記事

:崩れかけた国の屋根で、あなたは火種を守っていた ≪週刊READING LIFE Vol.334「それでも、あなたは笑ってた」≫


*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

2025/12/4公開

記事:塩田 健詞(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

「それでも、あなたは笑ってた」

日本からの電話越しに、彼のパートナーはやわらかな声でそう言った。

赤面した彼は、照れ隠しのようにこちらから目を逸らし、静かにスマートフォンから離れていった。そして寺院の方へ歩き出す。バクタプルの乾いた風が、ゆっくりと彼のシャツの裾を揺らした。その視線の先には、雲を割ってヒマラヤ山脈がのぞいていた。

ネパールのバクタプルを訪れた日のことだ。

赤いレンガの街並み、木彫りの窓、白い煙を吐き出し続ける香炉、祈りを捧げる老人。まるで古都京都のように静かで、どこか永遠さをたたえた街だった。私はそこで一人のガイドと出会った。いや、「ガイド」と呼ぶよりも、生き方そのものが“物語”のような人物だった。

彼の名はアショク。

幼いころ、学校に通っていたのはわずか数年だった。家にお金がなく、家族を養うために働かざるを得なかったという。まだ身体も細く、背丈だって家具と同じくらいだった頃から、朝市で荷物運びをし、露店で物を売り、時には観光客にお土産を押し売りするような仕事もしていた。

「食べるために選ばなかった。選ぶ余裕がなかった」

そう淡々と語る声には、苦労の影よりも、どこか光のようなものが宿っていた。

やがて彼は、運命のように “日本語ガイド” という仕事に出会う。観光客から日本語を教えてもらい、メモを取り、聞いては話し、話しては間違え、間違えて笑われながら、それでも学び続けた。そしてある日本人女性のツアーを担当したときに、後に妻となる人と出会う。

「彼はずっと笑っていたんですよ。苦しいはずの時期の話も、何でもかんでも笑って話すから、逆に切なくなるくらいで」

そう私に教えてくれたのは彼のパートナーだった。

そして電話の向こうで彼女は繰り返した。

「それでも、あなたは笑ってた」

“それでも”。

その二文字に、彼の人生のすべてが込められているように思えた。

バクタプルの街を歩きながら、アショクは時折、遠くの山を見つめる。そしてふっと視線を落とし、 足元のレンガを一歩ずつ踏みしめる。

「ネパールはね、政治が腐っているんだよ。誰も国民を見てない」

観光客を案内するいつもの表情の裏に、初めて見せた真剣な眼差しだった。

ネパールの政治腐敗は有名だ。道路は割れ、停電は日常茶飯事。国家予算はどこかへ消え、本来なら国民のために使われるべき資源は、エリート層の間で分配されるだけ。インフラ整備をしようものなら、利権に群がる連中たちが砂のように集まってくる。他国からの援助は国民に還元されていない。

「だから若者はみんな海外に行くんだ。命がけでね。政府が自分たちを守ってくれないなら自分で自分を、そして家族を守るんだよ」

アショクがそう言うとき、笑ってはいたが、笑っているというより“笑わずには語れない現実”を押し込めるような表情だった。

「飛行機代を稼ぐために借金をして、中東やマレーシアで働く。何人も…帰ってこないよ。事故や病気でね。現地の国にとって、ネパール人は安い労働力だから。トリブバン国際空港で多くの人が見送っているのを見たかい。あれはただ見送っているわけじゃないんだよ。帰ってくるときには棺桶で帰ってくることもあるんだ」

その声は乾いていた。

バクタプルの空のように晴れていたが、どこか悲しみを押し隠していた。

そんな国で今年の9月、反政府デモが起きた。立ち上がったのは Z 世代の若者たちだ。

「政治家は変わらない。でも、オレたちは変われる」

SNS を武器にし、汚職を暴き、道路を占拠し、プラカードと声を武器にして街を歩いた。警察の威嚇にも屈せず、催涙弾の煙のなかを進んでいく映像を、私は日本で見ていた。

そのとき、私の脳裏に浮かんだのはアショクの姿だった。彼の言葉、彼の笑顔、そして「それでも」の二文字。

彼ら若者の行進と、彼の人生はどこか重なって見えた。絶望的な社会で、それでも立ち上がる。希望が薄い状況で、それでも歩く。

そして彼のパートナーが言うように、

「それでも、あなたは笑ってた」

きっとネパールの若者たちもまた、あの日、胸の奥で笑っていたのかもしれない。怒りと悲しみと希望が混じった、涙のにじむような笑顔で。

アショクは、観光の途中でよく立ち止まっては、寺院の古い壁に手を添える。その指先は、祈りを捧げるように震えていた。

「オレはね、未来のために働いてるんだよ。自分のためじゃない」

「自分のためじゃない?」

そう問い返すと、アショクは空を見上げて笑った。

「未来の若者が、こんな苦労しなくていい国になってほしい」

その言葉が、妙に胸に残った。彼は政治家ではない。活動家でもない。ただの一市民であり、一人の夫であり、一人の働き手だ。

それでも彼の生き方は、何かを変えてしまうような強さを持っていた。

彼のパートナーの言葉が降りてくる。

「それでも、あなたは笑ってた」

多分それは、“折れない”という強がりではない。“諦めない”という覚悟に近い。苦しみを笑い飛ばすための笑顔ではなく、苦しみごと抱きしめるための笑顔だった。

弱さの中に潜む強さ、理不尽の中に潜む意志、社会の隙間でこぼれる光。

そのすべてを、アショクは笑顔という形で受け止め、吐き出し、生きてきた。

旅の終わり際、夕焼けが街を静かな赤に染めるころ、アショクはふいに私へこう言った。

「君たちの国の若者はどう? 立ち上がってる?」

少し返答に迷った。日本の若者の生きづらさ、閉塞感、無力感。それをどう説明すればいいのか分からなかった。

ただ一つだけ、確かに言えることがあった。

「あなたの生き方は、日本の若者にも届くと思います」

アショクは目を丸くし、そしていつもの笑顔を見せた。

「そう? オレの人生なんて、ただのサバイバルだよ」

そう言って笑うその横顔に、私は未来の景色を重ねた。どれほど理不尽な世界でも、若者は立ち上がれる。どれほど不条理でも、それでも笑える。

アショクの人生は、ネパールの若者たちのデモと同じ方向を向いていた。その視線の先には、いつもヒマラヤがあった。越えられないほど高い壁。でも、越えようとする姿は美しい。

未来はきっと、笑っている人のほうを向く。そう信じられる旅だった。

帰り際、アショクのパートナーからメッセージが届いた。

「夫のことを書いてくれてありがとう。どんな過去があっても、彼は笑っていました。

きっと、それが彼の生き方なんです。」

私はスマートフォンを握りしめながら、ゆっくり息を吸った。ネパールの赤土の匂いが、まだ手のひらに残っているようだった。

そして思う。この言葉を、遠い国で奮闘している若い誰かにも届けたい。

「それでも、あなたは笑ってた」

苦しい時こそ、その笑顔が未来を動かす。

理不尽に押しつぶされそうなあなたへ。不条理に心が折れそうなあなたへ。絶望の中でうつむいたままのあなたへ。

どうか忘れないでほしい。

あなたが笑うことは、諦めることではない。あなたが笑うことは、負けることではない。

“笑っているあなたの姿”そのものが、すでに立ち上がっている証なのだから。

❏ライタープロフィール

塩田健詞(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00


■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



2025-12-04 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.334

関連記事