からないようにお面をかぶるんだって。祭りのさみしさってさ、消えてしまうモノに対するさみしさと、同じなのかもしれないね」
菅野は言葉に詰まった。そういえば、この子は時々鋭いことを言っていたな、とぼんやりと思い出しながら。
「あ! 先生、金魚すくいやりましょう」
突然、瀬良が金魚すくいの屋台を指さした。
「およしなさい。育てられませんよ」
「大丈夫だって、いざとなれば先生にお願いするから」
おいおい、と思いながら屋台に近づく。
赤い錦が、青いビニールの溜池を無数に泳いでいた。
「では先生、お願いします」
「え、私がやるんですか?」
「もちろん。私、こういうの苦手なので!」
「いばって言うことじゃないでしょう」
やれやれと思いながらも金を払っているあたり、自分は甘い人間だな、と菅野しみじみ思う。
釣果は悲惨なものであった。しかし瀬良がねだったおかげで、店主が2匹、小さめな金魚をくれた。瀬良はそれにご満悦のようだった。
「ンフフ……よかったですね。2匹もらえて」
「ええ、それなりの投資はしましたからね。本来ならもう少しもらえてもいいと思うのですが……」
菅野は意外と負けず嫌いであった。なかなか捕まえられず、大人気ないほどの回数挑戦し、終わってから恥ずかしがるタイプである。
「いいじゃないですか。やっぱり二人が一番ですよ。金魚も人も」
「はあ、なかなか蘊蓄のあることを言いますね」
ふと、周りを見ると、心なしか客足が少なくなっていた。藍色の空はとっくに宵の帳が下りている。そろそろ、祭もお開きになるのだろう。
「さ、私もう行かなきゃ」
瀬良の言葉に、菅野は立ち止まった。
「そうですか。楽しかったですか?」
「うん、とっても。ありがと、先生」
「散財はしましたが……満足してもらえたなら何よりです」
「散財はお祭りの不可抗力だよ。でもごちそうさまでした。それじゃあ……」
そう言って瀬良は駆け出した。と思うと数メートル先で立ち止まって振り向いた。
「先生、またねー」
そう叫んで手を振り、走っていった。人混みに紛れてその背中が消える頃、菅野は手に金魚の袋があることに気づく。
「やれやれ」
苦笑いしながら、瀬良のあとを追った。
「忘れ物ですよ」
そう言って金魚を掲げる。
「『またね』ですか。やれやれ、君はいつになったら成仏するつもりですか?」
墓石に向かって独り言のようにつぶやく。
いつの間にか月が出ていた。その光が石を照らし、銀色の姿に変える。
ふと、夜の風が菅野の耳元をなでるように過ぎ去った。
——先生が再婚したらかな——
瀬良の声が聞こえた気がしたが、遠くで聞こえる祭の喧騒かもしれない。
「はは、それじゃあ、当分見込みはありませんねぇ。もしかして心配してくれているんでしょうか。私としては、君の社会人姿を見ることができただけで大変満足ですよ。まあ、あまり変わっていませんでしたが」
瀬良は5年前、卒業してすぐに交通事故に遭い、亡くなった。就職も決まっていて、おそらく、その時の姿だったのだろう。
「金魚、とりあえず私が育てますよ。気が向いたら見にきてください」
そう言って再び金魚の袋を掲げる。
2匹の金魚は、何事もなく口を動かしていた。
「水を渡り、また水を渡り」
駅に続く坂道を、つぶやきながら下る。
「花を見、また花を見る」
見上げた桜の木からは、数枚の花弁が風に運ばれていった。
「春風江上の道」
ふと立ち止まって、やってきた寺の方を見る。
先ほどの賑わいは、もうここには届かない。
「覚えず君が家に至る、か」
春の宵が、また数枚の桜をさらっていく。
菅野は口元にかすかに笑みを浮かべ、下る足を早めた。
◻︎ライタープロフィール
黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校で、国語科と情報科を教えている。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。趣味は広く浅くで多岐にわたる。
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