伊勢丹のあのフロアで死ねたら《週刊READING LIFE vol.17「オタクで何が悪い!」》
記事:水峰愛((READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「何これ。商売でも始めるつもり?」
4箱のクリアケースにぎっしり詰め込まれたそれを見て、母は呆れたようにため息をついた。
「だいたいね、ルナソルだかスックだか知らないど、男の人はあんたが塗ってるアイシャドウの違いなんて一切見てないんだから、それは無駄ってもんじゃないの? あんたこれに幾ら使ったの」
私は先ほどから小言を垂れる母に適当に相槌を打ちながら、コレクションに手入れをしている。ケースの内側の鏡を磨いて、色ごとに並べ替えるためだ。
ここに整頓されているのは、多色入りのアイシャドウパレット。だいたい、ひとつのパレットに、4色か5色入っている。殆どがデパートで購入した。開店前から行列に並んで購入したもの、ソールドアウトしたあとに、オークションサイトを使って倍の値段で入手したものもある。底が見えるまで使い込んだものや、軽く表面を拭っただけのものまで様々だ。
色の系統ごとに整理して、すぐに気づいた。ほとんどがベージュ系だ。べつに驚きはしなかった。私はすぐに思考を転換して、そのベージュ系の中でも、イエロー系のベージュ、レッド系のベージュ、ブルー系のベージュに分けることにした。
やってみると、ニュートラルなベージュが一番多いことに気づく。
「やっぱりね」
と、独り言を漏らす。
赤みも気味も青みも感じない、ベージュとしか説明できないプレーンなベージュ。それが私の肌をいちばん美しく見せてくれる。そのなかでも、パールの配合や若干のニュアンスの違いで、肌映えが変わる。だから、1月と8月の新製品発売ラッシュで各ブランドをチェックし、目ぼしいものがあると買わずにはいられない。より粉体が滑らかで美しいもの、より色持ちの良いもの、より瞳が綺麗に見えるもの。何より、私を興奮させてくれるもの。
たとえば、ここに4色入りのアイシャドウパレットが10個あるとする。色で言えば、40色だ。40色を所有しているという考え方で、フレキシブルにパレットを跨いで組み合わせて使用する、という考え方がある。
しかし、私はそれでは嫌なのだ。
ひとつのパレットで完結するものがいい。7センチ×9センチほどの薄いパレットの中に、全てのトキメキと、可能性と、美の宇宙が詰まっているものを、私はずっと探し求めている。
それは何故かというと……何故なんだろう?
この執着と偏愛をなんと表現すればいいのか。
この説明のつかない心のざわめきにどんな名前を与えれば。
そうだ、ロマンだ。
ロマンとしか、もう言いようがない。
「で、私これに幾ら使ったんだっけ?」
きれいに整頓されたクリアボックスを眺めながら、母の質問を反芻する。
概算ではじき出した数字に、思わず卒倒しそうになった。
私は、化粧品が好きだ。
年頃の女の子が、美容に関心を持ち始めるずっと前から、私は化粧品が好きだった。
月5000円のお小遣いで、友達が安価なヘアワックスやおしろい、色付きリップクリームにマスカラなど一通りの化粧品を買い揃える中、私は昼ごはん代を小遣いに回して5000円を8000円にし、ディオールのアイシャドウを買った。合わせるアイライナーもマスカラも、口紅もファンデーションすら持っていないのにだ。
そういう不合理な投資の仕方を見ても、どうも私のこの化粧欲は、「男性から少しでも綺麗に見られたい」という女心とは別のところにルーツがあるらしい。
それは、「男ウケとかどうでもいいから独自の美を追求したい」という先鋭的な美意識とも、少し違う。
マテリアルとしての化粧品に、私は執着しているのだ。そこに、フェティッシュな感覚を抱いている。そう言ってもいい。理由はないし理屈もない。気がついた時には既に好きだった。それ以外に、説明のしようがない。
山田詠美さんの初期の小説の中に、「クロゼットフリーク」という言葉が出てくる。
一見地味な女だけれど、クローゼットの中にはたくさんの洋服を持っていて、その意外性が男性を夢中にさせると言ったような、そんな意味だった。
男性を夢中にさせるというくだりを除けば、「これは私のことだ」と思った。高校生の頃の話だ。
私は図書館にばかり通っている地味な学生だったけれど、学校にメイクをしてきて先生に目をつけられている生意気な同級生たちよりも、はるかに多くの化粧品を既に所持していた。そこには、大人でも買うのをためらうような高価なものも含まれた。
途中からそこに「女装願望」が加わった。
女として生まれたくせに女装願望というのはおかしな話だけれど、私は女になりたい。
世間に流布する女性性とは、フィクションの部分が多分にあるように思える。人々の(とくに男性の)理想を詰め込んだ架空の誰か。ちょうど女性が男性に、「男性性」という名のたくましさとか紳士性を求めるようにして、男性もまた我々女性に勝手な妄想を投げ込んでくる。
だから、世間のイメージに負けずに自分らしさを追求したいとか、そんな立派なことが言いたいのではまったくない。逆だ。
情けないことだけれど、私はその「作られた女性像」に過剰な憧れを抱いている。
しかも、できるだけわかりやすい偶像がいい。マリリンモンローとか、ブリジットバルドーとか、いわゆる「セックスシンボル」と呼ばれるような女性像。
たとえば「愛され」とか「モテ」を意識するなら、昨今この路線はイマイチだ。濃厚すぎる女性性を、親しみやすさで中和する必要がある。私の理想と、時代が求める理想の間に誤差があることも、わかっている。
しかし私は、どうしてもコテコテの女に憧れる。近寄り難いと言われようが、やりすぎだと同性から陰口を叩かれようが、私の好きな塩顔男子とは真逆の、在日アラブ人男性にばかり言い寄られようが(実話)、誰になんと言われても「いかにも女っぽい女」になりたい。
それは、同じ性別を持っていながらも、自分とはまったくべつの生き物だ。
やわらかくて、いい匂いがして、謎めいていていながら挑発的で、思わず触りたくなるのに、同時にとても触れがたい生き物。そういう者に私はなりたい。
なりたくてなりたくて、雨にも風にも夏の暑さにも負けずに美容情報の収集と実践に勤しんでいたら、いつのまにか、「美意識が高い」とか、「女子力が高い」と言われるようになった。
あまり関係の深くない知人などからは、特にそんなイメージを持たれることが多い。いつも指先までぬかりなくメイクをしていて、美容方法やアイテムに詳しい人。
しかし私は、そう言われるたびに心の中で懺悔する。
ちがうんだ。あなたが思っているような美しいものでは決してない。
私はただのオタクで、女のくせに女になりたがっている変態で、要するに化粧品と美容の奴隷なんです……。
美しくなれば幸せになれるわけではない。
さらに、化粧品をたくさん持っていれば美しくなれるわけでもない。
でも私は、モノとしての化粧品に対して、また外見を繕うということに対して、正体不明の情熱をこれからも持って生きてゆく。
思うにそれは、結果がどうこうというより、情熱が正しく情熱であるということに価値が宿るのだ。
母が指摘したように、同じ効果を得るだけなら、単に「きれいな人」と他人に思わせるためだけなら、もっとコストパフォーマンスの良い方法はいくらでもある。
しかし、それではつまらない。その過程で、どうしても欲しいものがある。それが、「ときめき」と「興奮」なのだ。
それを見つけるために、私は今日も伊勢丹新宿本店の1階フロアを徘徊する。
用があると言えばあるし、無いと言えばない。
それもそのはずだ。
私はここではただ、高揚の気配をあてどなく探し求める一匹の亡霊なのだから。
❏ライタープロフィール
水峰愛(Mizumine Ai)
1984年鳥取県生まれ。2014年より東京在住。
化粧とお酒と読書とベリーダンスが趣味の欲深い微熟女。欲深さの反動か、仏教思想にも興味を持つ。好きな言葉は「色即是空」
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