出してからおいで

本気のつもりだった、本気を間違えてた《出してからおいで大賞》


記事:なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

やっぱり無理だ。大好きなのに無理だ。大好きだからちゃんとしたい。ちゃんと言葉を覚えて話したい。ちゃんと動きたい。私は焦燥に駆られていた。参加すればするほど自分は場違いなのではないかと、自分の立ち位置では何も言えないとどんどん閉じこもってしまった。
 
私は演劇が大好きだ。きっかけは小学校の高学年で放課後に行われるクラブ活動だった。顧問の先生がかなりの指導をする方だった。柔軟運動に始まり、身体ぐにゃぐにゃ運動、まっすぐ背筋を伸ばす、パントマイム、発声。どれもやったことが無いものばかりだった。私は幼稚園から姿勢を良くするためにバレエを週に1回習っていた。ところが小学校の高学年になっても体がとても固くひどいものだった。柔軟運動の一つで座って180度に足を広げるものがあったが全くできず90度で悲鳴を上げていた。そんなコチコチの私が苦労したのがぐにゃぐにゃ運動。ぐにゃぐにゃ運動とは立った状態で少しずつ力を抜いていくものだ。始めに頭から力を抜く、頭を垂れる形になる。次に肩。片方ずつ力を抜いていく。右、左。腕が前にだらんと下がり前かがみになる。上半身は重くて支えられない。そうやって足まで力を抜く。それが中々できなかった。ロボットの様に硬い動きになってしまう。動きはぎこちなかったが声を出すのは楽しかった。クラブ活動は4年生から始まり1年ごとに変えられるが、6年生まで3年間演劇部だった。
 
演劇の楽しさが忘れられず高校の時も演劇部に入った。顧問は記憶にないが、先輩がかなり気合の入った方だった。発声練習や演技指導がかなり本格的で厳しかった。文化祭である劇団の創作劇の脚本を使って舞台をやることになった。私はシェイクスピア好きの青年の役だった。高身長の私にぴったりの役だと先輩は思ったのだろう。私は可愛い女性の役がやりたかったのに。女性の役もあったがそれはとても可愛らしい先輩が演じることになった。シェイクスピア好きの青年……、シェイクスピアを良く知らない。台本の中にロミオが毒を飲んで死ぬシーンがあった。かなりの長い台詞だった。長いうえに普段使わない独特な言葉遣いである。覚えるだけでいっぱいいっぱいだった。
 
なんとかその長い台詞を覚えて、台詞に合った動きを考える段階になった。大好きな女性の死を悲しんで自分も毒を飲んで死ぬ、なんて自分の生活に存在しないもの、経験をしたことが無いものだ。経験したことがなくてもその彼の気持ちを代弁したように動かなくてはならない。そして体育館の舞台で行う。小さな動きでは体育館の舞台から遠くの観客まで見えないし、何も観客に伝わらない。「毒を飲んで死ぬんだよ!? そんな動きじゃないでしょ!」部活の時間になるとそんな怒号が飛んだ。私はここでも体が硬くしなやかに自然な動きにならなかった。夏休みも毎日練習は続いた。秋の文化祭では初めてのファンができた。「かっこよかったです!」と言われ初見の後輩から手紙をもらった時には驚いた。こんな私でもちゃんと部活のメンバーの役に立ったんだと嬉しくなった。もっと部活を頑張りたいと思った矢先に、親から部活禁止令が出て泣く泣く退部した。演劇部にのめり込みすぎて成績がガタ落ちしたのだから仕方がなかった。結局1年しかやれなかった。
 
それから早20数年。もう演劇をやることはないだろうな、と思っていた時のことだ。天狼院書店という書店が行うゼミで演劇の授業が行われることになった。その書店は池袋にある。カフェが併設された書店だ。以前、夫が気に入ってるお店として連れて行ってもらったことがある書店だった。夫に許可をもらいそのゼミに通うことにした。ゼミは演劇を通してコミュニケーションを学ぶというものだった。演劇は大好きだけどコミュニケーションがそんなに得意でない。心配にはなったが演劇をまたやれるという気持ちの方が勝った。
 
ゼミ初回。自己紹介を行い講師が書いた脚本を使い、適当に配役され読み合わせが行われた。台本を読みながら役になってめいっぱい声を出せる、それだけで嬉しかった楽しかった。このゼミは毎週水曜日に3ヶ月間で、最終目標は1本の劇を完成させ発表会も行うものだった。数回後に本番用の配役が行われた。その配役は講師が受講生の話し方や想いなどを汲みつつのものだったが、誰もがいつもの自分とは異なっていた。「あなたはこういう性格だと思うからこの役にした」と講師から全員に話があった。普段とは違う役、私の役は自信に満ちて主役を惑わす魔女の役だった。魔女はあと2人いて三姉妹と言う設定だった。私は長女の役だった。私は三姉妹だった。そして長女だ。だからリンクするところはたくさんある。だからその部分ではやりやすい。でも自信に満ちてはいなかった。むしろ自分は駄目だと思う方が強かった。そんな私が自信に満ちた役なんて無理だと思った。それでもその配役で決定だ、なんとかその性格を掴まなくてはいけないと思った。
 
私の役は台詞量はそんなに多くなかった。それでも中々覚えられなかった。自分が出るシーンの台詞を一緒に出る役者の分も一緒に何度も声に出して通して読んだ。そのシーンの台詞を書いたりもした。でも中々覚えられなかった。ゼミは毎週ある。とにかく台詞を覚えて土台を築かなくてはと焦った。中々頭に入らないと苛々もつのった。そんな中、周りの他の受講生は着々と自分の役を作っていく。私はだんだん水曜日が怖くなった。とにかく台詞を覚えなくては次の段階に進めない。高校の時の経験からそう思った。体が硬く動きがとかくぎこちなくなるのでそう思った。台詞を覚えても動きが良くないと失敗だと思った。
 
くり返すがこのゼミはコミュニケーションを学ぶためのゼミである。私は好きな演劇を通してコミュニケーションを学ぶために参加したはずだ。それなのに自分が台詞を覚えられないせいで失敗したら、という考えばかり浮かび他の受講生と交流が図れなかった。それどころか通し稽古を行う時に間違えたくないと、頭で台詞の反芻ばかりして、殆ど話せなくなった。「ゼミはリハーサル。リハは失敗するためにあるんだからねー」と講師は数回言ってくれていた。頭ではわかっていたつもりだった。でもリハーサルで間違えたら情けない、自己紹介で演劇やったことがあると言っているだけに恥ずかしい、そんな想いがグルグルしていた。「来週までにこのシーンの台詞を覚えてなかったら、少しその人の台詞量を削るかもー」とも講師は言った。台詞を削られたら情けない。私はここでも情けないという想いが先行した。とてもコミュニケーションに到達しそうになかった。
 
それでも何とか台詞が頭に定着してきた。何度も読むことでこの台詞の時の動きはこっちの方がいいかも、と毎週の様に動き方を変えていった。定着してきたのはあとゼミが3回で発表会を迎えるという切羽詰まった状況だった。動きはまだまだぎこちない。もっとしなやかに動きたい。シャンとしてかっこよくしたい。やはり自分にばかり矢印が向かい他の受講生との交流は図れなかった。時折声を掛けてくれる受講生がいた。とても嬉しかった。だから私も何かしたかった。この演劇を作り上げるために何かしたかった。でもこんな中途半端な私が声を掛けても迷惑になる、となにも声を掛けられなかった。本当は舞台を良くするために話し合っている受講生が眩しかった。その中に入りたかった。でも自分でいっぱいいっぱいだった。発表が終わった、ゼミが終わった今だからわかる。渦中にいると周りが見えなくなる人間だったんだ私は。
 
魔女三女が早々に台詞を覚え動きも工夫して楽しそうに演じていた。輝いていた。魔女次女が役の性格を把握し、ブレない動きをした。かっこよかった。魔女長女である私は講師から「長女だからリーダーね。二人をまとめてね」と言われていたが、リーダーなんて器じゃない、台詞ごとに動きが変わり統一感がない、面白さもない私がリーダーなんておこがましい。やっぱりここでも同じチームのはずなのに入れなかった。自分から声を掛けることができなかった。
 
そんなこんなで発表日を迎えた。衣装や小物を自分たちで用意して本番まであと少しとなった時だった。講師から「さあ本番! 今まで頑張ったものを出す。そして、この役は今日で終わり。もうできないんだよ。だから悔いのないようにね!」という言葉があった。この役は今日で終わり、そうだ、今日でもうこの役をやれることはないんだ。今日出し切らなかったら後悔する。明日はないんだ。とにかく魔女になり切って私が舞台を台無しにしない様にしよう、その一心で演じだ。演じたというより、魔女が自分に降りてきたような不思議な感覚での舞台だった。台詞が当たり前の様に頭に用意されていて、スルスル出てきた。一緒に舞台に立っていた魔女姉妹の顔もよく見えた。リハーサル中は台詞の順番を辿るのに必死で、言葉を聞くのに必死だったし足もガクガク震えていた。言葉も震えていた。本番は震えは一切なかった。
 
みんな一生懸命演じ、舞台は大成功に終わった。そのあと打ち上げがあったが、私はまだ終わった感覚がなくふわっとしたなんとも言えない気持ちだった。とにかくちゃんと終われたんだ。帰ったらバタンキューで爆睡した。
 
このゼミではSNSにゼミ限定のグループが作られるが、翌日その中に早速感想が投稿された。どれも心に響く素敵な内容だった。この投稿を読んで、終わったんだ、もうあの水曜日はないんだ、もうみんなに会えないんだ、という気持ちが急に湧いてきた。急に寂しくなった。私はあの中で何をできたのだろう。私は全力投球できていたのだろうか。自分が台詞が覚えられない、そんなことばかりに固執して折角出会えた仲間とのコミュニケーションが完全におろそかになっていたのではないだろうか。投稿の中には「またみんなで会いましょうね」「忘年会やろうね」といった次につながる嬉しい言葉もあった。またみんなに会える嬉しい、一つのものを仲間と作り上げるってこんなにも結束力が生まれるものだったんだ。
 
私は自分に固執した。自分が上手く演じられることに固執した。今回のゼミは1つの演劇を完成させるためにどういうコミュニケーションが必要かを学ぶものだった。演技の中でも求められるコミュニケーションとは、発表日までに自分の役割を把握しそれを元にみんなとのすり合わせを行うことだった。そのための手段として、相手にいかに言葉を投げかけるか、相手が反応しやすいように話し動くかが大事だと口を酸っぱく講師から言われた。相手が反応しやすいように、パスをスムーズに繋ぐように。これの連続で演劇は成り立つ。自分が他より遅れをとってしまった場合は、台詞を減らしてでも自分の役割を全うする、それを学ぶものだったんだ。それが私には見えていなかった。当日まで見えていなかった。演劇を作るにあたり本気を出すということはそういうことだ。本気とは、自分が一生懸命になるだけでは駄目で、ちゃんと周りを見て一緒にひとつのものを作り上げるために何かをするということなんだ。仲間と足並み揃えていく、そのための話し合いはしていかないと駄目で、それがコミュニケーションなんだ。
 
強烈な空しさを覚えた。次にみんなに会えてもそれはあの時とはまた違った時間だ。一つのものを一緒に作り上げた、言うなれば一つのプロジェクトを完成させたあの心の高まりを共有した瞬間とは違う時間だ。完成した瞬間からまた違ったプロジェクトに向かって個々で歩き出す。それは応援すべきことだ。時間の流れは止まらない。だからこそ、今関わっているプロジェクトに邁進しなければならないのだろう。完成した瞬間を心から喜べるために、楽しめるために、やって良かったと思えるためにやっていくのだろう。演劇だけではない、これは仕事でも、日常生活でも大事なことだと心から感じた。
 
また新しい演劇のゼミが始まる。私はこの経験を活かして、次の演劇のゼミに臨みたいと思っている。本気出してからおいで、今回のゼミは本気とはどういうものかを体験させてもらえる素晴らしい時間となった。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
なつき(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

東京都在住。2018年2月から天狼院のライティング・ゼミに通い始める。更にプロフェッショナル・ゼミを経てライターズ倶楽部に参加。書いた記事への「元気になった」「興味を持った」という声が嬉しくて書き続けている。


 


2019-10-28 | Posted in 出してからおいで

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