【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第四話 人と上手く接することができないあなたへ 後編≪もえりの心スケッチ手帳≫
文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
「あなたには、分からないですっ……」
彼女はそう言って、店を出て行った。
「……」
一度は引き止めたものの、振り切って行ってしまった女子高生の宮脇沙子。
こたつテーブルの上に置き去りにされたカフェラテやワッフルの残骸を、放心状態で見つめることしかできない私。
「もえちゃん」
長いこと私が戻ってこないから、不審に思ったのだろう。
ふと、厨房から顔を出したナツさんに、空虚なままの自分の姿を晒してしまう。
「とりあえず、仕事に戻りましょう」
私と沙子とのいきさつを知ってか知らずか、ナツさんはいつも通り落ち着いた声色で私にそう声をかけた。
こういう時、私はナツさんが店長——いや、女将でよかったと思う。私がどんなに接客中に失敗したりミスしたりしても、常に冷静でいてくれるから。冷静でいて、見るべきところはきちんと見てくれているから。
「はい、すみません」
取り乱しそうなタイミングだからこそ、いつもと同じルーティンの仕事をして自分のペースを取り戻す。今の私にはそれがいちばん必要なんだと、ナツさんはきっと分かっている。
「いらっしゃいませ」
その後もいつも通り、コンスタントに訪れるお客さんの対応をしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。さすがは日曜日。ティータイムが過ぎてからもチラホラと、ちょうど良いぐらいのお客さんの波が押し寄せては引いていった。
しかし、どんなに接客に追われていようと、注文して届いた本を並べるのが大変だろうと、私の頭の片隅から離れない面影。
「あなたには分からない」と、私に対する拒絶の言葉を残して、行ってしまった彼女。
もう一度、話したいと思う。
謝りたい。
あんなふうに捲し立てるように迫ってしまったことを、謝りたかった。
けれどそれだって、もしかしたら自己満足かと思うと怖くなる。
悪いことをしたと思い、相手に謝ることは、ただ自分が罪の重さから解放されたいだけなんじゃないかって思う。
「悩んでるんなら打ち明けてよ」と言うことは、ただの高慢なんじゃないかって思う。
ヒーローになりたいから。ありがとうって言われたいから。自分なら聞いてあげられるとバカみたいに勘違いするイタイ人間。お前は何者なんだよって、罵りたくなるほどに、高慢で、尊大で、ダメな人間だ。
私は、ちっとも他人を思いやれない、ダメな人間だ——。
「もえちゃん!」
気づかなかった。
すぐ近くで、ナツさんが何度か私に呼びかけていたらしい。
何度も名前を呼ばれても、気づかなかった。
「な、ナツさん」
レジカウンターの前にアホみたいに突っ立っていた私は、すぐ後ろにいるナツさんを仰ぎ見る。ナツさんは背が高い。ふんわりと柔らかい雰囲気なのに、落ち着いていて仕事が早い。すごいなって思う。
いいなって思う。
ナツさんは、私の憧れだった。
「シフト、もう終わりだから上がっていいよ。お疲れさま」
ナツさんにそう言われて、私は「はい」と小さく頷きエプロンを脱いだ。何度も使われてくたびれたエプロン。仕事のできない私じゃ、到底上手く着こなせない。
棚からロッカーの鍵を取り出して、今日はもう帰ろうと荷物を取りにいこうとした時だった。
「もえちゃん、もういいよ」
不意に、ナツさんが私にそう言った。
「え?」
私は彼女の言う意味が分からずに、思わず立ち止まる。
もういいよ。
もう、仕事をしなくていいということだろうか。
それってつまり、クビってことかな。でも、確かに今日の私は注文ミスはするし、お客さんを怒らせて帰らせちゃうしで、ダメダメだった。だからきっとナツさんも、そんな私を見かねて「もういい」と言っているのだ。無理してここで働かなくてもいいと。
私は諦めていた。
ナツさんは私に失望したんだ。
接客業なのに上手く喋れないし、そもそも社交的でもない私は、この仕事には向いてなかったのかもしれない。
書店員にはなれても、“天狼院書店の店員”にはなれなかった。
そういう意味に違いない。
ナツさんの言葉の意味を勝手に解釈して、ひどく落胆したまま「はい」と再び小さく返事をして、荷物を取りにまた一歩踏み出した時だった。
「もえちゃん、もう、闘わなくていいよ」
予想外の言葉が、私の耳に響く。
「闘わなくていい。そんな必死にならなくていいよ。自分なりの方法で頑張ってくれれば」
それは、解放だった。
やって来るお客さんの話を聞いてあげなくてはならない。抱えている悩みを解決できるように、最後まで話を聞いて、寄り添って、伝えなくちゃいけない。
そう思うがあまり、他人の悩みを解決することに固執して空回りしていた私に、ナツさんがくれた解放。
「そんなふうに、自分を追い詰めなくていいんだよ」
背中越しに、ナツさんの優しい言葉を、解放の合言葉を受け止めて、思わず泣きそうになって鼻を啜った。ずずっと、情けない音が静かな空間に響き渡った。
「そうだ、これ!」
それからナツさんが、向き直った私に「はい」と一冊の本を差し出して。
「これ、前にもえちゃんが好きって言ってた本。入荷したの、この前」
そう言って差し出されたその本は、とても分厚くて重くて、でも表紙を見れば、その本に綴られた温かい物語が鮮やかに蘇ってくるような小説だった。
「ありがとう……ございます」
「この本、私も読んだの。『闘わなくていい』って言葉、この本の中で一番印象に残ってるから」
ナツさんがそう言うと、私はたまらなくなった。だって私も、同じだったから。
「奇遇ですね……。私も、その台詞が一番好きなんです」
ふふっと、嬉しくて私は笑う。こんなにページがたくさんあるのに、好きなシーンや台詞が誰かと同じだったとき。面白さを分かち合えたとき。いつもとても嬉しい。
「この小説、あの子に渡してみたら?」
「あの子って……宮脇さんに、ですか?」
「うん。まだこの近くにいるんじゃないかな」
「え? なんで分かるんですか」
「うーん、長年やってる“女将の勘”かなあ」
ナツさんが、誇らしげにそう言った。“長年”って、私とそんなに歳も変わらないはずなのに。と突っ込みたい気持ちを抑えて、私はナツさんの言葉を信じて、一冊の本を抱えて店を飛び出した。
あては全くないのだけれど、不思議なことに、本を持って歩いていれば、また彼女に会える気がしたから。
店から駅の方へ向かって早足で歩く。最寄駅の近くには、この間将来に悩んでいる増田大輝に本を渡した公園がある。私は公園までたどり着いたところで、その隣の建物の右の角を曲がろうとした。その時だった。
「わっ」
道を曲がったすぐそこに、彼女はいた。
突然の私の登場に、宮脇沙子はびっくりすると思っていたのに。
それなのに、彼女は私を見て驚きの声を上げることもなく、ただじっと私のことを見つめていた。その瞳が、小さく潤んでいる。泣いていたのだろうか。でも、彼女の頰に、涙が流れた跡はなかった。
そのうち、彼女が眉を下げ、強張っていた表情がゆっくりと溶けてゆくのが分かった。
不安で泣いていたんじゃない、安堵したのだと、この時知った。
「店員さん、どうして……」
「どうしてって聞きたいのは私の方なのですが……。とにかく謝りたくて」
私が高慢だったこと。
これまでいろんな人の悩みを聞いてきたという自負が、私をダメな人間にしてしまったこと。初対面の相手への謙虚さを失っていたこと。
さっきのお店でのやりとりを、許してほしいということ。
その全てを、彼女に打ち明けた。
「さっきは本当に、ごめんなさい! 私、あなたのこと大して知りもしないのに、偉そうなこと言いました。変わりたいとか変わりたくないとか、沙子さんはそんなこと、望んでないかもしれないのに……」
彼女は、本当は今のままでいいのかもしれない。
外見を派手にして、それで少なくともいじめがなくなって、満足しているのかもしれない。
その先を望んでいるかなんて、沙子の口から聞く以外、確かめようのないことではないか———。
「……」
彼女は黙っていた。あるいは、私の話がまだ終わっていないと思っているのかもしれない。
チャンスだと思い、私は胸に抱えていた本を、彼女の前に恐る恐る差し出した。
「もし……、もし、沙子さんが少しでも今悩んでることがあって、誰かに話したいけど話せない何かが心につっかえてるのなら、この本、どうかなって……。さっき女将が渡してくれたんです。『もう闘わなくていいよ』って言ってくれて。この本に出てくる、私の大好きな台詞なんです。だからきっと、沙子さんにも届くと思って——ううん、読んでほしい。変わりたいとか変わりたくないとか、そんなの抜きにして、私は沙子さんにこの本を読んでほしいんです。私の好きな物語を、好きになって欲しくて」
必死に今の自分の想いを口にしながら、私は手に持った辻村深月先生の『かがみの孤城』を差し出した。
本屋大賞もとって、天狼院の他のスタッフたちもみんなが大好きな作品。
大型書店に並んでいる時に気になって手に取ってみたものだ。あんなに大勢の本たちが並ぶ本屋さんで、『かがみの孤城』だけが輝いて見えたから。
「受け取って、くれますか……?」
怖かった。もう一度、彼女に拒絶されたらもう立ち直れないと思ったから。今までの人生でいじめを経験した彼女みたいに、私は人から拒絶される経験をほとんどしたことがなかった。だからこそ、これ以上拒否されたら、その時はどうすれば良いか分からなくなるだろう。
「あの、嬉しいです……。あたし、この本読んでみたいです」
「あなたには分からない」と放った時とは明らかに違う、柔らかい声がして、私はふっと彼女の顔を見た。
「ほ、本当に?」
「はい。実はさっきからずっと、お店に戻ろうか迷ってて……。感情的になって店員さんを困らせてしまったこと、謝りたかったから。だから、店員さんが追いかけてきてくれて、安心したの」
そうか。だから彼女は、こんな中途半端な道の途中で立ち止まっていたのか。早足で角を曲がり、ぶつかりそうになった私を見て安堵したように思われたのも、見間違いじゃなかった。
彼女は良い意味で、私の予想を裏切ってくれたのだ。
「『かがみの孤城』、読みます。あたし、本当は変わりたいから」
沙子はその分厚い本を、ぎゅっと胸に抱きしめて言った。
「店員さんが言ったように、あたし、本当はもっと変わりたいと思ってた。周りの派手な友達に合わせて髪型を派手にしても、なんにも上手くいかないって知ってた。いじめられなくなったって、人と関わるの、いまだに怖いんだもん。だから変わらなきゃって思ってた。でも、それを素直に認められなくて、あんなこと言っちゃって、ごめんなさいっ!」
なんということだろう。
謝りに来たのは、謝らなければならないのは私の方だったのに、いつのまにか立ち位置が逆転している。
彼女はぐっと頭を下げて、片手で本を持ち、もう片方の手でスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。その姿から、彼女がどれほど私に誠意を見せようとしているのかが分かった。
「あたし、さっきの言葉聞いて、はっとしました」
「さっきの言葉?」
「はい。『闘わなくていいよ』って台詞。心に響いたっていうの? でも、まだちゃんと理解できてない気がする。あたしにも、この本を読んだらその台詞の意味が分かるかな?」
「え、ええ! 分かる、きっと分かりますよ」
私はここぞとばかりに首を縦に振った。
沙子が、ふわりと笑みを浮かべるのを見て、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「そっか。じゃあ、読んでみる!」
女子高生らしい、素直で元気な返事をして、彼女は私が来た道をずんずん歩き出した。
「沙子さん、どこ行くんですか?」
「どこって、決まってるじゃん。お店だよ、京都天狼院。二階にも席あるよね? そこで読んでく。読み終わるまで帰らない」
まさか今日中に読んでくれるなんて思ってもみなかった私は、彼女の言葉に驚きつつも、とても嬉しくて泣きそうになった。
『かがみの孤城』はとても長い。500ページくらいある。それは見た目からしても判断できるくらいだ。だから、彼女が読み終わるのにはかなり時間がかかると思う。それでも、私は沙子がその物語を読み終えるまで、待っていようと思う。物語は、読み終わった直後の後味が、一番良いものだ。だからその時、誰かとその美味しさを語り合えたらとても楽しいということを知っていた。
どうか彼女にも、その楽しさを味わってほしい!
私たちは二人で京都天狼院書店に戻った。
「あら」
レジカウンターには、先ほど私がシフトを上がってから店番をしていたナツさんがいて、私たち二人の顔を見るとゆっくり微笑んだ。
「ただいま戻りました」
「おかえり〜」
ただいまと、おかえりと。
たったこれだけの会話だったけれど、沙子を連れ戻すことができた私に、ナツさんが「良かったね」と心の中で語りかけてくれるのが分かった。
思わず私も、「はい」と胸の奥で返事をした。ナツさんのおかげです。女将のおかげで、私は宮脇沙子という女の子に、自分の過ちを許してもらうことができたのだと、もう一度彼女に感謝して。
それから沙子は、「こっち?」と階段の方を指さして私にそう聞いた。
「はい、そちらからお上りください」
私がそう指示すると、彼女はどことなく軽快な足取りで、タンタンと木製の階段を踏み鳴らし、二階に上がった。
そして沙子は二階のカウンター席に座る。
「これ、読み終わるまでどうぞ」
私は彼女に、オリジナルブレンドコーヒーを差し出した。高校生でブラックは飲めないかもしれないと思い、ミルクと砂糖を添えて。
「ありがとう」
コーヒーと、それからミルクも砂糖も受け取った彼女は、早速『かがみの孤城』の表紙を開いて読み始めた。
私は彼女が座っているカウンター席の後ろにあるソファに腰掛けて、彼女と同じオリジナルブレンドを啜りながら、沙子が小説を読み終えるのを待った。ただ待つだけの時間なのに、店内を流れる心地よいBGMを聞いてコーヒーを飲んでいるだけで、私は心が安らいだし、全然退屈だとも思わなかった。
そこからおよそ3時間。
ぱたん、と音がして振り返った私は、沙子が閉じた表紙の上に右手をそっと添えているのを見た。
「終わった」
大切な誰かからの手紙を読んだ後みたいに、充足感に満ちた声色だった。
沙子は、読了した『かがみの孤城』を大事そうに胸に抱えて、私のいるソファまで歩み寄り、たった一言、こう言ったのだ。
「闘わなくていい。あたし、もう、闘わなくていいんだ」
他の誰でもない自分に言い聞かせるような言葉なのに、瞳だけは私の方をじっと見据えている。
「はい。もう、闘わなくて、いいんです」
学校で友達との関係が上手くいかなくて引きこもりになってしまった中学生の女の子、こころ。
そんな彼女はある日、部屋にある鏡の中に吸い込まれ、城があり、自由に過ごすことができる世界にたどり着く。
そこにいたのは、自分と同じくらいの歳の7人の子どもたち。
共通していたのは、みんなそれぞれの現実で、学校に行けずに生きづらさを抱えていたということ。
「沙子さんみたいに、ちょっとでも生きづらいなって感じてる人は、たくさんいると思うんです」
鏡の世界には、どこかに宝物が眠っている。
それを見つけることが7人のミッションなのだが、鏡の世界での交流を通して、子どもたちは時にぶつかり合い、時に励まし合って過ごしてゆく。しかし、そんな子どもたち一人一人の現実には、大人でも解決できないような苦しい出来事がいっぱいあって。
その一つ一つのエピソードに触れた時、読者である私たちも、胸をぎゅっと掴まれたように苦しくなることがある。
それは、誰もが身に覚えのある出来事だから。
学校でいじめられたという経験こそないにしても、久しぶりに行った大学のサークルで、みんなの会話の輪の中に入れなかったり。
体育の授業で二人組になってと言われて、自分のバディが見つからなかったり。
異国の地に一人で放浪しに行って、言葉が通じなくて孤独に陥ったり。
そんな、誰しも感じうる孤独感や寂しさがいっぱいに詰まったお話。
それだけでなく、登場人物たちの思わぬ関係が分かるラストには、感動せずにはいられない。
だからこそ、この物語を読んで欲しかったのだ。
きっと沙子ならばとても共感してくれるに違いないと思った。
それに。
「沙子さん」
「なに?」
「楽しかった、ですか? 『かがみの孤城』、私も女将も大好きなお話なんです。だから、ぜひ読んで欲しくて。だから、楽しんでくれたら嬉しいなって……」
彼女にそう聞いた時、本当は心臓がドキドキして止まらなかった。
「面白くなかった」って言われたらどうしようって思った。
でも。
「楽しかった! あたし、一冊の本を3時間で読み終わったことないもん」
年相応の明るい朗らかな声で彼女がそう言うのを聞いて、私は心からほっとした。
彼女にこの本を渡せて良かったと思う。
それから、私にこの本を思い出させてくれたナツさんに、ありがとうと思う。
「あたし、今から美容院、行ってきます!」
「え?」
突然彼女が「美容院」なんて言い出すものだから、私は驚く。
「だってあたし、こんな髪じゃなくて、本当は普通の黒髪がいいもん。そっちの方が、自分らしくて好き」
この時私は初めて、宮脇沙子という人物のことが分かった気がした。
素朴で素直。
だからこそ嘘がつけなくて、人間関係で手こずってしまったのだろう。
けれど、そんな彼女を、私はもっと見たいと思う。
「そっか。あ、でも美容室はもう閉まってると思うから、明日にしてくださいね」
「分かった! 明日、あたし、自分になるよ。変わってくる、心から」
心から変わりたいって思う?
私のお節介を、彼女は心で受け止めてくれていた。
それが嬉しくて。
「ありがとう、本当に」
私の「ありがとう」に、沙子は首を傾げて不思議そうな顔をしていたのだけれど。
私は彼女に、私の大好きな物語を受け取ってくれたことを、心から感謝している。
人と上手く接することができないあなたへ。
辻村深月著『かがみの孤城』はいかがでしょう?
≪第四話 後編 終≫