アナログ人間の必殺技《週刊READING LIFE vol,96 仕事に使える特選ツール》
記事:今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「あの、実は好きになってしまったんです」
いきなり男性に告白された。
昼下がりの図書館横の休憩スペースで。
しかも、仕事中に。
私は思いっきり固まった。
何と返すのが正解なのだろう。
男性の目は真剣そのものだ。
冗談を言っているわけではないことは、分かった。
前からの付き合いで、人となりも知っていた。
「もちろん、精神的なつながりでいいんです」
あっけにとられている私に、男性はさらに追い打ちをかけてきた。
それはそうだろう。
私は人妻で子持ちである。
精神的でなかったら、大ごとだ。
いや、精神的って、それすらどうなのか?
一度、深呼吸してみた。
このまま黙ったままでは、収まりがつかない。
とにかく超特急で整理してみよう。
私の何が、どこが、この人にそんな気持ちを与えることになってしまったんだろう。
フル回転で今までのことを思い出す。
娘ほど年の違う私に、仕事上だけでなく声をかけてくれることも多かった。
お薦めの本を紹介してくれたこともあった。
朴訥で優しい雰囲気に、いい人だなという思いはあった。
でも私は公務員だった。
公平、平等を重んじなければならない。
一人の人を特別扱いなんてできないのだ。
小さな町の役所である。
実家の近所のおばちゃんやおじちゃん、はたまた同級生など、育った町の役所に就職してしまった私は、日ごろからその温かくもしがらみの多い中で仕事をしていた。
この男性にも、たまたま私の職場に来ていれば、自然と笑顔で挨拶をして最近の近況を尋ねたりはしていた。
でもそれは、私にとって日常のことである。
役所とは、個人情報のるつぼである。
守秘義務があるから、決して個人情報を漏らすことはできない。
しかし、自然と耳に入ってくることもある。
聞かずに済んだら良かったのにと思うようなことが。
私に告白してくれた男性は、家庭環境に問題を抱えていた。
そのことを知っていた私は、実を言うとちょっと同情していた。
だから、声をかけられると、元気を出してほしくて話を聞いたりしてしまっていた。
きっと、話を聞いてくれることが彼にとっては嬉しかったのだろうと思う。
身近に話せる人がいないということは、どれだけ孤独だったのかと改めて思わされた。
一介の職員が話を聞いたくらいで、それが好意に発展してしまうくらいなのだから。
私が持っていた仕事に使える数少ない強み、ツールと言えるものは、傾聴することや共感することだったかもしれない。
仕事のツールと言えば、普通はパソコンや電子機器、文房具などのアイテムになるのだろうが、私の場合は違った。
元々、機械に弱い。
PC用語を使いこなす後輩には尊敬の念しかない。
私がこの職場に入った20年前は、部署にわずか2台のワープロがあるだけだった。
後は、ひたすら自筆で書類作成をしていたのだ。
今では考えられないが、中指にペンだこができていた。
とにかく速く仕事を終わらせるためには、いかに速く書けるかが勝負だったのだ。
恐ろしい。
今は便利な世の中になったものだ。
現在は病気で、指先の巧緻性が皆さんとは劣る筆者は、文明の発展に感謝しかない。
パソコンがなければ、こんな記事だって書くのにどれほどの時間と痛みとの根比べが必要になるのだろうか。
数年後、職場は1人1台のパソコンが貸与されることになった。
ブラインドタッチだけは大学で習得していた私だったが、パソコンのいろいろな機能を使いこなすまでには至らず、仕事上必要なスキルは、退職するまで独学と後輩からの助けで何とか乗り切った。
そんな私だったので、唯一の戦える武器と言えば人との向き合い方だった。
私は、相談業務に就くことが多かった。
役所に相談に来るのは、解決できないような問題を抱えた人たちが多かった。
私はカウンセラーでもないし、何か専門的知識があるわけでもない。
そもそも解決できるわけがないのだが、困っている人たちの何かの助けになるような情報を伝えることや制度への申請を手助けするしかできない私は、話を聞くことに専念した。
その人たちが少しでも前向きに進めるようにと思いながら。
相談する人たちの訴え方にも、様々なバリエーションがあった。
大声で苦情を言う人。
脅して、自分のやり方を貫きたい人。
何度も何度も、名指しで長電話してきてスッキリしたい人。
ずーっと泣き続ける人。
共通することは、自分の話を聞いてもらいたい、自分の想いを分かってもらいたいということだ。
誰だって、自分を認めてもらいたい。自分の主義主張が正解だと言ってもらいたい。
でも世の中的には、それが通らないことが多々ある。
もちろん、住民の方々のための役所だ。
精一杯、住民サービスのために職員は努めなければならない。
個人的には、どうにかしてやりたいと思う相談も数多くあった。
言えばどうにかしてくれると思って来られる方も非常に多い。
だが、役所は万能ではない。
どうにかするためには、数々の法律や条例に適っているかという関門があるのだ。
困っていれば、相談してもらいたいし力になりたいと思う。
その一方で、公平・平等が前提としてあるために、様々な立場の人に配慮が必要で、特定の人にだけ肩入れするわけにもいかないところが難しいところだ。
時代劇の水戸黄門のように、葵の御紋の入った印籠で片がつくような、スッキリとした終わり方ができればどんなにいいだろうと思ったことも一度や二度ではない。
様々な相談業務をしていく中で、上手くいくこともあればそうでないときもあった。
そうでないときは、1日中気持ちが沈んだ。
相談してくる人たちは、真剣に向き合ってもらいたいのだ。
こちらが真剣かどうか、すぐに見透かされる。
ある日のこと、よく電話してくる方が、
「あんた、今俺の話を適当に聞いているだろ?」
そう言われたときはヒヤッとした。
どうにもならないことの堂々巡り。相槌を打つしかできなかった私は、この場をどう収めようかという方ばかりに意識が向いていたのだ。
どこか、見栄えのいい着地点だけを探していた自分を言い当てられた気がして冷や汗が出た。
真剣に向き合うことの意味を、実感した出来事があった。
私は以前、不妊治療をしていた。
7、8年にも及ぶ治療の結果、やっとのことで赤ちゃんを授かった。
授かるためにあらゆる努力をしていた私にとって、ようやく神様が微笑んでくれたと喜んだのも束の間、お腹の中で赤ちゃんは命を失った。
お腹の中から赤ちゃんを出す手術が行われた日。
私はあの日のことを忘れることができない。
心拍も聞こえず、亡くなっているのは事実かも知れないが、私は諦めきれずにいた。
ひょっとしたら、まだかすかに命が残っているかもしれない。
頭では分かっているのに、心が追いついていなかった。
その時の担当看護師さんに、私はとても感謝している。
手術前に麻酔をかけられて眠るまでの間、私は涙が止まらなかった。
その看護師さんは、私が眠りにつくまで、ずっと手を握ってくれていた。
そして一緒に泣いてくれた。
あの時の看護師さんの眼差しと温かさ。
辛い経験だったが、あの看護師さんが一緒にいてくれなかったら、もっと哀しみで雁字搦めになっていたと思うのだ。
あの看護師さんに出会って、私は真剣に相手に向き合うことの大切さを改めて噛みしめた。
役所には、様々なお客様がやってくる。
例えば、洋服のセレクトショップであったならば、お客様はそのお店のコンセプトや洋服のデザイン、好みのショップスタッフなどを選んで足を運ぶだろう。
病院だったとしても、その病院の先生の腕や人柄、看護師さんたちの親しみやすさで、どこの病院にしようかという選択肢があるだろう。
その結果、そのセレクトショップ、病院に合ったお客様や患者さんが集まることになるのではないかと思う。
役所はそうはいかない。
出生届から始まり死亡届に至るまで、そこに居住している人達のあらゆる公的サービスを担うのが役所である。
様々なバックグラウンド、様々な考え方、年齢だって0歳から100歳以上まで。
その分、ありとあらゆる人生ドラマを見ることになる。
役所に来るお客様から、世の中の縮図を見せてもらっている感覚だ。
自分には理解しがたい、経験したことのないような体験を持つ人たちもたくさんいる。
だからこそ、お客様がどうしたいのか、どう納得できるのかを探ることが肝になってくる。
とにかく話を聞かせてもらおう。どうしてそう思うのか本音を注意深く窺う。
肝心なところにたどり着くために、私には思いもつかないその人の境遇や想いにできるだけ寄り添おうと努めた。
ひたすら真剣に話を聞いた。
安心して話してもらえるように。
想いを率直に吐き出してもらえたら、もっと違う方向へ向かうことができるから。
後押しをする手伝いができるから。
その後どう進んでいくかは、お客様の決断次第。
「ありがとう」
納得できる着地点が見つかったお客様に、その言葉を頂けたときには、涙が出そうになったこともある。
そんなお客様とは良い信頼関係を築くことができ、来たついでと言って、その後私のところに立ち寄ってくれることも嬉しかった。
アナログ人間の私は、様々な機器を操るハイスペックな後輩たちには適わない。
適わずともできないからと諦めるのは嫌なので、その時は何とか業務に困らない程度に付いていこうと必死で取り組んだ。
次々とアップデートされる仕様や新しい作業に、先の見えないトンネルにいるように感じたこともある。
テクノロジーの発展は目を見張るようだけれど、それを使いこなすのではなくそれに振り回されるようになっては元も子もない。
やはり人間主体であってほしいと思う。
いつかAIが人間を凌駕するようなことがあるとしても、やはり人間にしかできないことがあるはずだと信じたい。
そのうち、感情も伴ったAIとか開発されたら、SFのような世界に行きつくのかと恐ろしくもあるけれど。
生身の人間ならではの、シンパシーや安心感。
どんなに時代が移り変わっても、AIに仕事を取って代わられるような戦々恐々とした世の中になっても、人間同士の血の通った温もりは、流れに逆行するかのように益々求められていくだろう。
だからこそ、仕事や生活をしていく上で受容と共感、それに想像力は武器になると思っている。
ただ、それが効きすぎると、諸刃の剣で冒頭の男性のような人を産むことにもなりかねないので要注意。
あの男性との後日談は、ご想像にお任せするとして。
□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
福岡県出身。
2019年に20年以上の公務員生活に幕を下ろし、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。
ライティング力向上を目指すため、同年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
自分に言い聞かせている言葉は、「平常心」「年齢は記号」。
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