祖母に向き合えなかった私《週刊READING LIFE vol.120「後悔と反省」》
2021/03/22/公開
記事:田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
ありがたいことに長生きする家系に生まれている。
最低年齢でも85歳、最高年齢で97歳という典型的なご長寿揃いである。
ほんの10年前までは、祖父母が4人とも生きているということは、私の中ではごくごく当たり前のことだった。
私が初孫だったせいか、かわいがってもらえたのを覚えていて、特に母方の祖母が
「チカコや、チカコや」とかわいがってくれた。
母親の実家は広島県の山奥にある。
博多駅から新幹線で1時間、広島市内から高速バスで2時間半、最寄りのバス停からも車でさらに20分かかる。移動と待ち時間だけでも4時間近く要するので、帰省だけでもけっこう疲れる距離なのだ。
見渡す限りの自然と野生動物(イノシシ)と共存している地域で、さながら「日本昔ばなし」の実写版といったところであろうか。
肉牛として出荷する牛を飼い、米を作る。
祖父は大きなカゴを背負って山へ草刈りに、祖母は川の水ならぬ、かろうじて引いてある水道で洗濯をするという生活を送っていた。
隣の家はなく、徒歩10分くらいでようやく見えてくるという、日本の原風景であるこの田舎が私は大好きだった。
幼い頃から毎年、夏休みになると半日がかりで帰省し(当時は長崎県に住んでいたので、さらに2時間かかっていた)、親戚一同が集まって食卓を囲む。
一人っ子の私にとって、年齢の近い従兄妹たちに会うのはそれは楽しい時間だった。
朝から川に入ってゲンゴロウやミズカマキリを捕って遊んだり、仔牛の世話を交代でして撫でてみたりする。
昼は畑の野菜を収穫して、五右衛門風呂を焚く釜で採れたてのトウモロコシを焼いては縁側でほおばり、「学校はどげんね? 楽しかね?」とお互いにいろんな話で盛り上がる。
夜は満天の星空の下で花火をしたり、飛び交うホタルを両手でそっと捕まえて、
「うわぁ、ホタルってなんか臭い!」ということもあった。
ここで過ごす日々は、テレビゲームで遊ぶことよりもずっと楽しいものだった。
しかし、高校生を過ぎると試験勉強や補習で夏休みの間もずっと通学し、大学生になってからは単位のための勉強とアルバイト、サークル活動にも没頭して日々が過ぎていく。徐々に広島に帰省する頻度が減っていった。
社会人になってからは、平日は仕事で深夜まで残業し、休日は彼氏と過ごす時間を楽しいと思うようになり、さらに帰省する頻度が減っていった。
母親から「今年はどうする? 広島に行く?」と聞かれても、
「忙しいから、私は行かない」と母だけが帰省することもあった。
行くのは時間もお金もかかるので、せめて電話くらいはしようかなと思ってかけると、
「おお! チカコか! 元気にしよるんか? 彼氏はできたか、結婚決まったら連絡せえよ」とうれしそうに目尻を下げて話す祖母の顔が容易に想像できた。
少し疎遠になった期間があっても、たまに帰省するといつも温かく迎えてシワシワの手でぎゅっと握手をしてくれた。
社会人になる時に、よく祖母に言われたことが2つある。
1.「人に尽くした分だけ、自分に返ってくるんじゃけぇ。人にやさしゅうせな、いけんよ」
(自分に返ってくるんだからね。優しくしなければいけないよ)
2.「チカコや、もし結婚してもお母ちゃんの近くにおってあげんさいよ。遠くには行かんようにしんさいや」
(近くにいてあげなさい。遠くには行かないようにしなさい)
当時、世間で言われるような結婚適齢期に言われたときには、正直、そんなこと祖母には関係ないじゃないかと思っていた。
別に近くに住まなくてもいいんじゃないの? 離れていたほうが、いろいろと邪魔されないからお互いに都合がいいじゃないと思いながら、やや反抗的になっていた。
やがて、私は実家を出て一人暮らしを始めた。
結婚を考えていた人とうまくいかず、それまで貯めていたお金を使いたくなったからである。
とは言っても実家の隣の市だったので、帰ろうと思えばいつでも帰れるくらいだった。
今思えば、私の心のどこかに、祖母に言われた
「近くにおってあげんさいよ」の言葉が引っかかっていたのかもしれない。
一人暮らしは思っていた以上に楽しかった。何時に帰宅しても誰も怒る人はいないし、終電が日をまたいでも駅から徒歩5分という好立地だったので、いろいろなものから解放された喜びでいっぱいだった。
広島の祖母に電話をするという機会も少なくなって、「便りの無いのは良い便り」と勝手に思い込んで、特に何も行動を起こすことはしていなかった。
その数年後、広島の祖父がガンで入院した。
朝ごはんを食べると、いつの間にか山へ草刈りに行き、飄々として「おーい、帰ったぞ」と戻ってきていた元気いっぱいの祖父がガンになるなんて……。
ショックだった。
長女である母は、その頃から見舞いや様子見で頻繁に広島に帰るようになり、母が不在の間は私が実家に戻って、家事をしていた。
しばらく入院していたが、高齢で手術に耐えうる体ではなかった祖父は、その冬にこの世を去った。入院中の見舞いも行けずに、祖父の死に目にも立ち会えなかった。
母から、驚くほどの大量の吐血をしていたこと、日に日に弱っていくという祖父の様子を聞いていたせいか、あの百姓の鑑のような祖父のイメージがガラガラと音を立てて崩れていくのが怖かったのだ。私自身が事実を受け止めることを拒否していた。
祖父の葬儀の日は、その年の初雪が降った。
久しぶりの広島。以前、牛小屋があった場所は、五右衛門風呂用を焚くための薪置き場になっていた。
几帳面に割られた薪が隙間なくびっしりと積まれていた。
入院する前に祖父が、
「わしが先にあの世に逝ってしまっても、ばあさんが生活するのに困らんように」と、毎日せっせと薪割りをしていたという。いったい何年分あっただろう。
その積み上げられた薪を見た瞬間に、私は鼻の奥がつんとした。
自分がガンに侵されながらも、これから一人になってしまう祖母のことまで考えて、体もきつかっただろうに、斧を振り下ろしていたのでいたのだろう。
ああ、これが祖父の祖母への愛のカタチなのだ、と。
四十九日も終わりしばらくの間、祖母は一人暮らしをしていたが、ある時認知症を発症した。
叔父が一緒に住んでくれることになったので、ひとまず大丈夫だろうと母も私も思っていた。
しかし、思った以上に進行は早かったようだ。
家の中にいろんなものが散らばっていたり、朝早くに家を出たまま歩いてどこかに行ってしまったりして、自宅での介護が相当大変で負担であることを聞いた。
人は大切な人がいなくなって、話す相手が減ってしまうと、ぽっかり穴が開いてしまうのかもしれない。
でも、そんなことを忘れる出来事もあった。
ある正月休みの日、介護疲れの叔父と祖母を気遣った叔母夫婦が、正月をみんなで一緒に過ごすことに決めたと聞いて、私は居ても立っても居られなくて新幹線に飛び乗り、一人で広島市内に住む叔母夫婦の家を訪れた。
久しぶりに会う祖母は少しやつれてはいたが、思ったよりは元気だった。
一緒に食卓を囲んだとき、私の前には祖母が座っていた。私の隣に座って夕飯を食べていた従兄を見て、真顔で一言。
「お隣にいるのは、チカコの旦那さんかね?」
一同で爆笑した。
「やだぁ、ばあちゃん違うよー。ばあちゃんの大好きな真兄ちゃん(従兄)やん!」
「ばあちゃん、冗談で言いよるんやろー?」
「カレー作りの上手な真よ。ばあちゃんも美味しいって言ってたやない」
「チカコはまだ独身よ」
皆は口々に言った。
私はできるだけ自然に笑顔で返したものの、心の中では大きなショックだった。
幼いころから見てきた祖母が、会わないうちに随分変わってしまったような気がした。
その後、認知症がさらに進み、さすがに叔父一人だけで24時間体制で世話をするということが難しくなってしまった。
介護施設の空きを待って、祖母はようやく施設へ入所した。
祖母が入所した同時期、私は仕事の都合で一人暮らしを始めることになった。
入所してからの祖母は、本当に認知症なのかと周囲が思うほど、明るくなったようだった。
同年代の人が集まり、一緒に食事をしたり、ゲームをしたり、時には近くの幼稚園の子たちがやって来て触れ合うこともあったと聞いた。
もともと、社交的な性格であり、人から嫌われるような欠点が見つからない祖母のことだ。
施設の中でも、おそらくすんなりと馴染んでいたことだろう。
たとえ、認知症が進行していたとしても、本人は気づかないまま、一日一日を大切に楽しみながら生きていたのだと思う。
2012年に入所してから2年もの間、恥ずかしながら私が介護施設に祖母に会いに行くことは一度もなかった。母は何度か帰省して会っていたので、私は母経由でどんな様子かを聞いてだけにすぎない。
新しい仕事を覚えるのに必死で休みの日はぐったりと寝ている日も多かったし、長い休みを取って広島へ行くだけの元気もなかった。
実際、一人で会いに行ったときにどう接したらいいのかわからなかったのと、祖父の時と同様、認知症が進行していく祖母を私の中で受け入れることができなかったのだ。
2014年7月。
その前月に仕事を退職して、少しだけ自分を見つめ直す時間ができた。
ふと、祖母のことが気になった。会いたくなったのだ。
「来週あたり、広島に行こうと思うんだよね」と母に電話した次の日、祖母が亡くなったと叔父から連絡があった。享年97歳。認知症と老衰による逝去だった。
私は電話を受けて、すぐに福岡から広島へ向かった。
なんでもっと早く会いに行かなかったのだろうという大きな後悔と、変わっていく祖母の姿に正面から向き合うことができなかったことへの反省がどっと溢れてきた。
新幹線の中でも、高速バスの中でも、私は人目をはばからずただただ泣くばかりだった。
どんなに後悔と反省をしても、祖母が生き返ることはないのに。
どんなに涙を流しても、過去へ遡ることはできないのに。
葬儀場に到着して、横たわる祖母は普通に寝ているように見えた。
「ばあちゃん、ごめんね。やっと会いに来ることができたよ。
遅くなって、待たせてしまってごめんね。本当はもっともっと話したかったよ」と話しかけた。でも返事はなかった。
その日は祖父が亡くなった時と違って暑い日だった。
通夜にも葬儀にも、たくさんの地域の方や遠い親戚も駆けつけてくださった。
その一人一人に挨拶をしながら、社交的だった祖母がどんなに人に尽くしてきたのかを知ることができたのである。
会って言葉を交わすことができなかったが、祖母は社会人になる時の私への言葉を身をもって教えてくれたのだと今は思う。
あれから7年が経ち、私も親の介護をする年齢になった。
結局、結婚はしないまま実家に戻って、仕事を続けながら、親が通院する際は付き添いをしたりできる環境を整えることができている。
今なら祖母に胸を張って言える。
「ばあちゃん、私、ばあちゃんとの約束守っているよ。
結婚はしなかったけどさ、両親のすぐ近くにいるよ」と。
□ライターズプロフィール
田盛稚佳子(READING LIFE編集部ライターズ俱楽部)
長崎県生まれ。福岡県在住。
西南学院大学卒。
人材サービス業を経験する中で、人の生き方に大いに興味を持つ。
自分自身に取り入れることが出来るものと、自分から発信できるものを探す日々。
仕事をしながら、ライティングとカラーセラピストの技術を学んでいるアラフォー独身。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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