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月夜の海で《週刊READING LIFE Vol.77「船と海」》


記事:谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
2019年10月12日19時30分。
その時、私は避難所にいた。
 
雨は相変わらず、恐ろしいほどの勢いで降り続いていた。
移動中に、体はびっしょりと濡れた。
配布された毛布にグルグルとくるまっても、震えが止まらない。
 
我が家に消防士さんがやってきて、避難を促されたのは、10分ほど前のことだ。
「近くの川は、もう堤防まで10cmもありません。早く、避難所へ!」
 
避難警報が発令されていたことは知っていた。
避難しようかともちろん考えてはいたが、窓から近所を覗くと、どの家も明かりがついている。まだ、大丈夫だと思ってしまった。
今考えると、近所で平屋の家は我が家ぐらいだ。
みんな、とうに2階へ避難をしていたのだろう。
 
慌ててリュックを抱えて、避難所である近所の小学校の体育館へ車を走らせる。
小学校までは、途中、アンダーと呼ばれる高速道路下の地盤の低いトンネルをくぐる。
アンダーには、すでに20cmほどの水が溜まっていた。
 
避難所へ着くと、10組程度の家族が避難をしていた。
受付を済ませると、毛布2枚と水と乾パンが配給される。
ご高齢のお母様と息子さんの親子、小さな子供連れのご夫婦、年齢も家族構成も様々だったが、一人きりでの避難は、私だけのようだった。
受付近くの壁際に、毛布を敷いた。
 
携帯電話の緊急速報は、20分ごとに鳴っていた。
無数にある携帯電話が、一斉にアラーム音を鳴らし、体育館中にこだまする。
速報は、その都度、異なる川の氾濫を伝えていた。
不安を、極度に煽られた。
ああ、我が家は大丈夫だろうか?
 
20時10分。
5度目の緊急速報が、携帯を鳴らした。
「河川氾濫発生
警戒レベル5 命を守る最善の行動を
発生内容:駐在所付近に災害発生情報発令
理由:右岸から水があふれたため」
うちの近くの情報だ。
胸のあたりが、ギュッと締め付けられた。
 
どのくらいの、水が出たのだろう。
うちは大丈夫だろうか。
いてもたってもいられないが、こんな片田舎のローカル情報、ニュースでも取り上げられやしない。
ただひたすら、雨が止むのを待つしかなかった。
 
22時近くなっても、雨は激しいままだった。
そんな中、体育館の窓に人だかりができた。
何かと思い見に行くと、駐車場になっている校庭が、すっかり冠水している。
すでに止めてある車は、どれもタイヤの半分ほどが水に浸かっていた。
 
慌てて、車を移動しに外へ出た。
校庭に足を踏み出してすぐ、長靴は水の中にとっぷりと沈んだ。
重たい長靴で、車に乗り込みエンジンボタンを押す。
 
ゴボゴボと聞き慣れない音がなる。
一瞬、間があき、エンジンはかかった。
よかった。胸を撫で下ろす。
そろそろと、体育館近くの高台へ車を移動した。
うちより川から離れた、この場所でこんなに水が出るなんて。
うちは、どうなってしまうのだろう。
 
徐々に、風が強くなってきた。
体育館に、ゴウゴウという風の音が響く。
すっかり濡れた足元は、ホッカイロを貼ってもあったまってはくれなかった。
横になり、眠る人も増えていたが、寒くて不安でちっとも眠気はやってこなかった。
 
雨が上がったのは、午前0時を回ってからだった。
風は、まだ少し吹いていたが、校庭の水は少しずつ引きはじめていた。
やはり、眠る気には慣れなかった。
 
1:30。
風もすっかりおさまった。
自宅に帰ることに決めた。
係の人に話をして、書類にサインをした。
 
外に出ると、大きな月が出ていた。
校庭には、まだ一面に水が張っている。
月明かりで、夜だとは思えないほど明るかった。
揺れる水面が、キラキラと光る。
 
ゆっくりと車を走らせた。
道路は、校庭以上に水が多く、まるで川のようだった。
これでは、アンダーはまだ冠水しているだろうと、迂回のため、自宅とは反対方向へと走る。
 
たっぷりの水で、道路とその両側の田んぼの境がわからない。
見渡す限りが水であふれていた。
 
車を走らせながら、海のようだと思った。
月夜の大海原に、船を走らせることを想像する。
この世のものとは思えぬほど美しい情景だ。
けれども、今にも飲み込まれそうなほど深い危険が、ぴったりと背中に迫っている気がした。
 
ああ、無事に帰れるだろうか。
気がつくと、ハンドルを持つ手が小刻みに震えていた。
 
自宅が見えてきたのは、午前2時だ。
通常5分の道のりを4倍以上の時間をかけて帰ってきたらしい。
あと、もう少しと思い、アクセルを強く踏み込みかけて、慌ててやめた。
 
目の前の道路が、赤いビニルテープで通行止めになっていた。
目を凝らすと、テープの先は、今までの道路の比じゃないほどに深く水が溜まっている。
 
私の家は、もう、すぐそこ。目と鼻のさきだ。
こんなに水が。家は、家は大丈夫だろうか。
大慌てで、車をバックさせて、自宅の裏手へ迂回した。
 
道路に車を乗り捨てて、懐中電灯の明かりを頼りに、庭に足を踏み入れる。
ズブっと、長靴がくるぶしまでめり込む。
よく見えないが、水はなく、庭一面が柔らかい泥で覆われているようだった。
庭に泥? 心臓が、バクバクと高鳴る。
家の中は、家の中はどうなっているのだろう。
祈るように、出ていく前のいつもの室内の様子を強くイメージした。
 
泥に足を取られないよう、そろそろと玄関へ回る。
扉のガラスに、懐中電灯を当てると、室内に何か黒い大きな塊が、横たわっている。
内臓全てが、グッと押し潰される気がした。
 
震える手で、鍵をあけ、扉を引く。
 
「ダメだったか……」
 
横たわっていたのは、下足入れだった。
そして、その周り、見渡す限りが、泥にまみれていた。
床一面、机、ベッド、本棚、衣装ケース、とにかく全てが、しっとりとしたチョコレート色の泥に覆われていた。
 
長靴のまま、室内に上がり、部屋を一つ一つ確認した。
結局、浴室に、トイレ、寝室、キッチン、リビング、とにかくほとんどの部屋がとっぷりと泥の中に沈んでいた。
 
唯一、和室だけが、難を逃れたのは、不幸中の幸いだった。
ウレタン製の畳を使用していた。
おそらく、それが水に浮いたのだろう。
長靴を脱いで、腰をおろす。
 
どっと、体の力が抜けた。
これからのことは、ちっとも見当がつかなかった。
それでも、家がどうなったかと気を揉む必要はなくなった。
 
正直、次の日からのことは、もうよく覚えていない。
どんな片付けをして、どこで寝て、誰が手伝いにきてくれて、それがいつで、どのくらい続いたのか。
保険のことに、ゴミのこと、壊れた家電に、湿った畳。
とにかく一人では乗り越えられないほどやることは、たくさんあったはずだった。
断片的に思い出せるけど、どこか霞がかかって、遠い昔、いや、フィクションの出来事だとすら感じてしまう。
「台風19号 床上浸水」という被災証明書が届いた時、それらの記憶を一緒に引き出しの中にしまってしまったのかもしれない。
 
詳細な記憶はないが、たくさんの人に助けてもらったことはよく覚えている。あの時は、まわりも本当に大変な時で、私なんか被害がまだまだ小さかったのに、たくさんの人がきてくれた。
片付けのために、おそらく一週間近く眠れない日々があったような気がする。
着替えがないから、ほとんど毎日同じ服を着て。
それでも、食べ物は、途切れること無くあふれていた。
毎日毎日、誰かが、美味しいご飯を運んできてくれていた。
おにぎりに、あったかい味噌汁、甘い菓子パン。
ちょっと、今、思い出すだけでも涙があふれてくる。
 
もし、時空を超えて、時間を行き来することができるなら、あの夜の私に伝えたい。
あの月夜の海を走っていた私に。
 
あなたは、明日から、たくさんの助けを受け取る。
それは、途方もない助けだ。友情だ。愛だ。
こんな嬉しい経験は、二度とない。
 
そのことは、これからの大きな支えになる。
私には、私を助けてくれる人がいる。
私を、愛してくれる人がいる。
困った時に、大きく背中を押してくれる。
ただの、何でもない日常が、幸せであると感じられる。
一人で過ごしていても、一人ではないと信じられるようになる。
 
今まで、無意識に、自分は支える側の人間だなんて、偉そうに思ってきただろう。
自分の足で立っている。
自分は、一人前の人間だなんて思っていただろう。
違う、それは間違っている。
あなたは、支えられている。
たくさんの人に、背中を押されて、生きている。
 
だから、怖がることは何もない。
家を失おうとも、お金が無くなろうとも、仲間がいる。
愛がある。
この夜は、大きな祝福だ。
必ず、元の生活は帰ってくる。
たくさんの人に支えられて。
恥ずかしいことなど、何もない。
もらった愛は、しっかり受け取り、次に、あなたが支えればいい。
 
そして、いつも愛されていることを忘れないように。
支えられている自分を忘れないように。
あのたくさんの食べ物のことを忘れないように。
 
私は、いつでも、この、月夜の海へ帰ってこよう。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
谷中田千恵(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

1982年栃木県生まれ。
2019年より半径3メートルの世界を綴りたいと、書くことを学び始める。
好きな言葉は、食う寝るところに住むところ。

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2020-04-27 | Posted in 記事, 週刊READING LIFE vol.77

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