《週刊READING LIFE Vol.375「あの人の口癖」》

あの日の「結婚しているんです」は正しかったのだろうか《週刊READING LIFE「あの人の口癖」》


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:五流内科医K(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

※プライバシーや特定される危険性に配慮し、一部再構成しております。

 

 

「すみません、私、結婚してるんですよ」

 

今までの人生の中で、私は一度だけこのセリフを使ったことがある。

 

一応断っておくと、私に婚姻歴はないし、それどころか男女交際をした経験自体もほとんどない。田舎の山奥にある中高一貫男子校で6年間男しかいない青春を過ごし、卒業後も異性への免疫がちゃんとつかないまま、今年33歳になろうとしている。件のセリフは、イレギュラーの末に思わず口をついた「嘘」である。

ただ、他にも立ち回り方はあったかもしれないが、当時の私にはそれしか思いつかなかった。今思い返しても、私に適切な返事を選べるとは、到底思えない。ただ、一つだけ言えることは、そのセリフを吐いたことを、私は今でも猛烈に後悔し、そして反省している。

 

 

 

当時、私は28歳であった。

内科の後期研修医としてとある地方の大学病院に勤務しており、医局から紹介されたバイトの外勤で週1回訪問診療に従事していた。外勤を始めてからしばらく、大学病院の診療とは180度違う診療の雰囲気に戸惑っていたが、2−3ヶ月すると徐々に慣れ始めてきていた。

 

ちょうど秋口、今くらいの時期だったと思う。

ベテラン看護師Iさんの運転で定期患者の診察を終わらせ、ちょうど近くの定食屋でお気に入りの焼鮭定食を食べていた頃だった。

Iさんと二人で色々世間話をしながら定食をつついていると、不意に看護師さんの携帯の着信音が鳴った。どうやら、クリニックの往診担当者からの電話のようだ。

 

医者という仕事をしていると、携帯の電話連絡というものがかかってくると一瞬身構えてしまう。大体が、急患や、入院対応など、緊急で対応しなければいけない仕事の依頼になるからだ。

Iさんが電話でやや苦笑いしながら話し込んでいた。電話口の声は聞こえないが、「あの人」「往診」「認知症」「転倒」という言葉で、状況はなんとなく察することができた。

 

(まあ、転倒したってことね。この手のパターンって、骨折の評価か、傷の手当てとか、どっちかだろうな。認知症なんだし、きっとよくコールとかする人なんだろう。救急搬送が必要なことにならなければいいが……)

 

私は焼鮭の切り身を口に運び、咀嚼しながら話の内容を推測していた。さっきまで口の中でしていた甘みのある鮭の脂の味はもはや消え失せて、目の前の食事が「お気に入りの焼鮭定食」から、「目の前にあるただ腹を満たす食い物」になっていった。

 

無言で飯を食っていると、やがて電話が終わり、Iさんが電話の内容について話し始めた。

「先生、往診依頼です。認知症、80歳女性のTさんって方なんですけど、家の中で転んでしまって、擦りむいてしまったから見てほしいとのことです。ご飯食べたらすぐに行きます」

「擦りむいただけですか? 重症度低いなら、最後に回してもいいんじゃないですか?」私はそう答えた。午後の定期診療自体は空いてはいるが、移動に時間のかかる人ばかりだった。可能ならば、急を要する状況でなければ、後回しにしたいところだ。

「はい、そうなんですけど、ねぇ……」Iさんが苦笑いを浮かべながら、とても言いづらそうにしていた。Iさんがこういう反応の時は、いわゆる「面倒な」案件ということだ。

「つい先週訪問診療始まったばかりなんですけど、独居で、結構不安を抱えていて、すぐに連絡しちゃう方なんですよ……それに、結構待てなくて、ちょっと遅れてしまうと『まだですか?』って」

「主治医の先生は? 今日出勤してますし、主治医で行くのはどうなんでしょうか?」

「ちょっと遠くに出ちゃっているみたいですし、あっちも遠くに緊急の往診が入ったので……。私たちが家から一番近いので、こっちで行くしかなさそうです」

しょうがない、と思った。この手合いは、行ってあげて、いい感じに処置して、安心を与えてあげれば良いだろう、と無理やり「行きたくねえ」と思っている自分に言い聞かせた。

「わかりました……まあ、飯食ったら行きますか。後ろも詰まっているし、サクッと終わらせましょう」

私はすでに喉元まで出かかっていた「行きたくねえ」というセリフを残りの味噌汁と一緒にかき込み、会計に向かった。

 

 

 

定食屋から10分ほどで、Tさんの家に着いた。

築何十年もありそうな古い木造2階建てのアパートの1階、奥の部屋に、彼女は住んでいるとのことだった。

急ぎ部屋の前に行き、呼び鈴を押すと、程なくして、ヨレたTシャツに汚れた厚手の黒ズボンを履いている老婆が出てきた。

「ありがとうございます、待っていました」

言うなり、彼女は怪我をしていると思えないほどに、軽い足取りで奥に入っていった。

 

「Tさん、早速すみませんが、どこ怪我しました?」

ひとまず、怪我の状態を確認するため、私はTさんに問いかけた。そんなに時間をかけるわけにはいかない。

言うなり、Tさんは、まるで怪我をしたことを今思い出したかのようにしかめ面になった。

「ここ、怪我しちゃって痛いの」

彼女は左膝を指しながら言った。厚手の薄汚れたズボンを履いているためか、外からは傷の様子はよく見えない。ズボンをまくると、膝から脛にかけて擦り傷ができていて、血が滲んでいた。

「どんなことをして怪我したか覚えていますか?」

「覚えていないわ」Tさんは、なんとも言えない表情で言った。どうも、甘えたような声色だった。

部屋の中を見渡すと、階段や段差こそなさそうだが、色々なゴミが散乱していて、どこで転んでもおかしくなさそうに見えた。

「念の為、他のところも痛めているところがないか、診察させていただいていいですか?」

 

Tさんの了承を得て、頭から足まで一通り簡単に診察し、少なくとも明らかな骨折や傷はないことを確認、左膝の傷の処置を行った。

 

ひとまず処置を終え、一旦退出しようとしたが、後ろから「もう行っちゃうの?」と腕を掴まれた。

「ん? どうしました?」

 振り返ると、Tさんが先ほどよりもさらにニコニコした表情で私の腕を掴んでいた。先ほど転倒した高齢者とは思えない、力の強さだった。

「すみません、先を急いでいるので」

私は説得しようとしたが、その老婆はニコニコしたまま腕を離さず、やがて私の腕を、彼女の胸のところに持っていった。手に柔らかい感触が当たり、彼女の表情にどこか艶っぽさを感じた。経験したことのない状況に、私は戸惑った。

 

「……Tさん、何をしているんですか」

「お帰りなさい、もう離さないわ」

Tさんは相変わらず笑みを浮かべていたが、目には獲物を見つけた猛獣のような獰猛な光が浮かんでいた。

 

(もしかしたら、俺を旦那か何かと勘違いしているのか……? もしかしたら、死に別れた旦那と勘違いしてるのかもしれない)

 

「Tさん、私はあなたの旦那さんじゃないです」

私は突き放すように答えた。

Tさんは一瞬驚いたような顔になったが、すぐに「そんな嘘をつかないでよ〜」と、再度笑顔になり、あまつさえ私に顔を近づけて、「さあ、その顔を見せて」と来る始末だった。

 

私は、急展開に付いていけず、動揺で動けない私に向かってゆっくりと迫り来るTさんの顔を見ながら、この場をどうすれば切り抜けられるか、必死に頭を働かせて考えた。

 

(まずい、完全に旦那と思われている。ちょっとやそっとじゃ誤解は解けなさそうだ……誤解を解くにしても、どうすればいい? ……もういいや、なんでもいいから何か言わないと!)

 

「すみません、私、結婚しているんです。(Iさんの方を指差し)この人と」

咄嗟に出た一言だった。なぜこの一言が出たのかは、いまだにわからない。IさんもTさんも、固まってしまった。

 

「そう……」

Tさんは、悲しそうな顔をしていた。

私とIさんは、その隙に、逃げるように部屋を出ていった。

 

 

終了後の車内は、とても気まずかった。

しばらく私もIさんも、何も言葉を発することはできなかった。

 

「まさか、先生があんな嘘をつくなんて……」

しばらくして、Iさんが言葉を発した。困惑しているような口調だった。

「ほんとすみません、他に切り抜け方が思いつかなくて、咄嗟に出てしまいました」私も、反省しきりだった。元々、動揺するとわけわからないことを言ってしまう性質はあったが、Iさんまで巻き込んでいるし、今回は度がすぎる。そもそも、Iさんには、単身赴任中の夫と息子がいたし、家族仲も良さそうだった。場合によっては、大事になり得る。

 

その後の診療は特に大きなトラブルなく終了したが、最後まで車内は気まずかった。帰宅後、私はIさんに謝罪の連絡を入れ、彼女からも「今回のことはお互いに水に流しておきましょう。何かあったら、対応しておきます」と連絡があった。

 

 

 

あの往診からしばらくした後、トラブルになっていないか気になって、Tさんのカルテを読み直した。

Tさんが『私の夫はどこ?』と答えているのを見て、一瞬強烈な眩暈がしたが、ひとまず他の記載を見る限りは大事にはなっていなさそうだった。

 

ただ、どうしてそんな言動を取ったのだろうか? 性的逸脱行動をとる認知症の患者さんはいないことはないが、あまり女性でこのような直接的な「セクハラ」に相当するような行為をとる方は思いつかなかった。私には、どうにもそこが腑に落ちなかった。

 

生育歴や家族構成など、Tさんの背景について読み進めていくと、「Tさんが幼少期に父親を亡くし、若い頃からさまざまな苦労を重ねてきたこと、そして、結婚してまもなく夫が行方不明になっていたこと」など、衝撃的なことが書いてあった。

 

さらにカルテを読み進めていくと、初診の時にも、それ以外の往診の時にも、口癖のように

『夫はどこ?』

と言っていたそうだ。

 

件の往診の後の定期診療でも、

『夫はどこ?』

と答えていたようだった。

まるで、この前の出来事が何もなかったかのように……

 

 

 

……もしかしたら、Tさんは今まで夫を探していたのかもしれないし、私が彼女の夫に見えたのかもしれない。嬉しさゆえに、あんな振る舞いをしてしまったのだろうか……。

 

そう考えたら、全身に冷や水をかけられたような感触と、どうも身につまされるものを感じた。

Tさんのあの表情や、「そう……」という悲しそうな声が、どうにも将来孤独を拗らせきった私の姿を見せられた気がしたのだ。

 

実際にまたあの距離まで迫られたら、正しい対応を取れるかどうかわからない。正直恐怖も感じたし、性的逸脱行動やハラスメント的行動については毅然とした対応をとらなければならない。

 

ただ、もしあの行動の背景に、誰かに会いたい、誰かにそばにいてほしいという切実な気持ちがあったのなら、その感情自体は、私にも理解できるような気がする。仮に私が、愛する人が蒸発して離れ離れになり、ずっと彼女を探したまま年老いて、一人自室の中で不安な中、そこで「運命の人」のような女性に優しくされるようなことがあったら、Tさんみたいに振る舞わないと言い切れるだろうか。

 

彼女の孤独を癒すことは、あの場では医療者としても、一人の人間としても、できなかった。それでも、痛みを理解できる人間として、何かしら手当てを行う方法はあったはずだ。

 

カルテを閉じた後も、「結婚しているんです」と言う無責任な嘘、彼女の振る舞いと、「そう……」という声が、しばらく頭から離れなかった。

 

「私、結婚しているんですよ」は、今のところ人生で一度きりしか使っていない。あの出来事以降、私はTさんの往診には一度も行かなかった。

けれど、「あれでよかったのだろうか」という問いだけは、今でも時々、頭の中で繰り返している。

 

 

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