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優しい人ほど、いいことをしようとして疲れてしまう理由


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:川瀬健二(2026年1月開講・渋谷/通信・4ヶ月コース)

 

朝の満員電車。

あなたは誰かの肘に押されながら、今日のタスクを頭の中でなぞっている。未読メールは三桁に届き、朝から夕方まで会議で埋まり、空白があれば新しい予定がねじ込まれる。会社に着く前から、もう一仕事終えたような疲労感がある。

 

「エシカル消費って大事だよね」

「社会貢献、やらなきゃいけないとは思うんだけど」

 

そんな言葉を耳にするたび、心の奥で小さな声が立ち上がる。

——今は、自分のことで精一杯なんだ。

 

その感覚を、どうか否定しないでほしい。

それは怠慢でも、冷淡さでもない。

むしろ、とても誠実な現実感覚だ。

 

ある日、お寺で住職と話をしていたときのことだ。静かな時間の中で、彼はふと、こんな問いを投げかけた。「空っぽのコップから、水を注ぐことはできますか?」

 

私は言葉に詰まり、そのまま黙ってしまった。「利他というのは、自己犠牲のことではありません。仏教には『自利利他(じりりた)』という考え方があります。自分を利することと、他者を利することは、実は別々の行為ではないのです」

 

住職は続けた。「自分のコップが満たされていないのに、誰かに注ごうとするから、人は疲れてしまう。でも、コップが満ちれば、溢れた水は自然と周りを潤します」

 

優しい人ほど、この順番を逆にしてしまう。自分の状態を後回しにし、誰かの期待や空気を優先する。「まだ頑張れる」「自分は大丈夫」と言い聞かせながら、気づかないうちに、コップの底が見えるほど消耗してしまう。それは善意の欠如ではない。むしろ、善意が強すぎるから起きる現象だ。

 

私たちは、いつの間にか「利他」を誤解してきたのかもしれない。それは、特別な誰かが、自分を削って成し遂げる行為。眠る時間を削り、感情を押し殺し、社会のために尽くすことだと。

けれど、それは続かない。

そして、続かない善意は、やがて苦しさに変わる。

 

サステナビリティの最小単位は、社会でも、組織でもない。実は「自分」だ。自分自身が持続可能でなければ、どんな立派な社会貢献も、長くは続かない。疲れ切った人が、他者に優しくできるだろうか。余裕のない組織が、社会に価値を提供し続けられるだろうか。だから、「疲れている自分」をケアすることは、甘えではない。それは、利他を続けるための戦略的なメンテナンスだ。

 

経営の現場に身を置いてきて、私は何度も同じ光景を見てきた。機嫌のいいリーダーがいる組織は、驚くほどよく回る。会話が増え、判断が速くなり、失敗を恐れず挑戦できる空気が生まれる。

 

一方で、常に疲弊しているリーダーのもとでは、組織全体に緊張が伝染する。メンバーは顔色をうかがい、余計な防衛にエネルギーを使い、本来向けるべき仕事に集中できなくなる。つまり、あなたが「いい機嫌」でいることは、思っている以上に、周囲への影響力を持っている。これは「みんなが笑えば世界は変わる」という楽観論ではない。機嫌とは、放っておいて生まれるものではなく、自分を律し、整えた結果として立ち上がる状態だ。

 

きちんと眠る。

身体を動かす。

感情を観察し、言葉にする。

 

そうした地味な「自利」の積み重ねが、やがて周囲への信頼となって現れていく。利他的な行動、いわゆる「恩送り」は、短期的に見れば、確かにコストに見える。見返りは分からず、時間もエネルギーも使う。

 

けれど長期で見れば、それは信頼という、最も強固な資本を積み上げる行為だ。誰かが困っているとき、あなたがそっと手を差し伸べる。その記憶は、必ず残る。そしてその人は、また別の誰かに同じことをする。

 

やがて、あなたが困ったとき、思いもよらないところから助けが返ってくる。これは奇跡ではない。信頼が循環する、極めて現実的な仕組みだ。必要なのは、英雄ではない。誰もが「自分の余裕」の範囲で、できるときに、できることをするだけでいい。

 

あなたは、今、疲れているかもしれない。それでいい。まずは、自分のコップに水を注ごう。十分に休み、好きな音楽を聴き、美味しいものを味わい、大切な人と笑おう。それは逃避ではない。それこそが、社会に対してできる、最初の一歩だ。自分を律し、整えること。それが「自利」で、そこから自然に溢れ出すものが「利他」だ。二つは対立しない。一つの円環の中で、静かにつながっている。

 

もしかすると、あなたはこう思うかもしれない。「それでも現実は厳しい」「自分を整える余裕なんてない」と。けれど本当は、完璧に整う必要などないのだ。ほんの少し呼吸が深くなるだけでいい。ほんの少し、自分に戻る時間を持つだけでいい。利他とは、大きな決断や特別な行動ではない。自分を見失わずに今日を終えること。その積み重ねが、気づかぬうちに、周囲の人の心を軽くしていく。

 

これからの社会を動かすのは、自己犠牲的な英雄ではない。自分を大切にしながら、ふとした瞬間に、隣の人に優しくできる人たちだ。

 

そして、あなたもその一人だ。

今日という一日を、あなたが少しだけ機嫌よく過ごせますように。

それだけで、世界は確実に、少し前に進んでいる。

 

≪終わり≫

 

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