髷から香る、「孤独」と「立場」
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:SB 関(26年9月ライティングゼミwithAI)
「体力の限界……。気力もなくなり、引退することになりました」
昭和の大横綱、千代の富士の引退会見での言葉だ。
私はこの言葉を思い出すたびに、力士は、廻し姿でエレベーターを降りられない人間なのではないか、と感じる。
私の大好きなものは、奇数月になるとやってくる。
東京都墨田区、両国国技館。色とりどりの幟が立ち、櫓が立ち、太鼓の音が聞こえてくる。
大相撲である。
土俵の上では、岩のように大きな力士たちが熱い取組を繰り広げる。力士たちが作り出す非日常感に、私はいつも胸が熱くなる。
一方で、そんな力士たちを見ていると、ときどき不思議な気持ちになる。
力士は、強くなればなるほど、多くの人に囲まれていく。注目され、期待され、後援者も増えていく。
それなのに私は、力士が強くなっていくほど、なぜか一人になっていくように感じるのだ。
力士は、厳しい稽古を重ね、番付を上げていく。関取になり、さらに上を目指す。そして大関、横綱という地位にたどり着くと、求められるものは「強さ」だけではなくなる。
「大関らしい相撲なのか」
「横綱としてふさわしい振る舞いなのか」
そんな声が聞こえてくる。
最初は「強くなれ」と言われていた人が、強くなった途端に、「その立場なら、どうするべきか」と問われるようになる。
上へ行くことは、自由になることとは限らない。
むしろ、上へ行くほど、簡単には降りられなくなる。
私はそこに、大相撲の面白さと、少し怖いところを感じる。
では、これは力士だけの話なのだろうか。
私は今の職場で勤務して、十二年になる。
新人職員として入った頃は、分からないことばかりだった。やがて、自分より後に入ってきた新人職員を指導する立場にもなった。
人並み以上に失敗もした。うまくいかず、何度ももがきながら、それでも自分なりに必死に仕事を続けてきた。
気がつけば、教えてもらう側だった自分が、人に教える側になっていた。
以前なら「分からないので教えてください」と言えばよかったことも、いつの間にか「あなたはどう考えるのですか」と問われるようになった。
立場というものは、ある日突然変わるのではないのかもしれない。
少しずつ経験を重ね、少しずつ周囲から求められるものが変わり、気がついたときには、自分のいる場所が以前とは違っている。
そして最近、私はさらに一つ上の立場へ進むことになった。
管理職試験に合格したのだ。
周囲から「おめでとう」と声をかけてもらう。もちろん嬉しい。自分なりに努力して受験したのだから、合格できたことはありがたい。
それでも、喜びだけではなかった。
私は、そんなに立派な人間ではない。
周囲が期待するような人間でもない。
試験に合格したからといって、昨日までの自分と今日の自分が突然変わったわけではない。それなのに、「管理職試験に合格した人」という事実だけが、自分より先に歩いていくような感覚がある。
私は、組織に「相応しい」管理職になれるのだろうか。
その問いが、頭から離れない。
力士も、番付が上がった瞬間に別の人間になるわけではない。
それでも、周囲から見られる自分は変わっていく。
そう考えると、私が大相撲を見ながら感じていたものの意味も、少し違って見えてくる。
人に囲まれていても、最後には自分で決めなければならない。
立場が変われば、自分で判断しなければならないことも増えていく。誰かに答えを教えてもらえるわけではない。最後に決めるのは、自分だ。
それは、霧の深い山を登ることに少し似ているのかもしれない。
上を目指して歩いているのに、霧のせいで次にどこへ進めばいいのか分からない。道を間違えれば、足元の崖に気づかないまま、踏み外してしまうかもしれない。
それでも、自分の足元を確かめながら、一歩を選ぶしかない。
これまでなら、誰かに道を教えてもらうことができた。
けれど、これからは自分で決めなければならない。
その瞬間、人は一人になる。
一人で決めることは怖い。
けれど、自分で決めたことだからこそ、その結果を自分のものとして引き受けることもできるのだろう。
大相撲を見ていると、私は力士の強さだけではなく、その強さの先にあるものを考える。
上へ行くほど、見える景色は変わる。
そして、上へ行ったからといって、道がはっきり見えるとは限らない。
それでも、その場所で何を背負い、どこへ進むのかを決めるのは、自分なのだろう。
力士は、廻し姿でエレベーターを降りられない。
それは、ただ高い場所から降りられないということではない。
一度背負った立場から、簡単に以前の自分へ戻ることはできない、ということなのかもしれない。
そして今、私もまた、そのエレベーターに乗っている。
次にどの階で扉が開くのかは、まだ分からない。
ただ、その扉が開いたとき、そこで何を背負い、どこへ歩き出すのか。
それを決めるのは、自分なのだと思う。
≪終わり≫
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