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もうすぐ夏が来る《週刊READING LIFE Vol.362「もうすぐ夏が来る 」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:飯田久枝(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

朝、私はウタを呼ぶ。

「お薬だよ」

ウタがやってくる。

ちょっと嫌そうな顔をしながら、それでも、ちゃんとやってくる。

私はウタの頭を押さえ、口をこじ開け、喉の奥に錠剤を放り込む。

ごくん。

終わり。

ご褒美のおやつを差し出すと、嬉しそうにペロペロと舐める。

開けた窓から、湿り気を帯びた風が入ってくる。

もうすぐ、夏が来る。

私は夏が嫌いだ。

四季の中で一番嫌い。

暑いのが、とにかく苦手。

湿気も苦手。

気温が三十度を超えると、もう外に出たくない。

外に出れば体力を奪われ、家に帰ればぐったりする。

日本の夏は、年々亜熱帯化している。

一昔前の夏とは全然違う。

だから去年も一昨年も、夏はなるべく外に出る用事を作らなかった。

人と会う約束は秋に回し、エアコンの効いた家にこもった。

私は自分の家が大好きだ。

猫が二匹いて、ワインは飲み放題。

大きなテレビで映画は見放題。

本も読み放題。

何も困らない。

パラダイスである。

でも、さすがに飽きた。

二ヶ月も三ヶ月も同じ景色の中にいると、パラダイスは退屈に変わる。

人間とは勝手なものである。

それで考えた。

夏だけ、涼しいところに住めばいいのではないか。

別荘を探し始めた。

条件はひとつ。

猫と一緒に行けること。

これが、なかった。

涼しくて、環境が良くて、猫と車で無理なく行ける距離。

三つの条件を満たす場所は、なかなか見つからなかった。

そんなとき出会ったのが、熱海の小さいけれどラグジュアリーなホテルの共同オーナーというオプションだった。

壁一面の窓から、海しか見えない部屋。

個室に温泉が付いている。

海を眺めながら、シャンパンを飲みながら、本を読みながらの温泉。

チェックインしたら、チェックアウトするまで部屋から一歩も出ない。

ディナーは部屋に運んでくれる。

パソコンは持って行かない。

スマホも見ない。

自分を充電するための時間。

何より、熱海なら車でサクッと行ける。

一泊して、二十四時間以内に帰宅できる。

それなら猫たちはお留守番できる。

兄妹猫で仲良く留守番ができる。

すでに二回行った。

海のエネルギーを身体いっぱいにチャージして帰ってくる。

毎月行こうと決めた。

夏には、系列のホテルが軽井沢にある。

今年の避暑はそこだ。

秋にはインド旅行にも誘われていて、乗り気だった。

完璧な計画だった。

なのに……

 

最初に気づいたのは、嘔吐だった。

猫は吐く生き物だと言われる。

確かにそうだ。

でも、ウタはあまり吐かない。

そのウタが続けて吐いた。

見るからに、胃の中で消化ができていない。

元気もない。

食欲もない。

これはおかしい。

そう思って病院に連れて行き、血液検査をすると、免疫介在性肝炎と判明した。

免疫介在性肝炎とは、本来は体を守るはずの免疫細胞が、自分自身の肝臓を攻撃してしまう病気である。

原因ははっきりとはわかっていない。

感染症でもない。

食事が悪かったわけでもない。

誰かのせいでもない。

体を守るはずの免疫が暴走してしまう病気だ。

その場で点滴をすることになった。

診察台の上で、ウタはタオルに包まれた。

看護師さんと私とで押さえながら、声をかけ続ける。

大丈夫だよ。

すぐ終わるからね。

点滴は五分ほどかかった。

ウタにとっては、永遠だったと思う。

嫌がり、唸り、鳴き、暴れ――とうとう、首のあたりを押さえていた私の手に、がぶり。

獣医さんは点滴のあと、私の手を消毒してくれた。

でも本能的に、これは手遅れだな、とわかった。

案の定、手は腫れあがり、翌日、今度は私が病院に行く羽目になった。

破傷風予防のワクチンを打つためである。

私はワクチンが嫌いで、インフルエンザワクチンも二十年以上打っていない。

その私が、猫に噛まれてワクチンを打つことになるとは。

でも、ウタのためならと思うと、あまり嫌じゃない。

帰宅してから、私は検索した。

「猫 免疫介在性肝炎」

検索結果には、難しい医学用語が並んだ。

肝不全。

黄疸。

ステロイド。

予後。

病院にいる時は、まだ現実感がなかった。

でも家に帰り、いつもの場所に横たわるウタを見た時、不安が一気に押し寄せてきた。

私は落ち込んだ。

私は、ちゃんとした飼い主ではない。

ウタとコトが大人になってからは、ワクチンを打たせたことがない。

定期検診もしない。

ごはんは「体にいいもの」よりも、彼らが喜んで食べるものをあげる。

ダメな飼い主だと思われるかもしれない。

でも、私には私のポリシーがある。

猫のストレスをできる限り減らし、楽しい、嬉しい、気持ちいい、の経験をできる限り増やすこと。

病院に行く、というだけで猫には大変なストレスがかかる。

キャリーに入れられ、車に乗せられ、知らない場所で知らない人に触られる。

ワクチンは体に異物を入れる行為だ。

健康な体に、わざわざストレスを与えたくない。

病院へ行く回数は最低限。

その代わり、彼らの大好きなマッサージとブラッシングは毎日欠かさない。

好きなごはん。

好きなおやつ。

気持ちいい場所。

安心できる時間。

私はずっと、それが免疫力を高めることにつながると信じてきた。

実際、人間でもそうではないか。

嫌なことばかり考えていると元気がなくなる。

好きな人と笑い、美味しいものを食べ、気持ちよく眠ると元気になる。

東洋医学では、気の巡りが整うと免疫も整うと考える。

だから私は、ウタにもそういう毎日を送ってほしかった。

楽しいことが多い人生。

気持ちいいことが多い人生。

安心できる人生。

それが健康につながると信じていた。

それなのに。

ウタがなったのは、免疫の病気だった。

体を守るはずの免疫が、自分の体を攻撃している。

私のやってきたことは間違っていたのだろうか。

もっと病院に連れて行くべきだったのだろうか。

もっと違うごはんを食べさせるべきだったのだろうか。

答えはわからない。

今もわからない。

ただひとつわかるのは、どんなに気をつけていても、病気になる時はなるということだ。

人間もそうだ。

健康に気をつけていても病気になる人はいる。

反対に、不摂生をしていても元気な人もいる。

人生には、自分ではコントロールできないことがある。

だからこそ、コントロールできることに目を向けたいと思う。

今日、気持ちよく眠れること。

今日、好きなものを食べられること。

今日、大好きな相手と過ごせること。

もちろん、長生きしてほしい。

でも私は、「長く生きること」より「幸せに生きること」を大切にしたい。

もし私が誰かに、

「健康のために今日からワインは禁止です」

「食事はヴィーガンのみです」

と言われたらどうだろう。

冗談じゃない。

食べることは、生きる喜びそのものだ。

猫だって同じではないだろうか。

一日でも長く生きてほしいというよりも、楽しく生きられる日が一日でも多くあってほしい。

それは今も変わらない。

むしろ、病気になった今だからこそ、そう思う。

 

ウタは、おっとりしていて、マイペースで、繊細だ。

そして甘えん坊である。

名前を呼ぶと、走ってくる。

出かけるときは玄関まで見送りをして、帰宅すると出迎えてくれる。

犬みたいな猫。

可愛い奴。

食に執着がない。

好きなごはんやおやつの種類が少なく、気に入らないものは頑として食べない。

これは猫らしい。

だから、食欲がなくても分かりにくかった。

食べないウタに何か食べてほしくて、好きだったおやつを次々に差し出した。

ウタは食べなかった。

代わりに、妹のコトが喜んで全部食べた。

オンライン診療してもらった東洋医学の獣医さんに温灸を勧められ、早速購入した。

煙の出ないお灸を、ウタの背中にそっとかざす。

ウタは嫌がって逃げた。

代わりにコトにかざしてみた。

極楽、という顔をしてリラックス。

コトは健康そのものである。

兄の薬のついでにおやつをもらい、兄の治療器具で温められ、我が世の春を謳歌している。

この元気で能天気な妹の存在に、ウタも私もずいぶん救われている。

獣医さんには、治療は数ヶ月かかると言われた。

朝晩の投薬は当分続く。

旅行は、すべて白紙にした。

熱海も、軽井沢も、インドも。

迷いはなかった。

不思議だった。

会社員だった頃の私は、自由になりたかった。

会社には優秀な人がたくさんいた。

頭が良くて、仕事もできて、責任感も強い。

尊敬できる人もいた。

でも私には、その人たちが社畜に見えた。

朝から晩まで働き、休日も仕事の電話が鳴る。

会社の都合で予定が決まり、会社の都合で人生が決まる。

それが当たり前になっていた。

もちろん、そういう私も社畜だった。

夜遅くまで働き、週末も仕事をしていた時期がある。

当時はそれなりに充実していた。

金融の仕事も面白かった。

でも歳を重ねるにつれて、先が見えてきた。

上司たちを見ても、ああなりたいとは思えなかった。

だから自由になりたかった。

好きな時に起きて、

好きな場所へ行き、

好きな人と会う。

そんな人生に憧れた。

 

その自由を手に入れた今、行こうと思えばどこへでも行ける。

熱海にも行ける。

軽井沢にも行ける。

インドにも行ける。

でも、行かない。

自由とは何だろう。

以前の私は、選択肢がたくさんあることだと思っていた。

でも今は少し違う。

自分で選べること。

それが自由なのかもしれない。

熱海へ行くのも。

軽井沢へ行くのも。

インドへ行くのも。

家で過ごすのも。

私の選択だ。

誰かに決められるのではなく、自分で決める。

だから、この夏は家で過ごすことにした。

点滴と薬のおかげで、ウタは徐々に食べるようになった。

減ってしまった体重も、少しずつ戻ってきた。

一週間もすると、私では病気だとわからないほど、食欲も元気も戻っていた。

ウタは今日も、名前を呼ぶと走ってくる。

ウタは点滴や注射は苦手だが、薬は飲んでくれる。

「お薬だよ」と呼ぶと、ちょっと嫌そうな顔をしながら、ちゃんとやってくる。

もちろん、そのあとにおやつがもらえると知っているからだ。

でも、それだけではない気がする。

薬を飲むと体が楽になることを、ウタはわかっているようなのだ。

賢い猫である。

 

今年もまた、家で夏を過ごす。

去年までと同じ、エアコンの効いた部屋。

同じ景色。

でも、たぶん、同じではない。

去年までの夏ごもりは、夏から逃げるための夏だった。

今年の夏は、ウタと過ごすために、自分で選んだ夏だ。

場所は同じでも、意味が違う。

 

朝、私はウタを呼ぶ。

「お薬だよ」

ウタがやってくる。

もうすぐ、夏が来る。

今年の夏も、家で、ウタと、コトと。

大好きな我が家で。

それも、悪くない。

 

 

 

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