京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜

【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第三話 夢を追いたくて就職に悩むあなたへ 前編≪もえりの心スケッチ手帳≫


文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)

香穂の失恋の悩みを聞いてから3週間が経った。
彼女はあれから一度店に来ただけだが、LINEの連絡先を交換していたため、最近ではよく夜寝る前に彼女からLINEが来る。
なんでも先日彼女におすすめした『さよならをするために』の著者、唯川恵先生にハマったらしく、どの本がおすすめだとか、いまいちだったとか、逐一報告してくるのが可愛い。もちろん私も唯川さんの小説は大好きなので、ひとたび彼女が本の話を始めると、私もいちいち口出ししたくなるのだ。これだからブックトークは飽きない。

『もう、元気になった?』
昨晩、いつものように彼女と唯川作品トークをしたあと、そう訊いてみた。
初めて彼女が京都天狼院書店に来て、泣いていた日。
「この本すごいです!」と笑って教えてくれた日。
あれから少しでも、心境の変化はあったのだろうか。
『はい。まだやっぱり、彼のことを思い出すことはありますけど、だんだんと思い出す時間が短くなった気がします』
『そっか。きっといつか、押し花みたいな思い出になるよ』
『押し花、ですか?』
『うん。思い出は美化されるって言うじゃん。今は幸せだったり悲しかったりする思い出も、時間が経てば“ああ、楽しかったな”って、ただそれだけの思い出になるの。ちょっと色褪せちゃうけど、綺麗な形をした花びらのまま、胸にしまっておけばいい……と、私は思う』
『なんだかもえりさん、詩人みたいですね!』
『なっ……』
きっと彼女が目の前にいたら、私の顔を見て精一杯笑っているのだろう。
私は時々自分が何か小っ恥ずかしいことを言って、よく指摘されて狼狽える。ああ、まったくもって恥ずかしい。
『と、とにかく早く良い思い出にしてね』
『はあい』
対面で話してるとそうでもないのだろうが、LINEのメッセージでやりとりすると妙に間の抜けた返事に聞こえた。まあ、たぶん彼女のことだし、きっと大丈夫だ。

店番をしながら香穂にエールを送る。
香穂だけじゃない。
サラリーマンの岡本もそうだが、ここで出会って仲良くなったお客さんたちには、皆それぞれ思い入れがある。香穂や岡本みたいに悩み事と一緒に訪れる人は稀で、普段は私の方がお客さんの色んな話を聞かせてもらって楽しんでいるのだ。
だからいつも思い出す。
コーヒーを淹れながら、ブックカバーをかけながら、バターチキンカレーを煮込みながら、新品の雑誌を出しながら。
あのお客さんは今頃何してるだろうって。
客足が少なく、比較的静かな木曜日の朝、営業の合間に休憩に来ていると言ったあの人は。
何かの雑誌を見て、京都天狼院まではるばる足を運んでくれたあの人は。
皆それぞれの生活を、忙しい毎日を、今日はどんな気持ちで送っているんだろう。

ガラガラガラ——

「いらっしゃいませ」

今日もきっと、ここに来るお客さんを、私はどうしようもなく覚えてしまうんだろう。

「こんにちはっ!」

扉が開いて、いとけない声、それでいてとても元気の良い挨拶が、カウンターに立つ私の元までまっすぐに飛んできた。

「こんにちは」

私が挨拶すると、小さなお客さんはにんまり笑って「おばあちゃん、こっち!」と後ろにいる70歳ぐらいのおばあさんの手を握ってとてとて歩く。
6,7歳ぐらいだろうか。
栗色の髪をした可愛らしい女の子と、少女の祖母と思われるおばあさんが物珍しそうに店内を見回した。
「千絵ちゃん千絵ちゃん、欲しい本があったらばあちゃんが買ってやるよ」
「うーん、これ!」
千絵と呼ばれた少女が、店の入り口に近い「新刊コーナー」から、しろくまの絵が描かれた絵本を指差した。私も読んだことはないが、しろくまが美味しそうなご飯に変身している。え、訳が分からないって? 如何せんこれが一番簡潔な説明なので許してほしい。紙イラストがそういう絵なのだ。お茶碗の中にしろくま。しろくまinお茶碗。もはや、しろくまがお米なのだろうか? お米=しろくま?
頭の中で、「しろくま」、「お米」、「お茶碗」がぐるぐる回転する。
そのうち、しろくまとお米とお茶碗以外のことが考えられなくなる。ああ、やめてくれ。お昼前でお腹が空いてるの!

「これくださいな」

私があまりにも不毛な妄想病に冒されてたとき、諸悪の根源の「しろくま絵本」がカウンターの上にひょっこりと現れて、「わっ」とたじろいでしまった。
「す、すみません」
見れば先ほどのおばあさんがお孫さんの手を引いて目の前に立っている。
「おいくらでしょうか」
「税込で1,404円です」
私がそう言うと、おばあさんさんががま口の小銭入れから折り畳まれた千円札と500円玉を取り出して、「これでお願いしますね」と私にお金を渡してくれる。
普段ならここで、「ブックカバーはお付けしますか?」と伺うのだが、いかんせんしろくまの絵本はカバーを掛けられないため省略する。ちなみに、天狼院書店のブックカバーは真っ黒い紙に、「天狼院書店」のロゴが入ったもので、多くの客さんから「かっこいい!」「素敵」「おしゃれ」とお褒めの言葉をいただく。もちろん私も、書店で使われる使い捨てのカバーの中では世界一おしゃれでかっこいいブックカバーだと思っている。

話はお会計の場面に戻る。私がブックカバーの代わりに、「袋はご入用ですか?」と聞いてみたところ、
「いえ、このままでいいんです」
とやんわりお断りされたため、私はそのまましろくま絵本をおばあさんに渡した。
彼女はすぐに、隣に立っていた可愛らしいお孫さん——千絵ちゃんにすぐさま本を手渡した。
「おばあちゃん、ありがとう」
花火はじけたように笑う千絵ちゃん。
大事そうに絵本を胸に抱えて、とたとたと出口の方まで駆けてゆく。
「ありがとうね」
おばあさんが私に向かって、控えめに頭を下げた。
お礼を言うのは私の方なのに、おばあさんとお孫さんの買い物風景にほっこり心が和らいでしまって、私は慌てて「ありがとうございますっ」と後から挨拶をした。
それにしても。
二人が店から出て行った後に、私の胸に、懐かしさがいっぱいにこみ上げてきた。
自分にもあったのだ。
むかしむかし、おばあちゃんと本を買いに行った思い出が。

***

私の祖母は、本が大好きな人だった。
祖母の家は実家からとても遠く、二年に一回会いに行けるかどうかだった。
海沿いの田舎町にある祖母の家に遊びに行くと、彼女が昔読んだ本が、茶色い本棚にずらりと並んでいる。大衆小説から近現代の文学作品まで。幼い頃はまだまだそういった本が読めなかったため、「大きくなったらあの棚の本をぜんぶ、読んでやるんだ」と密かに決意していたこともあった。

母も本好きではあったが、小説は私の方がたくさん読んだかもしれない。
母に、
「〇〇の本が好き」
と言うと、
「それ、おばあちゃんも言ってた」
と私と祖母の好みが合うことを教えてくれた。
それを聞いたらとても嬉しくて。
あんなにたくさんの本棚の中から、好きだと思う本が同じだなんて、奇跡とさえ思った。

それから祖母は、個人で「桜田書店」という本屋を営んでいた。
母も若い頃にそこで働いていたらしい。
それにしても、聞いてほしい。
まったくもって田舎は恐ろしいのだ。
祖母の家に滞在している間、私が「桜田書店」に遊びに行くと、その時に店内にいるお客さんに、「あら、桜田さんのお孫さんね」と声を掛けられることがしばしばあった。
大学受験を終え、無事に京大に合格したあと、久しぶりに訪れた桜田書店で、「聞いたわよ」とパートの店員さんに言われる。私が何のことかと、きょとんとしていると「京大ですって? すごいわね」と褒めてくれるのだ。しかも私はその店員さんと面識がない。これが田舎の情報網の強さかと驚いたものだ。

「今日はね、この本だよ」
幼い頃、店番をする祖母の傍で私はいつもその言葉を待っていた。
田舎なのでお客さんがあまり来ない日が多く、そんな時は祖母が私に絵本を読んでくれるのだ。
くまさんがホットケーキを作る話。
イカとタコが砂浜に絵を描いて勝負する話。
いわずと知れた、はらぺこなあおむしさんの話。
タイトルは覚えてないものが多いけれど、どの物語も、幼かった私の心を揺さぶってくれた。独特なタッチのイラストや、この先どうなるのか分からないストーリーに胸を躍らせた。

「ねえ、おばあちゃんが読んでる本を教えて」
ある日私が、店頭に立つ祖母にそう訊いた。頭の中では祖母の家のずっしりとした本棚が浮かんでいる。一冊でもいい。あの中にある本を読んでみたいと思っていた。
「大きくなったらね。もっと難しいご本も教えてあげる」
祖母はそう言うとにっこり微笑んで、私の頭を撫でてくれた。
私は今すぐにでもその「難しい本」を読みたいと思ったけれど、祖母がまだと言うなら仕方ない。やはり、大人になるのを待つしかないんだと納得した。

歳をとってからは祖母自身が店頭に立つことは少なかったが、一緒に本を買いに、桜田書店を訪れた。
「じゃあ、今日はこれを買ってあげる」
当時小学5年生だった私は、昔ほど本を読まなくなっていた。本が嫌いだったというわけではない。単に、本を読むこと以上に友達とおしゃべりしたり外で鬼ごっこをしたりする日々に夢中になっていたのだ。
そんな時期だったから、祖母に勧められた本も、最初はあまり読む気になれなかった。
「これ、何の本?」
「それは、読んでからのお楽しみよ」
祖母が渡してくれたのは、児童向けに刊行されている青い鳥文庫のとあるミステリー小説。
「『そして五人がいなくなる』……?」
その本は、はやみねかおるさんという作家さんの、『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズの一作目だった。
表紙に描かれた、よく似た三人の女の子。それから、スーツからサングラスまで全身黒で包まれた背の高い男性に目がいった。
「お客さんがね、子どもにおすすめって言ってたもんで」
どうやらおばあちゃんもその本は読んだことがないらしい。
それでも、今まで読んだことのなかったミステリーのジャンルに惹かれた私は『そして五人がいなくなる』を読むことにした。
理由はそれだけじゃない。
まだ小学生とはいえ、毎日の学校生活に少し嫌気がさしていたのだ。もちろん友達と遊ぶのは楽しい。でも、授業で発表したり、調べ学習をしたり、面倒なことが度重なって疲れていたのだ。
だからちょっと、現実逃避にまた本を読んでみようと。
そんな、軽い気持ちだった。

なんとういうことだ。
『そして五人がいなくなる』を読み終わった私は、興奮の渦に呑み込まれていた。
だってだって!
この本、本当に面白いんだもの!
一言でどう「面白いか」を表現するのは難しい。
でも、三つ子の主人公の女の子と、彼女らの家の隣に住む「教授」と呼ばれる名(迷)探偵のテンポのいい会話、不可思議な謎、普段はだらしがない教授が謎を解くときのかっこよさと言ったら!
加えて、この物語の最大の肝は、探偵の教授が「みんなの幸せのために」謎を解くところにある。
犯人を捕まえて警察に突き出すためでも、自分の名誉のために推理するのではない。
加害者や被害者がどうやったら幸せになるかを考えて謎を解く。
まさに、ヒーローそのものだった。
キャラ立ちといい、読みやすさといい、ストーリーといい、全てが私の好みにクリーンヒットしている。
「おばあちゃん、聞いて!」
あまりの面白さにすぐに読み終えてしまい、興奮状態のまま祖母に感想を語った。
「あらまあ、それは良かったわね」
優しく笑ったまま、捲し立てるように喋る私の話を聞いてくれた。
それから、この本を読んでいる時の心のざわめきを思い出していた。
とにかく先に進みたい、続きが読みたい。
ページをめくってめくって、物語の中の風景を思い浮かべるうちに、私は忘れていた。
学校での発表のこと、調べ学習のこと、時々友達と喧嘩してしまうこと。
現実で起こる、ちょっとした嫌な出来事すべてが、本を読んでいる時の楽しさの上では全く効力を発揮していなかった。それどころか、なんとなく「学校でもがんばれそう」とやる気が出てきた。
「いいなあ。私も、こんな物語を書いてみたい」
実際は口に出しはしなかった。
けれど、興奮気味に語る私と、私の話をいつまでも聞いてくれる祖母と、暗黙のうちに約束した。
私は、物語をつくって生きていきたいと——。

後編に続く

【第三話 前編 終】
 
 
 
 
 
 

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