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映画にみる『運』と『言い訳』《週刊READING LIFE Vol.78「運」は自分で掴め》


記事:山田THX将治(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「運命は(自分で)作るものだ」
“砂漠の英雄”の異名を持つ、トーマス・エドワード・ロレンスの言葉だ。一般的には、巨匠デビット・リーン監督作品『アラビアのロレンス』の主人公と言った方がお分かり頂けるだろう。
 
『運』を辞書で調べてみると、
「その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す」
とある。それを『運命』に替えると、
「人の意思や想いをこえて人に幸・不幸を与える力を意味する」
と、意味合いが変わる。“命”の一字が加わることで、自分に影響する事柄が‘巡り合わせ’から‘力’に変化している。ただ、どちらも自ら意図せぬものを指す訳だ。
そうした、自力では如何ともし難い力を論じる上で、映画フリークである私は思わず、T.E.ロレンスの言葉を思い出してしまうのだ。
 
冒頭のT.E.ロレンスの言葉は、英国軍将校の立場を顧(かえり)みず、アラブのファイサル王子に対し、対等気味に語った時のセリフだ。自分に意図せず加わる力を、自ら作り出すと宣言している訳だから、とても強引な印象が残る。ただ、再編集された完全版だと上映時間が4時間近い超長編の『アラビアのロレンス』で、彼はちゃんと理由を述べている。それは、
「人間には計算や理屈を超えた能力がある」
と、いうものだ。『運』の辞書通りの解釈を、自分は凌駕(りょうが)出来ると言わんばかりの自信を見せている場面だ。
アラブのファイサル王子に対し宣言した通り、ロレンスは、部族の教え通りの行程でアラビアの砂漠を横断し、英国式の急襲戦法で、アラブの兵士には無理と思われたトルコ帝国軍の要塞を撃破する。これは、運でも計算でもなく、執念で運面を掴んだといえる。
“砂漠の英雄”の面目躍如だ。
 
しかし、英国内での彼の軍人としての評価は、悪いという程では無いが、決して英雄視される程のことでは無かった。
一方、砂漠に於いてはアラブの各部族をまとめ上げ、ゲリラ戦法によって英国の敵国・ドイツと結んだトルコ帝国軍を押し戻している。それを可能にしたのは、ロレンスの心の持ち様だと映画では示している。
劇中で、アメリカ人新聞記者から、ロレンスはこう問われる。
「アラブの部族も恐れたり憎んだりする砂漠を、どうして英国人の君が愛しているのか」
と。ロレンスの答えは簡潔だった。それは、
「砂漠は、清潔だからです」
と、いうものだった。このことから、彼は本気で砂漠を愛していたと、映画を観ている側は信じる様になる。
また、このシークエンスは、希望に燃えた者がある事柄により挫折していく、それも、壮絶なスケールで挫折していくという、デビット・リーン監督御得意の作り方なのだ。印象に残るに決まってる。
 
この映画は史実に基づいているので、トルコ軍を打ち破った後も簡易な英雄物語にはしていない。現実のロレンスは、母国英国の植民地政策に利用されているに過ぎなかったのだ。
戦闘に勝利した後、肝心の所で本国からの支援を十分に受けられなかったのだ。その事により、アラブの部族は四分五裂し、再び部族間の抗争に走ってしまう。英国からすれば、トルコの勢力を排除したかったのだが、アラブの独立を考えていた訳では無かったのだ。ロレンスは、純粋にアラブの近代国家としての独立を助けようとしている。
これは完全に、軍人として命令に従うのか、人間として意思を通すのかの板挟みである。自分で引き寄せた“運”なのだが、相反する“運命”の出現により、目の前で、経済学用語でいうところの‘合成の誤謬’に陥ってしまった様なものである。
 
紛糾するアラブの会議から、茫然自失となったロレンスは、その場を去ろうと決意する。会議を傍観していたファイサル王子は、そんなロレンスに対し、
「このまま去って後悔は無いのか」
と、声を掛ける。対するロレンスは思わず、
「これが運命だ」
と、本音とも思える言葉を吐露する。
戦争が始まる前は、自信を示すかの様に“運命”の文言で自己の力を示していた。ところが事態が悪化すると、本来の意味で“運命”を使い出す。それも、思わず口を突く様に。
 
人間誰しも、傍(はた)から攻められることを嫌う。中には、自分の意見・意志が否定されることで、自らの人間性や存在感といったものまで、全否定されているのかと勘違いしている者まで居たりする。そうなると、勢い余って何事も言い訳するところから始まってしまったりする。これは余り頂けない。
何故なら、これは私の経験則だが、自分の意見・意志が通らないのは、往々にしてその本筋がずれているのではなく“運命”に似た、見えざるそして、抗(あらが)うことが不可能な力が働いている場合が多く見られるからだ。そして、攻められるのを嫌って言い訳すると、状況を悪化させても改善出来た例(ためし)はないのだ。
なので、言い訳などしない方が良い。しかも、言い訳をする姿は、一目瞭然な上、実に格好が悪く映るものだから。
 
映画『アラビアのロレンス』の中で、主人公のT.E.ロレンスは確かに“運”を自ら引き寄せた英雄であった。それは、観客からの視点だけでなく、登場するアラブの部族民の眼にもそう見えたはずだ。劇中で作戦を成功させたロレンスは、アラブの酋長から純白の民族衣装を贈られる。それは、印象的な形の剣と共に英雄の印だ。その上、ロレンスは、アラブの民から『LAWRENCE(ロレンス)』をアラビア語式に読んだ「エル・オレンス」と呼ばれる様になる。
アラブの兵士からすると、最上級の賞賛だ。
しかし、映画の後半、アラブの部族を制御出来なくなり“運命”を言い訳に使ってしまったロレンスに対し、それまで兵士達と同じく「エル・オレンス」と呼んでいたファイサル王子は思わず、
「よく分かった、ミスター・ロレンス」
と言い、完全に信頼を消し去った視線を、ロレンスに向けたのだった。
見えざる力を言い訳に使ったことが、国王にならんとする者には許せなかったのだろう。
 
私もこの『アラビアのロレンス』という作品で、“運”や“運命”という文言を使っても良いが、言い訳には使うまいと勉強させてもらった。
言い訳に使うと、かえって逃してしまうと思ったからだ。
 
因みに、『アラビアのロレンス』には、もう一つ運命めいた話がある。
この作品は、1962年度のアカデミー賞で作品賞を始めとする7部門で栄誉を受けた。勿論、最高の演出をみせた監督のデビット・リーンを始め、編集、撮影、作曲といった主要な賞を獲得した。
ところが、一世一代の演技で主人公のT.E.ロレンスを演じたピーター・オトゥールは、残念なことに主演男優賞を逃した。噂された理由として、実在のロレンス(1935年に46歳で死亡)を知っていた、投票権が有るアカデミー委員の数人が、
「どこか、イメージが違う」
と、発言したことが有ったという。
イメージが違うのももっともなことで、実在のロレンスは、英国人としては極端に小柄で、身長が162cmしかなかったそうだ。アラブの民と並んだ写真でも、一番小柄に映っていた。
ところが、彼を演じたピーター・オトゥールは、なんと192cmの長身俳優だった。このことにより、実際に似せたスティール写真に納まると、何処か違和感が有ったのだろう。
 
判っていたこととはいえ、身長差でアカデミー賞を逃すとは、ピーター・オトゥールは、『“運”を掴めなかった』だけでは納得いかなかったことだろう。
その後彼は、アカデミー主演男優賞に8度(史上最多)ノミネートされたが、遂に男優賞の受賞は叶わなかった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
山田THX将治(READING LIFE編集部公認ライター)

天狼院ライターズ倶楽部所属 READING LIFE公認ライター
1959年、東京生まれ東京育ち 食品会社代表取締役
幼少の頃からの映画狂 現在までの映画観賞本数15,000余
映画解説者・淀川長治師が創設した「東京映画友の会」の事務局を40年にわたり務め続けている 自称、淀川最後の直弟子 『映画感想芸人』を名乗る
これまで、雑誌やTVに映画紹介記事を寄稿
ミドルネーム「THX」は、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ』)監督の処女作『THX-1138』からきている
本格的ライティングは、天狼院に通いだしてから学ぶ いわば、「50の手習い」
映画の他に、海外スポーツ・車・ファッションに一家言あり
現在、Web READING LIFEで、前回の東京オリンピックを伝えて好評を頂いている『2020に伝えたい1964』を連載中
加えて同Webに、本業である麺と小麦に関する薀蓄(うんちく)を落語仕立てにした『こな落語』を連載する

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2020-05-04 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.78

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