週刊READING LIFE vol,99

想定外、上等。《週刊READING LIFE vol,99「マイ哲学」》


記事:今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
「何でできないの?」
私は、娘を問い詰めた。
「どうして分からないの?」
次第に、語気が荒くなっていく。
自分の感情が抑えきれなくなっていくのが分かった。
膨れ上がったマグマは、爆発寸前だ。
 
娘は下を向いて黙ったままだ。
さっきから、私と目を合わせようともしない。
その内、俯いた娘からポタポタと光るものが落ちた。
また同じパターンだ。
もう、その手には辟易している。
何でいつもこうなるのだろう。
私の中のマグマが、轟々と音を立て始めた。
「泣いたってどうにもならないよ!」
鬼の形相で、私が追い打ちをかける。
そうこうしている内に、娘が蛇口をひねったように大音量で泣き始めた。
ああ、またこうなってしまった。
 
これは、娘が小学校低学年の頃、よくある我が家の風景だった。
泣きたいのは、私のほうだった。
仕事と家庭の両立で、いつも疲れ果てていた。
仕事が忙しくなり、目の回るような思いをしながら、娘の学童保育所の閉所時間すれすれに走り込む毎日。
真っ暗な外に干されたままの冷たい洗濯物を取り込んで、急いで食事の準備をする。
お風呂が沸く時間までの間、娘の宿題を見る。
晩御飯を済ませると、夫と娘がお風呂に入っている間に洗濯物を畳み、次の日の時間割をチェックし、娘を寝かせる準備をする。
娘は添い寝をしないと、なかなか寝付けないため、いつも一緒に横になるのだが、疲れている私は寝入ってしまい、夜中に目が覚めてショックを受けるのだ。
台所には、まだ洗っていない食器が重なったままだ。
はぁ…。ため息が出る。
いつまで、こんな生活が続くのだろう。
何のために働いているんだろう。
いつも、いつも心の中にある不満。
ゆっくり考える間も無く、ゆっくり娘と話す暇も持てず。
 
考えてみれば、娘は私の被害者だった。
自分の忙しさを盾に、常に娘に、
「急いで、早く!」
と言い続けていた。
まるで何かのスローガンのように。
何かに洗脳されているかのように。
 
自分の思うように物事が進まないと、苛立ちを覚えた。
私には時間がないのに、どうしてあなたは分かってくれないの?
自分の都合を娘にぶつけていたのだ。
大人の勝手な事情など、子どもに分かる訳がないのに。
 
いつも急き立てられ、追い込まれ、娘は辛かったに違いない。
まだ幼かった娘は、我慢できなくなると泣いていたのだ。
どう言えば、私に伝えられるのか分からないから泣いていたのだ。
私に対抗する術を持たない娘は、泣くしかなかったのだ。
一度泣き出すと、娘はなかなか泣き止まなかった。
 
娘の気持ちなど分からなかった私は、泣かれると余計に苛立った。
泣かれると今度は、
「どうして泣くの? ちゃんと泣かずに言いなさい!」
 
もう修羅場である。
どうしていいか分からない娘と、気持ちを汲み取ろうともせずイライラをぶつけてくる母親。
あの時を思い返すと、胸の奥がツンと痛む。
娘には、本当に申し訳ないことをしたと思う。
 
娘が赤ちゃんの時は違った。
泣いていたら、ミルクが欲しいのか、おむつが濡れているのか、泣いている理由を探したものだ。
泣き止ませるために、あの手この手を試してみた。
泣き止んで笑顔になると、こちらまで思わず微笑んだ。
何をしても受け止められる余裕があった。
ちゃんと私の関心は、娘そのものに向かっていた。
 
保育園の頃はまだ良かった。
私の仕事開始に間に合うように保育園に連れていき、仕事終わりに迎えに行く。
私の都合がまだ優先される隙間があった。
 
だが小学校に上がってからは、そうはいかなくなった。
集団登校のため、決まった時間に送り出し、学童保育所には決められた時間までに迎えに行かなければならない。
勿論、保育園の時も、最低何時までにお迎えに来てくださいという約束事はあった。
学童保育所は、時間に厳格だった。
時間を過ぎると、学童保育所の外に子どもを出すと言われた。
なかなか時間を守らない保護者に対する対抗策だったのだろう。
時間ギリギリまで仕事をしていて遅くなる保護者もいるが、早く家に帰ってきているのに、時間ギリギリまで迎えに来ない保護者もいるようだった。
 
毎日が時間との闘いになった。
いかに効率よく日々を送るかが、私のテーマであり、関心事になった。
大人だったら、時間を逆算して自分のやるべきことを遂行していく。
To Doリストを消していくように、次はこれ、今度はこれと時間までにこなすことも可能だろう。
 
子どもは、思うようにいかない。
朝は忙しいのに、何度も何度も起こさないといけない。
着替えもゆっくりマイペース。
小学生になって宿題があるのに、終わらないうちに好きなテレビを見始める。
ご飯を食べてほしいのに、何かに熱中すると、いらないと言い始める。
 
分かってる?
時間、ないんだよ。
思うようにならない私は、それがさも正義であるかのように娘にぶつけ続けた。
そして、冒頭のようなやりとりが始まるのだ。
 
しばらくして、夫に指摘された。
子どもに対して、当たりが強すぎると。
大変なのは分かるが、もう少し言い方を考えて伝えるべきだと。
威圧して言うことを聞かせるのは間違っていると。
 
耳が痛かった。
そんなこと、分かっている。
私だって好き好んで怒っているわけではない。
頭では分かっているが、気持ちがすぐに沸騰するのだ。
娘だって、もう少し大きくなれば、こうした方がいいと分かってくれるはず。
でも、それまでの期間、私は持ちこたえられるのだろうか?
このイライラを一体、どうすればなだめることができるのだろう?
 
知らず知らずのうちに、私は夫の前で泣いていた。
どうしていいか分からないと、子どものように泣いた。
一生懸命になればなるほど、空回りしている自分が情けなかった。
理想の母親像とかけ離れていくのが辛かった。
もっとこうしなければ。
もっときちんとできなければ。
仕事でも家庭でも、私はこうありたいと願っているのに。
飛び越えられない高さに自分で上げたハードルに、越えられないと歯噛みしていたのだ。
 
「普通に、ちゃんとって何?」
そう夫は私に尋ねた。
「きちんとしないといけないと思うこと自体は悪くないと思うよ。でも、子どもにも子どもの想いがあるんだから、そこを理解した上で言わないと響かないんじゃない? それにあんな言い方じゃ怖いよ」
 
正論だった。
私は、自分の中の正義を振りかざし、親という立場を利用して、娘を意のままにしようとしていただけだった。
バツの悪い思いがした。
口の中が苦くなった。
 
「でも、どういう風に言えばいい? 言っているうちに腹が立ってくるし……」
すっかり気落ちして自信を失くした私。
「勢いのまま怒るんじゃなくて、言う前にちょっと堪えてみたら?」
「気持ちを抑えて、普通に尋ねてみたら?」
「ウチの子は、ママのことが大好きだから、怒られるとどうしていいか分からなくてショックで泣くんだよ」
 
夫の励ましのようなアドバイス。
そうか。私は大人のくせに、感情のコントロールが効かなくなっていたんだな。
これが仕事であったなら、そんなに感情をむき出しにすることもないのに、家族だからと甘えていたのは私のほうかも知れない。
 
「ママが大変なら、寝かしつけの時自分がお茶碗洗うようにするから」
娘は眠るとき、私を指名することが多い。
それが分かっている夫は、ちょっと寂しそうに言った。
 
夫は九州男児で長男だ。
私と結婚するまで、家事などやったことがなかった。
共働きで同じ頃に帰宅しても、私がバタバタしている横でテレビを見ているような人だった。
悪気はないのだ。
ただやったことがないから、どうしていいか分からなかったらしい。
ご飯を炊飯器で炊くことも、どうすればいいのか分からないと言ったときには唖然とした。
これは、なかなかだな。
基本、家事は私が頑張らねばならないと思っていた。
妊娠をきっかけに、そんな夫も少しずつ変わっていき、今では料理以外だったら家事を任せられるまでになってくれた。
アイロンがけは、今では私より上手い。
 
何でも、自分でどうにかしようと思っていた。
抱えきれる荷物には限りがあるのに、やせ我慢をしてまだまだ担ぐよと嘘ぶいていた。
自分で自分の首を絞めた挙句、思うようにならないと家族に八つ当たりするという、悪循環だった。
もう少し、肩の力を抜いて。
自分を雁字搦めにすることを止めて。
人にも、自分にも優しく。
 
夫に気持ちを打ち明けた後、少しずつ娘への接し方を変えていった。
頭に来た時には、深呼吸。
できるだけ優しい声音で話す。
晩御飯を作る時間や気力がないときは、お惣菜を買ってきた。
何種類か買って、娘に今日はバイキングだよ、なんて言いながら。
ベッドに娘と一緒に横になる時間が楽しみになった。
娘が話したいことを、少々寝る時間が遅くなっても聞こうじゃないか。
今日は、どんなことがあった?
私が知らない娘の学校での時間を共有するのが、日課になった。
 
「昨夜も、遅くまで笑い声がしていたね」
母娘のルーティンに加われない夫が、ちょっと拗ねたように言った。
だから、今度は夫とその内容を共有する。
皿洗いや洗濯物を畳むことを自発的に行ってくれる夫に。
高学年になると、夫が聞けば心穏やかではないことも出てくるため、少し端折って伝えることもあったが。
 
次第に、娘が大泣きすることがなくなった。
急いで晩御飯を作っている時でも、娘が話したいと言えば中断して聞くようになった。
娘との話に熱中しすぎて、夫が帰ってきても晩御飯ができていないこともあった。
そんな母娘を、夫は笑顔で見ていた。
 
所詮、何でも思い通りにはならないものだ。
自分が描いている理想に近づくために、人は努力する。
しかし、努力の方向を誤ってしまうことがある。
がむしゃらに、何が何でもこの方法でと思い込むと、途端に努力は辛いものになる。
子育ても、子どもを自分の一部と思い込み、意のままにしようとの驕りから苦しいものとなってしまう。
元々思い通りになどできない、自分とは別の存在である個人をどうにかしようとすることは、滑稽なことかもしれない。
 
自分の想定の範囲を超えるもの。
そう言う意味で、子育ては病とも似ている。
どちらも思い通りになどなりはしない。
 
私は、2年前に思いもしない病に見舞われた。
医者が告げた治ることのないその病は、私を不安に陥れた。
このまま、体の自由が利かなくなっていくのだろうか?
いつまで、人並みに指が動くのだろうか?
酷い人は、寝たきりになるのだそうだ。
難病と聞けば、いつかは自分の体を動かすことができなくなるイメージだった。
少しでも状態をキープするための手術を受けた。
数年後、動かなくなってから手術しても機能が戻らないと聞いたからだ。
真剣にリハビリをして、何とか普通に暮らせるほどの握力を取り戻した。
人よりは劣るけれど。
今までの働き方では、体が持ちそうになかったから退職の道を選んだ。
まだまだこの仕事を続けるつもりだった私には、予定外のことだった。
 
自分が思っていなかったことが降りかかってくる現実。
将来への不安。
これからの自分に自信がない。
目の前に描かれていた道がスッと消えて、どちらに歩いていいか分からない状態だった。
 
でも私には、心のどこかでこれでもいいんじゃない?という思いが芽生えていた。
強がりと言われれば、そうかもしれない。
もしかしたら動けなくなるという、最悪の未来から目を背けたいだけなのかもしれない。
 
まだ、動けるじゃないか。
まだ、普通に生活できるじゃないか。
まだ、できることがたくさんあるじゃないか。
 
できないから諦める、ではなく、できることを考えてみたら。
選択肢が少なくなったとしても、何もかも全くできないわけじゃない。
限りがあるからこそ、逆に私にとって意義あるものにできるのではないか。
川砂の中から、キラッと光る砂金を見つけるように。
 
何事も思い通りにならないことは、子育てで経験済みだ。
思うようにならないことを嘆くだけの日々には、さよならしたはずだ。
想定外、上等。
今度は自分らしく生きるために、砂金をすくい出すことを楽しむのだ。
病を治すことはできないかもしれないが、自分の体調と向き合うことならできる。
諦めず、しぶとく、楽観的に。
それが、私の今の人生におけるスタンスとなっている。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
今村真緒(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

福岡県出身。
2019年に20年以上の公務員生活に幕を下ろし、2020年5月から天狼院書店のライティング・ゼミ受講。
ライティング力向上を目指すため、同年9月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部参加。
自分に言い聞かせている言葉は、「平常心」「年齢は記号」。

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2020-10-12 | Posted in 週刊READING LIFE vol,99

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