三日三晩、徹夜で踊り続ける盆踊りとは《READING LIFE不定期連載「祭り」》
記事:中野 篤史(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
「月が〜、でたで〜た、月が〜でた〜、はぁよいよい」
遠くのスピーカーから出た音が、玄関の簾の隙間をすり抜けて、茶の間にいる私のところまで流れ込んできた。昭和50年代、まだ小学校1年生だった私は、夕飯を食べながら、自分がソワソワするのを感じていた。血が騒ぐとはこういうことをいうのだろう。当時、任天堂のファミコンはまだ家にはなかったし、VHSビデオデッキも家になかった。ドリフターズの8時だよ全員集合を、毎週楽しみにしているような子供時代だった。
盆の間、一週間程行われる盆踊りは、当時の私にとって、家でじっと座っているには堪え難い魅力を持っていた。といっても、別に盆踊りを踊るわけではない。盆踊り会場には縁日ほどではないが、かき氷や綿あめ、ヨーヨーすくいなどの出店がでる。それが楽しみだった。そして、昼間学校で毎日会っているはずの友達の顔も、夜に会うとどこか新鮮で違って見えた。
大人になり、スマホひとつで様々なコンテンツにアクセスできる世の中になった。それでも盆踊りの音を聞くと、頭より先に体が反応してしまう。5年ほど前から趣味ではじめた写真をきっかけに、私は盆踊りの写真を撮るようになった。それは一年に一度しか咲かない花の撮影するような感覚に近い。7月〜8月のごく限られた期間に、全国で一斉に盆踊りという花が咲く。期間的な制約にくわえ、物理的な距離というハードルも加わるため、毎シーズン撮影で訪れることができる盆踊りは限りがある。だから、来シーズンはどこの盆踊りを撮影しにいこうかと考えるのも、私の楽しみのひとつになっている。
ある時、噂を聞きつけた。三日三晩、徹夜で踊り続ける盆踊りがあるらしいと。そんな盆踊りの存在を知ったのも、写真の撮影を始めてからだった。徹夜踊りで有名なのは、岐阜県の郡上踊りだ。しかし、私が興味をそそられたのは、長野県のある地域で、数百年も昔から引き継がれている盆踊りだった。その盆踊りでは、お囃子(はやし)を一切使わない。7曲の決まった歌のみが繰り返し歌われるだけだという。それが長野県の新野に伝わる盆踊りだった。
昔々、新野村では、1年のはじめの半年を麦月、あとの半年を稲月と呼んでいた。麦月がはじまる1月には、神々が土地の祝福のためにやってきた。稲月がはじまる7月になると、今度は祖霊たちが村へ帰ってきた。だから村人たちは、雪まつりで神々を祀り、盆には新盆の家の庭先に家族や親族、村人が集まり、霊を慰めるために踊りをして回った。そんな土着の信仰が数百年続いていた。
文安二年(1445年)には、伊勢平氏一族の関氏がやってきて、この地の領主になった。関氏の2代目である盛国は、村に“瑞光院”という寺を建てることを決めた。新野村から南へ30Kmほど離れた、三河の振草村から人々が手伝いに来てた。そして、やっと寺が完成した時、その踊りは自然な流れではじまった。寺の広い庭で の振草村から来ていた人々が踊りを踊りはじめたのだ。それを見たこの村の民たちも見よう見まねで、踊り始めた。それから後、この村の盆踊りは、祖霊たちを慰めるものであると同時に、人々の交流の場となる。近隣の村の若者たちにとって、数少ない出会いの場でもあった。それから、毎年この村では盆になると 三日三晩のあいだ踊りが踊られるよになった。これが新野の盆踊りの発端とされている。
8月15日、私は妻を助手席に乗せ、中央高速道を東京から西へ向かった。1時間ほどで談合坂のパーキンングエリアに到着。スタバでコーヒーを調達し、再び車を西へ走らせた。笹子トンネルを抜けると、やがて視界が開け甲府盆地が視界にはいってきた。車はさらに西へ進む。八ヶ岳の麓を回り込むようにして走り、ようやく右手に諏訪湖が見えてきた。ここから中央高速道路は、諏訪湖を尻目に一気に南へ向かう。私たちは飯田山本インターで一般道へおりて、さらに山間の道を進んだ。そして東京から5時間半、長野県阿南町の新野についた。ここがその昔、新野村と呼ばれていた場所だ。
新野の盆踊りは、8月14日の午後8時ごろ、市神様の前で神迎えの祭から始まる。そして、盆踊りが始まるのは午後9時ごろからだ。踊りは8種類ある踊りのうち、「すくいさ」「高い山」「十六」「音頭」「おさま甚句」「おやま」の7種類が、三夜繰り返し朝まで踊られることになる。最後の「能登」は最終日の朝だけだ。そして最終日の朝、新野の盆踊りでしか見ることができない、独特の見せ場がやってくるのだ。
現地へついた15日の夜。民宿で夕食を済ませた私は、盆踊りの会場となる旧宿場町の“通り”に向かった。太陽はとっくに西の山へ沈み、漆黒の夜空が頭上に覆いかぶさっていた。期待感で心臓が早くなっているのがわかった。旧宿場町の商店街は、ド昭和な雰囲気を残していた。ガラスがはまった木の引き戸の玄関。オロナミンCとかボンカレー的な古い金属製の看板。床屋のくるくる回るやつ。それは、私の生まれ育った地元山梨での幼少時代を思い出させた。通りのところどころに備え付けられているスピーカーからは、踊りの歌が流れている。しかし、太鼓や三味線など、おはやしの音はしない。古式とよばれる新野の盆踊りに、メロディーは入らない。見せるための踊りではなく、あくまで自分たちが踊るためのものなのだ。ただひたすら、古くから伝わる7曲が繰り返し歌われ、それにあわせて人々がおどるのだった。私がここへ来たのも、東京では味わうことができない、古式の盆踊りを体験するするためだった。
通りには、三々五々浴衣をきた人々が集まりはじめているが、まだ時間が早いためか(といっても午後10時をすぎているが)、踊る人もまばらで通りはガランとしていた。一旦、宿へ引き返し一風呂浴びてから、夜中にまた来ることにした。
午前0時過ぎ。通りへ戻ってみると様子が一変していた。先ほどまでの感じとはうってかわり、商店街が生き返ったかのように、活気を取り戻していた。この時間だというのに、酒屋など殆どの店がまだ開いている。踊りの輪は、櫓(やぐら)を中心に東西300mほどの細長い輪に成長していた。扇子片手に踊る女の人。酒を飲みながら見ているおっちゃん。座り込んでインスタント焼きそばを食う学生ら。はしゃぐ子供達。老若男女が今この時を楽しんでいる。つづく16日の夜も同じように過ぎていった。そして、翌朝盆踊りは、いよいよクライマックスを迎える。
16日未明、外はまだ暗くあいにくの雨だった。櫓には、昨夜新盆の家々から集まってきた切子灯篭がいくつも取り付けられていた。そして切子灯篭は櫓から取り外され、通りの西側に並べられた。
ここから、「踊り神送り」が始まる。櫓からとり外された切子灯篭をもった行列が、太鼓を鳴らしながら、通りの西側からやって来た。彼らは精霊を送るために、通りを東へ突っ切り“瑞光院”の広場へ向かうのだ。しかし、通りにはまだ踊りを踊り続ようとする人たちが輪になってそれを阻止しようとする。そして、瑞光院へ向かおうとする行列と、踊りを続けようとする一団の、せめぎ合いがはじまった。
雨は激しさを増していた。踊り子たちは、汗と雨でずぶ濡れだ。ぐちゃぐちゃになりながら、それでも楽しそうに踊る。そんな踊り子たちを、押しのけて進もうとする切子灯篭の行列。負けじと、肩を組んで踊り出す踊り子。踊る者、通ろうとする者が、渾然一体となった。足元で雨が激しく弾ける。そしてついに、踊りの輪は解かれた。切子灯篭の行列が、太鼓を鳴らしながら通り過ぎていく。新野では、この光景が何百年と続けられてきたのだ。その一つを今この場で体験していることが、信じられなかった。
スマホで検索すれば、新野の盆踊りを動画で観ることはできる。しかし、本当に体験することはできない。数百年を超えて現存する踊りの先に、どんな体験が待っているのか。それは、踊ったものにしかわからないだろう。ふと気づくと、私もびしょ濡れになっていた。
❏ライタープロフィール
中野 篤史
’99に日本体育大学を卒業後、当時千駄ヶ谷にあった世界中の旅人が集まるゲストハウスにて20代を過ごす。またバックパッカーとして、国内やアジアを中心に欧米諸国を漫遊。どいうわけか、現在は上場IT企業に勤め、子供2人を持つ40代の父親になっている。最近は、暇さえあればスパイスカレーを食べ歩く日々をつづけていて、天狼院書店でライターズ倶楽部に所属しながら、食と旅行を中心に記事を執筆中。
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