【京都天狼院物語〜あなたの心に効く一冊〜】第五話 忘れられない人がいるあなたへ 前編≪もえりの心スケッチ手帳≫
文:鈴木萌里(京都天狼院スタッフ)
「こんにちは、もえりさん」
本格的な寒さが京都に襲いかかる12月、もうほとんど慣れてしまった京都天狼院でのアルバイト中に、懐かしい訪問者が現れた。
時刻は午後7時20分、ちょうど夜ご飯どきで、私は接客中にぐう〜っとお腹が鳴ってしまわないかとヒヤヒヤしていたところだ。
「あなたは確か……岡本さん?」
そう。
やって来たのは、出版社に勤める営業マンで、今年の夏に汗だくの状態で私に新人教育の悩みを打ち明けてくれた岡本英介だった。
初めて会った時はよれよれのスーツに自信なさげな様子をしていたのに、彼の悩みにぴったりだと思う小説を紹介してからというもの、部下との関係も上手くいったようだ。今では堂々胸を張ってにこやかな笑顔を私に向けてくれていた。
「はい、岡本です。ご無沙汰してます!」
ハキハキとした張りのある声に、キリッとしたスーツ姿。夏に初めて会った時とは全く別人のようだ。
「お久しぶりです。どうですか、その後は」
「おかげさまで、二人の部下とも立派に育ってくれました。と言っても、まだまだ一人で仕事を任せるには頼りないですけどね」
ははっと冗談っぽく笑いながら、それでも彼が、部下の成長を喜ぶイケてる上司の顔をしているのを見て嬉しかった。
「それは良かったです。私も最初はどうなることかと思ってたので」
だって、お客さんから悩みを相談されるなんて、思ってもみなかったから。
しかも、なんだかんだで岡本以外にも様々な人の悩みを聞く書店員と化している。
まあ、どんな事情があれ自分を頼りにしてくれる人が一人でも多くいるというのは人間冥利に尽きるわけだが。
「その節は大変お世話になりました」
90°に腰を折って頭を下げる岡本。
「いやいや、大したことはしてません。私はただ、自分が好きなものを勧めてみただけなんですから」
自分の言葉に嘘偽りや、謙遜なんて全くない。ゲームが好きならゲームを勧めていただろうし、スイーツが好きならたとえ大人の男性にだっておかまいなしに、激甘インスタ映えスイーツを勧めていただろう。
「今まで小説を読んでこなかった自分が恥ずかしいですね。自分も小説を書いてみたいと思っているのですが、書くとなると思うように筆が進まないものです」
「そんなことはありませんよ。本は、どんなジャンルだって、お気に入りの本に出会えること自体が奇跡だって思っています。岡本さんの小説も完成したら、誰かのお気に入りの一冊になると思いますよ」
この世に星の数ほど存在する本の中から、たった一つの好きに出会えること。
それだけでもう誇らしい。今まで知らなかったことが恥ずかしいなんて全く思う必要はないのだ。
「ありがとうございます。……と、余計な話はここまでにして」
岡本はいったん話を遮ると、何やら持っていた鞄の中をゴソゴソと探り始めた。
そういえば、彼はなぜ再びこの書店にやって来たのだろう。スーツを着ているところからして、また今日も営業の合間に寄ってくれたということは理解できた。
もちろん、本屋に来るのに理由なんて必要ないのだけれど、鞄の中を覗いている彼を見る限り、きっと何か目的があるのだということを悟る。
「あ、あった。これですこれ」
はい、と岡本は私に一枚の封筒を差し出した。
真っ白な封筒には、差出人名も何も書かれていない。
「これを、私に?」
「はい。知り合いから預かったものなんです。昔仕事で関わった方で。僕があなたと知り合いであると言ったら、目の色を変えて、『詳しく聞かせてくれ』って言うんです。さすがにあなたの許可なく、あることないこと話すのは良くないと思って、京都の書店で働いているということしか伝えてません。そうしたら後日、それをあなたに渡してほしいと言われまして」
岡本が封筒……というかおそらく中身の手紙の出所についてつらつらと説明してくれている間、私は不思議に思いながら、封筒を裏返したりまた表に戻したりした。しかし、やはりどこにも宛名は書かれていなかった。
「開けてみてもいいですか……?」
「もちろんです。あなた宛のものですから」
私は岡本から、あえて詳しいことは聞かずにその封筒を恐る恐る開けてみた。
中には封筒と同じ真っ白な便箋が一枚。
その二つ折りの便箋を、ピラっとめくってみる。
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鈴木もえりさま
ご無沙汰しております。
と言っても、あなたは私のことをご存知ないかもしれません。
私は、第145回あおい文学賞の審査員長を務めていた杉崎秀義と申します。
知り合いの岡本くんから、あなたと面識があると聞き、居ても立っても居られなくなり、突然このような不躾な手紙を出した次第です。
あれから随分と長い月日が経ってしまいましたね。あなたは確か、あの時高校三年生。もう4年も前のことかと思うと、感慨深いものです。
さて、私がなぜ岡本くんからあなたの名前を聞いて、すぐにでも手紙を出したいと思ったのかというと、理由は一つだけです。
もう一度あなたに、小説を書いてほしい。
あの日、第145回あおい文学賞表彰式のとき、あなたとあなたのお祖母様の身に起こった出来事は、重々承知しております。
ですがあれから4年経ち、あなたのお心もちょっとずつ癒えてきたことでしょう。
決して無理は言いません。
しかし、もしあなたがその気なら、私のところでぜひ小説を書いてほしいのです。
あなたの書く物語を、もう一度読ませてほしい。
可能であれば、お返事をくださると幸いです。
杉崎秀義
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「これは……」
私は、岡本に手紙の中身を見られないように、読み終えるとさっと再び便箋を二つ折りにした。
手紙は実にシンプルなのに、簡単に読み飛ばしてしまってはいけない力を持っていた。
「何が書かれていましたか?」
好奇心でそう聞いてくる岡本に返事もできずに、硬直してしまう私。
「いえ、たいしたこと、ないんです」
明らかに「大したことない」という感じはない動揺っぷりに、岡本も苦笑いしている。
「まあ、他人の手紙を覗き見するなんて野暮なことはしません。何かあれば、私に言ってください」
「はい」
岡本の気遣いに感謝しながら、私はそっと手紙をポケットの中にしまう。
第145回あおい文学賞。
毎年中学生から高校生までの、短編小説を募っている文学賞だ。
「あおい」は青春の「青」。
“時に煌いたり、時に苦々しかったり、あなたらしい青春物語を募集しています”。
といったコンセプトで青春小説を募集している。
そんな「あおい文学賞」の公募広告を見た私は、高校三年生の夏休みに、短編小説を応募してみることにしたのだ。
誰もが驚嘆するような面白いネタなんてなかった。
普通の進学校に通っていたため、どこの高校でも経験できるような高校生活しか送っていないから。だから私は、あえてありのままに、自分が三年間で経験したことについて綴った。テストで悔しかったことや、日が暮れるまで練習に明け暮れたこと、恋愛や運動会、文化祭での一つ一つの出来事を思い出し、「これなら共感してもらえそう」と思う物語に仕上げた。自分を主人公にするのは恥ずかしかったため、主人公は自分とは全くタイプの違う女の子という設定にした。
将来の夢がなくて、それでも、将来のことを考えなければいけなくて。
周りの友達はなんだかんだ行きたい大学や、就きたい職業について、目を輝かせて語っている。
何を頑張ればいいか分からないから、とりあえず目の前の勉強や部活に必死になって。
けれど、どれも中途半端に終わってしまう。
こんなことなら、授業中は居眠りしてもひたすら部活に打ち込んで結果を残して推薦で名門大学に行くような人生の方が良かった。
それとも、ガリガリ勉強して、他人の目もはばからず、たとえ学校で友達ができなくとも、「試験と結婚するんだ」と胸を張って言えるくらい秀才になれたら。
しかし現実はそうはいかない。
現実の自分は、そこそこおしゃれをしていたいし、そこそこ良い成績を取りたいし、かと言って友達づきあいをないがしろにしたくもなかった。
そんな、思春期の少年少女にありふれた感情たちを一つずつすくって、一つのストーリーにした。
1万文字程度の短いお話なのに、書き上げたとき、自分の中で気持ちがすっきりとしたのが分かった。
たぶんその時の私は、文字通り受験とか将来とか、世間一般の高校生や大人たち皆が抱えているような不安の中に、これまた皆と同じように沈んでいたからだと思う。
だから、物語を書いたというよりは、自分の中でぐちゃぐちゃになっていた不安
な気持ちを文章にして吐き出して、心を一掃したと言った方が適切かもしれなかった。
と、そんなこんなで書き上げた一つの物語、『青のまんなか』を「第145回あおい文学賞」に応募したのだった。
ところがそれがなんと、大賞を獲ってしまった。
「獲ってしまった」なんて言うと、本気で臨んでいないようだが、もちろん一生懸命書いたのは事実だ。
けれど、まさか自分が書いた物語が審査員の心を動かすだなんて、思いもしなかった。驚きと、喜びとが胸の中で衝突して、最後には喜びが残る。
幼い頃から小説家になりたいという夢を思い描いていた自分にとって、これ以上の幸運はないと思った。
確か、大賞を獲ったということと、3ヶ月後、つまり高校三年生の3月に表彰式が行われるため出欠の確認をしたいと連絡してきたのがそう、杉崎審査員長だったのだ。
高三の3月と言えば、ちょうど大学受験が終わり、合格発表を待っている時期だろうか。もしくは、無事に合格すれば京都への引っ越し、もしダメだった場合は今後の進路について考えあぐねている頃だろう。
どちらにせよ、精神的にも肉体的にも忙しい時期であるのには変わりない。
しかし、母が「せっかくだし行って来なさい」と言ったのと、自分自身二度とないかもしれない大賞の表彰式に出たいという気持ちが強かったということもあり、結局は電話で杉崎に折り返し出席の連絡をしたのだった。
それからあっという間に時が流れ、心配だった受験も乗り切り、サクラ咲いた状態で、私は表彰式に出席した。
いや、“出席してしまった”んだ————。
「……さん」
「……」
「もえりさん」
不意に岡本の声がして、私ははっと我に返る。
「あ……す、すみません。ぼうっとしてて……」
杉崎審査委員の手紙を読んだせいで、4年前の出来事を思い出してしまっていた。もう二度度、思い出すまいとしていたことなのに、たった一つの手紙のせいで、鮮明に蘇ってしまう。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど」
「だ、大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」
私は目の前の岡本という客に、深々と頭を下げた。頭を下げることで、自分の呼吸を整えようとしたのだ。
私はもう、ポッケの中にしまったこの手紙を、二度と開かない。
いや、開きたくない。
「いえいえ! 僕のほうこそ、突然押しかけてしまってすみません。それに、あの手紙も一方的に渡してしまって」
「いいんです、もう」
「ははぁ……。とにかく、杉崎からまた何か連絡があれば、僕が伝えますけど、あなたの迷惑になるようなことはしないように釘を刺しておきます」
「ありがとう、ございます……」
杉崎が悪いわけでも、まして岡本が悪いわけでもないのに申し訳ないと思いながら、私は彼の気遣いに感謝した。
ガララッ
私が再び岡本に頭を下げたのと、京都天狼院のあったか木製扉が勢いよく開いたのは、ほぼ同時だった。
「だからもうっ、嫌なんだって!」
鋭い怒声を上げながら入って来たのは40代ぐらいの女性、そして、
「待ってくれよ! 俺はなにも、君に嫌な思いをさせたいわけじゃないんだ」
と必死に女性の気をなだめようとする同年代の男性だった。
どちらの声も静かでゆったりとした音楽と、お客さんの小さな話し声しか聞こえない京都天狼院の店の中では異様なほどに響いて聞こえる。
「分かってるわよ! その上でほっといて欲しいって言ってるの!」
「いまの君をほっとけるわけないだろう!」
別れ話? 痴話喧嘩? としか受け取りようのない会話に、レジカウンターの前にいる岡本も、ぎょっと身をそらして彼らを凝視していた。
「ついてこないで! 私はね、一人になりたいの!」
「そう言ったって、同じ家に住んでるんだし仕方ないじゃないか」
「うっさいわね!」
さすがにこれは。
さすがに、マズい。
どんな事情があるか知らないが、二階の席には何組かお客さんもいる。
落ち着きのある空間を提供している京都天狼院としては、こんなふうに店内で騒がれては困るのだ。
見れば、私の方に向き直った岡本も、「やれやれ」というように困った表情をしている。
これは仕方ないと思い、私は恐る恐るお客さんの元へ歩み寄り、
「あの……、申し訳ございませんが、店内で大きな声を出すのは……」
「お控え願えませんか」と、言いたかった。
でもその前に女性が男性に向けて放った一言が、私の次の言葉を遮ってしまった。
「あなたが何をしたって、あの子はもう、戻って来ないのよっ……! 死んじゃったんだものっ」
ガツンと、何か重たいもので頭を殴られたかと思うぐらい、その言葉が私の一切の行動を引き止めた。
私だけじゃない。
カウンター前で事の成り行きを見守っていた岡本も、女性をなだめていた男性さえも、一体次にどんな言葉を投げかけたら良いのか分からず、硬直していた。
静寂に包まれる店内。二階にいるはずの客も、一階で何かあったのだと察したのか、物音一つ聞こえない。店内を流れるBGMだけが、私の耳に嫌というほど聞こえてきた。
不幸なことに、いつもはいるはずの社員スタッフのナツさんとユキさんも、今は休憩時間で席を外していた。だから、この場にいる店員は、私一人だけだ。
それなのに、分からない。
動けない。
早く、早く、一言を。
誰か、息をして。何かを発して。なんてもいい、「トイレ行きたい」でもいいから。
そう願いながら、私はこの先の打開策を考え続けるのだった。
後編に続く
【第五話 前編 終】
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