夫婦とは最小の社会《週刊READING LIFE Vol.38「社会と個人」》
記事:なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
ダイエットをしたことがあるだろうか。私はない。情けないことに無い。残業で夜遅く食べ親にボンレスハムと言われていたこともある。自分でも体が重くて嫌になるくらいだったこともある。私の場合、まず体が太ってその後に顔がむくむ流れだった。頬がパンと張って口内にお肉が余るからだろうか。話しながらその肉を時折噛むようになった。さすがにこれはいけない。口中を噛むのは痛い。体が太って、MサイズからLサイズ、更にはLLサイズと服のサイズがアップしてもまあ何とか服はある。可愛いものは皆無になるが着られるものはまあ何とかある。そして別段痛みは伴わない。それが顔が太ってきて口中を噛むとなると、痛みを伴う。それは避けたい。自分が嫌だ。ここまで来てやっと痩せなきゃという自覚が芽生える。
私は面倒なことが苦手だ。運動は好きだけど、食事制限をしてカロリーを計算したり記録を取ったりするのがかなり苦手だ。それは苦痛になる。口中を噛む苦痛も避けたいけど、精神的な苦痛も避けたい。私にとって苦痛が無いものは何だろうかと考えた。取りあえず運動だと思いジムの見学会に行った。面白かった。ダンスレッスン、ジム専用の運動用器具、これなら続けられるかもと入会した。ところが半年の間一回も行かなかった。仕事帰りに行く予定だったが、億劫になった。家から一駅の場所だから、会社帰りでも一駅乗り過ごせば行ける場所だから、と思っていたのに甘かった。自分の気力ゼロの時の状態を甘く見ていた。気力ゼロの時は何もやる気が起きない。脱力し何も手につかなくなる。一回も行かないままジムを解約した。
食べる制限もできない、運動もしない、いよいよまずい。このままでは食べることが大好きで大食いな私はぶくぶく際限なく太る一方だ。気力ゼロの時は気ばかり焦る。あれもこれもやらなきゃいけないことが山積みになって襲われるような感覚になり自分の焦りに溺れる。そんな時にダイエットの方法が色々耳に入ってきても、どうせ私は続かないし……と卑屈になる。やってみても結果が出なかったら、と怖さに怯え二の足を踏む。そんな時ダイエットはかなり個人差があると聞いた。私に合ったダイエットは存在するのだろうか。
太っている状態で昼食をしっかり食べると、午後に睡魔に襲われることが増えてきた。この睡魔はかなり危険だ。気力ゼロにも匹敵する。食事は腹八分目にとどめるのがいいと聞いたことがある。食べることが好きで抑えることができるのだろうか。不安がよぎりながらも、これはできないと言っている場合ではない。何しろ強敵睡魔を跳ねのけねばならない。腹八分目、どうしたら腹八分目にできるのだろうか。昼食は会社傍で食べたり買ってくるお弁当が主流だった。少し炭水化物を減らそうと、外ではご飯を少なめで注文し、お弁当は少し残すようにしてみた。本当は残したくない。作ってくれた人に申し訳ない。ご飯を少し残したところで何か変わるのだろうか。心苦しかった。そこで、当時はやり始めたコンビニのカップ春雨スープを飲んでみることにした。カップに乾燥春雨とカヤクが入っていて、お湯を注いで3分、カップラーメンと同じ作りだ。春雨は水を吸って膨らみ満腹感を得やすい食品で食べる量を抑えられる。指定の3分が経過した。つるつるっと食べる。あっという間に食べ終える。一緒に買った総菜パンも食べる。春雨スープはあまり美味しくなかった。春雨とカヤクとスープがバラバラで美味しくなかった。春雨は大量のオブラートを食べたような感覚だった。美味しいものが好きなので毎日の昼にこれは酷だと思った。それでも午後は少し体が楽だったので、次の日もコンビニに行った。
お湯を注いで3分。そうだ、総菜パンちょっと温めよう。会社にあったレンジを使いに席を立つ。再び席に戻ると、5分程経過していた。しまった、春雨置きっぱなしだ。慌てて蓋を開け春雨スープをかき混ぜる。心なしか昨日より春雨が太くなっている。置いた時間が長くなったからスープを吸って膨張したかな。つるつるっと食べてみる。
あれ、美味しい。スープを吸って膨張して春雨が柔らかくなっている。これがカップラーメンだったら麺が伸びたという表現になる。ラーメンの麺は水を吸いすぎると歯ごたえが弱まり麺自体の味も消えて美味しくない。ところが春雨は、スープを吸ったことでスープの旨味が春雨に浸みこみカップの中が一体化した。昨日はあんなにバラバラだと思っていた同じスープとは思えない味に変わっていた。そうか、春雨自体が殆ど味のないものだからスープを吸うことで春雨も味がつくのだ。そして、スープを吸うことで麺も柔らかくなる。春雨は柔らかい方がスープとの一体感が生まれる。美味しいスープを吸った春雨はしっかり噛みしめたくなる。これなら続けられる。昼食はコンビニに通うようになった。
苦痛なく続けられた。美味しく続けられた。そうして気づいたら、1か月毎日春雨スープと総菜パンや菓子パンの組み合わせの昼食になっていた。その量が私にとって腹八分目と続けるうちに気が付いた。腹八分目にしたことで、満腹になった時のお腹の苦しさから解放され午後も腰軽く動けるようになった。更には昼食を腹八分目にしたことで、胃が少し縮んだのか夜も食べる量が減った。そうして、睡魔対策に始めた春雨スープのおかげで頬の肉が取れて口中を噛まなくなった。お腹周りも徐々にすっきりしていった。ダイエットは副産物だった。私には日常に取り入れることがダイエットにも繋がるんだ、と気が付いた。
ならば、日常を見直してみよう。ある番組で歩き方を工夫すると腰回りも引き締められると聞いた。靴の裏側を見る。両足ともかかと付近の外側がすり減っている。これはがに股であることを意味する。がに股の人はお腹を突き出してだらだら歩くからカロリーを消費しない。まっすぐ前に伸びる線の上を歩くように、頭のてっぺんが糸で吊るされているように姿勢正して歩くのよ。かつてバレエを習っていた時によく言われていたことだ。忘れていた。久々にお尻をきゅっと引き締め姿勢を伸ばしまっすぐ歩いてみる。ほんの数歩で疲れた。
まだアラサーの時の話だ。その歳でこれでは先が思いやられる。通勤時に練習を始めた。疲れない程度に、少しずつ自分の限界を伸ばした。徐々にやったことでこれも苦痛なく歩く距離が伸ばせたことが嬉しさに繋がった。そして10年ほど経ち今ではそれが普通になって生活に溶け込んでいる。私にとって運動を生活に溶け込ませることが大事だった。何かをしながらついでに運動を兼ねることが必要だった。
そんな独身時代を経て結婚した。夫は少し丸みのある人だった。結婚後夫は更に大きくなった。お腹に子供が……なんて言葉を言いたくなるような体形になった。痩せなきゃと言いながら、ご飯を食べるとソファに寄り掛かる。そんなんで痩せるわけないじゃん。太っていたことがあるだけに内心毒づくこともあった。せめてご飯食べた後30分くらいは姿勢正して座るとかすればいいのに。これ以上大きくなるとちょっと体調が心配だった。
そこで、「レンジで1分温める時にストレッチね」と無理やり腕回しなどを一緒にやってみたりした。「外を歩く時は、信号機から信号機の間まででいいから軽くお腹を引っ込めて歩いてみてね」と言った。夫はあまりいい顔をしないながらもたまに思い出したかのようにやってくれたみたいだった。何の効果もなさそうだった。どうしたらいいか、食事から炭水化物を減らして野菜を多めにするようにした。それでもあまり効果はなかった。もっと日常に取り入れてくれたらいいのに。食事を変えるのだって限界がある。本人が意識してくれなければ難しい。体が重くて疲れるのかため息が多い。私もそうだった。太っていると歩く時に全身に負荷がかかるから疲れやすい。すぐに座りたくなる。自分がそうだったから何かいい方法がないかなと考えた。
ある時夫がジムに行くと言い出した。そして通い始めた。週に一回3時間ほど通う。それでもあまり効果はなさそうだった。だから日常のながら運動やったらいいのに、なんでわかってくれないんだろう、と夫にぶつけてみた。「なんで取りいれてくれないの」と直球で聞いてみた。「ほんとはジムにもっと行きたい。行っていいの?」ああ、そうだったのか。「私は歯磨きしながら、かかと上げとか、そういう隙間運動がやりやすいけど、ジムに行くほうがいいの?」「メリハリつけたい」考え方が全く違っていた。家に帰ると常にソファにいるから運動したくないのかと思っていた。そうではなかった。私は隙間時間を生かすことが苦痛なくできることに対し夫はしっかり枠を設けて何をやっているかを明確に決めたかったのだ。
独身時代、私は個人で選択し、物事を決めて自分なりの成果を出してきた。だから結婚して夫となる人にもそのやり方が良かったことを伝えたくなる。伝えて、やってみたら効果があるよと話したくなる。でもそれは、私が様々なダイエット法を聞いてもできなかったこと、やらなかったことと同じだ。「これをやったら効果あったよ」は個人の感想でしかない。たまたまそのやり方が私には苦痛なく結果続けられただけのことだ。夫はルーティンを作って物事をこなす性格で、ながら運動のようなやり方は苦痛の部類なのかもしれない。危うく私は自分が避けてきた苦痛を夫に強いるところだった。結婚して夫婦になると、考え方の違いに驚くことがある。自分にとって新しい考えを聞き、知らなかったことを知り世界が広がることもある。そんな時夫婦とは最小の社会だなと思う。考えの違う者たちが、いかにそのお互いを知ってわかっていくか。日々それを積み重ねていくことが家族という社会を形成するには必要なことだ。
そのことに気づいたおかげで、個人としての自分の時間と夫の時間は分けて考えなければいけないと思った。個人として各々が自分の時間を持つ。その時間に満足していれば心にゆとりが生まれる。夫婦が一緒にいる時間、すなわち社会となった時もお互いの考えを尊重できるようになる。時には意見が違うこともある。それでも個人の時間が充実していれば、なぜその考えを持つのかを真剣に耳を傾けることができるようになる。個人と社会、一見別々のものに見えるが、実は繋がっていると思う。
◻︎ライタープロフィール
なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
東京都在住。2018年2月から天狼院のライティング・ゼミに通い始める。更にプロフェッショナル・ゼミを経てライターズ倶楽部に参加。書いた記事への「元気になった」「興味を持った」という声が嬉しくて書き続けている。
http://tenro-in.com/zemi/86808