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 愛と情熱の扉断熱


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:木藤奈音(ライティング・ゼミ25年11月開講コース)

 

 私は決めた。夫の家から必ず冷気を駆逐する。

 冷え切った部屋の中で、熱い使命感に燃えていた。

 でも、どうやって?

 この家は社宅で、原状回復して返さねばならない。しがない事務系サラリーマンの私には、DIYの知識も経験もない。

 それでもなんとかするのだ。この町に雪が積もる時までに。

 

「寒いのはわかるけど……社宅だからどうしようもないよ。どうせ2−3年したら関東に戻るんだから、それまで貼るカイロでしのげるし」

「エアコンも買わないの?」

「部屋の結露がすごくてさ。カビがひどいんだよ。退去のときにぐちぐち言われたくない。寝る部屋にハロゲンヒーターあるから、あれを部屋に持っていけばいいじゃない」

「えーっ。あんな小さな暖房だけじゃ、部屋が寒すぎて追いつかないよ。今はまだマシだけど、冬になると眠れないよ」

「そんなに寒いのが嫌なら、冬の間はこなくていい」

 隣で半眼の夫はムッとした声でつぶやいた。何か言ってやろうと思ったがやめた。

 布団の外はしんしんと冷たい。ベッド脇のコンクリート壁は冷たく、部屋はなかなか暖まらない。天井角には前の住人が残した結露のシミが残っていた。

 夫は先月から当地に単身赴任し、団地風建物の2階に入居した。推定築年数は50年超。玄関開けたら脱衣所とダイニングキッチンが丸見えだ。室内はコンクリート壁にペンキ塗装。外気温と室温が常にシンクロする、昭和高度成長期時代のレガシーである。

 東京に仕事を持つ私は、月一のペースで訪問することに決めた。憧れの二拠点生活と鼻息荒く現地入りしたが、この家で生活ができるのか、くじけそうな自分がいる。

 ささくれた気分が鎮まらない。毛布の隙間からも寒さが忍び入る。熟睡した夫がゴロゴロとベッド脇まで転がり、私の布団を完全にはぎ取った。舌打ちし、夫を巻き戻し、布団のすき間に体を差し込む。

「はあ、なにやっているんだか……」

 夫にあたるのは筋違いだ。リフォームもできない、追加の暖房器具も期待できないと言われてイライラしているだけだ。問題解決を生業にしているのに、日本海の苛烈な寒さを前に何もできない自分が情けない。

 彼には当地の冬から逃げる術はない。我慢強いから、この冷たい家で次の転勤まで耐えてしまうだろう。それを思うと、なんだか悲しくなってきた。

 夫は胎児のように丸まっていた。パジャマがまくれ、カイロがのぞいていた。乱れた毛布と布団をかけ直した。

「なんとかしよう」

 考えよう。今のままでは、冬を乗り切るには寒すぎる。

 私は決めた。夫の家から必ず冷気を駆逐する。

 スマホを開き、空が白むまで調べ続けた。

 

 ホームセンターの開店は早い。私は夫を送り出したあと、断熱材を買いに来た。プロ向け建材売場には、あらゆる種類の商品が整然と並んでいた。店員の人が詳しく説明してくれる。

「断熱材は厚いほど効果は高いですが、切るのが大変です。この商品は薄いのでカッターで簡単に切ることができて、扱いやすいですよ」

 そう言って、あるパネルを出してくれた。見た目は薄手の発泡スチロール。色はオレンジ色。若干頼りなく感じたが、ネットの評判を信じ、1枚持ち帰ることにした。

 玄関の扉断熱から始めることにした。玄関とダイニングや脱衣所の間には間仕切りカーテンがかかっているが、それでも方々から外気が入り込む。このスペースは生活動線の中心に位置するので、空気の大通りを塞ぐことが効率的だと考えた。

 断熱材を床置きし、図面の切断線を転記する。祈りを込めて、カッターで切っていく。店員さんの言葉に偽りはなく、刃がすうっと板に入り、きれいにまっすぐ切ることができる。この軽い切れ心地はクセになる。

 ドアノブ、蝶番や郵便受けの裁断は要注意だ。位置が1センチでも狂うと断熱材が引っかかり、ドアにはまらなくなる。直角定規を使って、正確に印をつける。カッターで四角い穴をなぞる。やり直しが許されない。全ての線を切り取った瞬間、大きく息を吐いた。腰と背中が石のように固かった。

 図面通りに切れたら、さっそくドアに仮止めする。

「わあ……」

 初めての断熱材加工、なんと一度で扉にピッタリはまったのだった。これまでの努力が報われたようで、疲れていたはずなのに、体の底から力が湧いてきた。次は、この板を扉に設置する。

 金属ドアにマスキングテープを貼りめぐらせる。立退時には断熱材含めて全て取り去る予定だ。さらに両面テープを貼って、パネルを丁寧に圧着する。作業完了である。気がつくと窓の外が薄暗くなっていた。

 扉に手を近づける。断熱材におおわれているせいで、金属のつめたさは感じない。

 しかし。

 玄関は相変わらず寒かった。切屑を片付けている間、寒くて体の震えが止まらなかった。

 しまった。見立てをまちがえたか。

 断熱パネルを仮止めしたときに、玄関の寒さ自体はあまり変わらないと感じた。この家は扉が主犯ではなかったのか。他に、優先して手を付ける箇所があったのではないか。

「これって、『なんの成果も得られませんでした』ってヤツかぁ」

 土間に立ったまま、ぼんやりと壁を見つめていた。夕食の準備しなくちゃ。それから考えよう。

 

「ドアは冷たくなくなったから、ちゃんと結果出したじゃない。ドンマイ、ドンマイ」

 夫がビールを飲み干して言った。私の憔悴した様子に驚いて、今日の顛末を聞いてくれた。

 夕食は玄関直結のダイニングでとっている。足下には守り神のハロゲンヒーター。カーテンから漏れる風と戦ってくれる。それでも、いつもはひざ掛けが手放せない。

「扉は冷たくなくなったけど、だからといって玄関が変わるわけじゃないんだよね。やっぱりしろうと施工は無理があったか」

「そんなにくさすものじゃない……ん?」

 視線が足元に移った。

「ブランケット、外れているけど気づいた? いつもはすぐに寒いとか冷えるとか言ってたじゃない」

「本当だ。いつの間に」床にひざ掛けがずり落ち、すねがあらわになっていた。いつもは、ここを冷風が直撃し、じんわり冷やす。

「ブランケットがなくても、脚を冷たく感じなかったということは、そういうことか!」

 夫はカーテンを開け、玄関に飛び出した。アウトドアボックスからアルミシートを広げ、土間にかぶせる。カーテンを閉め、再びテーブルに着く。待つこと30分。ハロゲンヒーターの光がジリジリと膝を刺す。

「これ熱いね」

「そうなんだよ。今までは、なかなか暖まらなかった。ドアと土間の冷気でリセットされていたんだよ。今は違う。ヒーターが勝っているから、熱さが続くんだ。だから、ドアと土間、両方とも処置すれば熱が逃げない」

 夫は閾値のことを言っていた。つまり、ドアと土間それぞれ冷たすぎるので、一方だけ処置しても体感は大きく変わらないが、両方処置すれば効果を感じられるということだ。今日の作業には、本当は成果があったのだ!

 お互いに顔を見合わせた。明日は土間だ。暖かな住まいを創り上げるのだ。土間の次は脱衣所、トイレ、寝室……2人でわあわあ騒ぎながら、巻尺で寸法を測りまくった。

 同じ断熱材を10枚発注した。雪が降る月までに、できる限り断熱を進めよう。なんなら上から好みの壁紙を貼って楽しもう。この家には伸び代しかない。毎月部屋に変化を作り出すのだ。我が家の断熱道はこうして始まったのである。

《終わり》

 


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