【連載第48回】 《“治す側”から“治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》「今日は、何もしないで」と言われた―“治すこと”を手放せなかった作業療法士が、ベッド脇で時間を過ごした日―
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※個人が特定されないよう事実関係を再構成し、一部フィクションを含みます。
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誰かを支える仕事では、「何ができたか」を求められます。立てた。食べられた。外へ出られた。けれど、残された時間が少ない人のそばでも、同じ物差しを握り続けてよいのでしょうか。私は終末期の男性に、今日こそ何かを残したいと焦り、準備した課題を差し出しました。返ってきたのは、「今日は、何もしないで」という言葉でした。これは、前へ進ませることをやめたとき、ようやく本人の時間に座れた一日の物語です。
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「今日は、何もしないで」
Sさんは目を閉じたまま言いました。
私はベッド脇に立ち、両手で一冊のノートを抱えていました。そこには、前回できたことと、今日試したいことが三つ書いてありました。ベッドの背を少し起こす。温かいタオルで顔を拭く。窓の外を一緒に見る。
どれも大きな課題ではありません。体調に合わせて、一つ選んでもらうつもりでした。けれど、Sさんはノートを見る前に断りました。
「苦しいですか。姿勢だけでも整えましょうか」
「今は、このままでいい」
「では、手を動かすことなら……」
「先生」
Sさんはゆっくり目を開けました。
「何かしないと、ここにいちゃいけないのか」
ノートの角が、手のひらへ食い込みました。
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Sさんは病気の進行により、起きていられる時間が短くなっていました。少し話すだけで疲れ、昨日できたことが今日は難しい。体の状態は、日ごとではなく、時間ごとに変わっていました。
それでも私は、訪ねるたびに小さな目標を探しました。コップへ手を伸ばす。髪をとかす。好きだったラジオを数分聞く。できたことを一つでも残せれば、その日を支えられる気がしていたのです。
前回、Sさんはベッドの背を起こし、窓の方を見ました。雨で景色はぼやけていましたが、「次は晴れているといいな」と言いました。私はその言葉を、次の目標だと受け取りました。
だから、朝から空が青かったその日、私は少し急いでいました。今日なら窓の外を見られる。今日を逃せば、次は難しいかもしれない。そう考えるほど、Sさんの「何もしない」が、時間を捨てる選択のように聞こえてしまいました。
けれど、時間を惜しんでいたのは私でした。Sさんではありません。
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私はノートを閉じました。
「何もしません。ここにいてもいいですか」
Sさんは小さくうなずきました。
ベッド脇の椅子を引き、腰を下ろしました。何もしないと決めた途端、部屋の音がよく聞こえました。廊下を通るワゴンの車輪。遠くで閉まる扉。酸素を送る機械の一定の音。壁の時計が針を進める音まで、聞こえるような気がしました。
私は落ち着きませんでした。姿勢はつらくないか。水分は足りているか。声をかけた方がよいのではないか。沈黙が長くなるたび、頭の中で次の提案を作っていました。
専門職として何もしていない自分が、そこにいることへ耐えられなかったのです。
時計を見ようとして、やめました。
Sさんの呼吸に合わせるのではなく、ただ急かさないように座りました。
しばらくして、Sさんが目を開けました。
「晴れてるのか」
「はい。よく晴れています」
「そうか」
私はカーテンへ手を伸ばしかけましたが、止めました。
「開けますか」
Sさんは首を横へ動かしました。
「見なくていい。晴れてるって、わかったから」
前回の言葉を、私は約束に変えていました。Sさんにとっては、次も窓を見るという宿題ではなかったのです。晴れたことを知るだけで、その日は十分でした。
——
そこへ、奥さんが来ました。手には、家から持ってきた小さな保温ボトルがありました。Sさんが元気なころ、毎朝飲んでいた薄いコーヒーを入れてきたそうです。
「今日は、何をしたんですか」
奥さんは私の閉じたノートを見て尋ねました。責める声ではありませんでした。それでも私は、何か成果を答えなければと思いました。
「今日は、まだ何も」
言いかけたとき、Sさんが口を開きました。
「今日は、それでいいって決めた」
奥さんは少し驚いた顔をして、それから保温ボトルのふたを開けました。部屋へ、淡いコーヒーの匂いが広がりました。
「飲む?」
「いらない。匂いだけでいい」
奥さんは勧め直しませんでした。ボトルをテーブルへ置き、反対側の椅子に座りました。
三人で話題を探すことはしませんでした。Sさんは目を閉じ、時々、コーヒーの匂いを確かめるように息を吸いました。奥さんは膝の上で手を重ねていました。私はノートを鞄へしまいました。
何も起こらない時間でした。Sさんは起き上がらず、顔も拭かず、窓の外も見ませんでした。
それでも、その時間は空白ではありませんでした。Sさんが自分で、今日をどう使うか決めていたからです。
——
帰る時間になり、私は立ち上がりました。
「今日は、何もしなくてすみませんでした」
謝った直後、自分の言葉がおかしいと気づきました。Sさんは目を開け、少しだけ眉を上げました。
「先生は、やっと何もしなかったな」
笑う力は残っていないように見えました。それでも声の端に、いつもの皮肉がありました。
「はい。やっとです」
その日、私の記録には、運動の回数も、座れた時間も書けませんでした。書けたのは、本人が『何もしない』と選んだこと。晴れていると伝えたこと。奥さんとコーヒーの匂いを共有したことだけでした。
数日後に再び訪ねたとき、Sさんは眠っていて、言葉を交わせませんでした。その後、私が「次は何をしますか」と尋ねる機会は戻りませんでした。
窓を見られなかったことも、コーヒーを飲めなかったことも、未完のままです。私は今でも、別の提案があったのではないかと考えることがあります。
けれど、あの日を失敗にはしたくありません。何かを達成できなかったからではなく、Sさんが残された時間の使い方を、自分の手へ取り戻した日だったからです。
——
支援する人は、役に立ちたいと願います。その願いは大切です。けれど強くなりすぎると、本人のための時間を、自分が成果を出すための時間へ変えてしまうことがあります。
終末期に限らず、人には、話したくない日、練習したくない日、決めたくない日があります。『何もしない』は、すべてを諦めた言葉とは限りません。今日は何をしないかを自分で決めることも、生活を選ぶ行為です。
再起動は、いつも前へ動き出すことではありません。動かされ続けていた時間を止め、自分の時間として選び直すこともあります。
【今週の再起動実験】予定を一つ、本人へ返す
家族や支援する人が『今日はこれをしよう』と決めていることを、一つだけ本人へ返してみてください。『やりますか』だけでなく、『今日はしないでおきますか』『今はそばにいるだけでよいですか』と尋ねます。断る、後にする、途中でやめるという選択も、最初から残しておきます。
急な息苦しさ、強い痛み、意識の変化などがある場合は、『休みたいだけ』と決めつけず、医療・介護の専門職へ相談してください。本人が話しにくいときは、表情やこれまでの希望、家族からの情報も確かめながら、その時点で負担の少ない関わり方を一緒に探します。
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あの日、Sさんの体に、目に見える再起動は起こりませんでした。
変わったのは、ベッド脇に立っていた私の方でした。治す人でいようとする手からノートを離し、そばにいる人として椅子に座ったのです。
『今日は、何もしないで』という言葉は、支援を拒む終わりの言葉ではありませんでした。自分の時間を、自分へ返してほしいという願いでした。
何もできない日に、その人の選んだ時間を守る。そこにも、私たちの仕事は残っています。
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❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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