祭り(READING LIFE)

伏見稲荷の初午祭《 通年テーマ「祭り」》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

幼い頃、いつも祖父のあとを追いかけていた。
 
理由もなく追いかけていた。
寡黙な祖父は時折振り返っては微笑んでいるだけだった。
 
神棚で祝詞(のりと)を上げたあとは、仏壇でお経を唱えていた。
幼い私はその斜め左後ろにちょこんと座っているのが定番だった。
祖父が外出するときも一緒にいるだけで何かを期待している自分がいた。
飴玉、綿菓子……。11月には東京南品川の荒神様(こうじんさま、火を守る神さま)の縁日では、水鉄砲を買ってもらった。
ただし、あとを追って鶏小屋に入ったときは、片目の雄鶏をはじめとする数羽の鶏から逆襲を受ける羽目になり、ただ泣きじゃくるだけだった。
鶏肉が好きではないのはそのせいかもしれない。
 
そんな祖父のあとを追いかけているとき、いつも不思議に思っていることがあった。
それは、お稲荷さんへの参拝である。
 
じつは私の家にはお稲荷さんがある。
物心つくころから、庭にあったお稲荷さんに毎朝、祖父はお参りしていた。
お稲荷さんの前で二礼二拍手一礼をして、祝詞(のりと)のようなものを唱えていた。
 
いつも祖父のあとをついていくとき、ほかでは何もしなくても、お稲荷さんでは、祖父の仕草を真似するようになっていた。
 
また、家の近所でも同じようなお稲荷さんがいくつかあった。
それを見て、うちだけじゃないんだと思っていた。
 
なぜか祖父のルーティーンは私のなかにいつも生き続けていた。
 
そんな祖父の行動でいつも不思議なことがあった。
それは、冬のある日、お稲荷さんの左右に、縦に長い高さ2メートルほどの赤い旗が立てられるのである。
うちのお稲荷さんだけではなかった。近所のお稲荷さんにも同じような赤い旗が立っていた。
 
冬の曇天の下、赤の旗はうちのお稲荷さんだけでなく家の近くにあったのである。
そして、赤い旗があったので見に行ってみると、そこには小さながらも初めて見るお稲荷さんあった。
 
そしてその赤い旗は、翌日になるとパタッとどこかへ行ってしまうのか、跡形もなくなってしまうのである。
 
なんでその日だけが縦長の赤い旗がお稲荷さんの両脇に立てられるのか?
それは私にとってミステリー以外のなにものでもなかった。
 
そんな感情も小学校入学と同時にいつしか忘却の彼方に追いやられていた。
登下校の楽しみや友だちとの交友のなかで、赤い旗が視界には入っていたとしても、見えずにいた。
 
祖父にとって、他界する数年前には赤い旗を用意する気力も萎えたのか、いつの間にか赤い旗は疎遠になりつつあった。
 
成人し、会社員生活では実家に住んでもそんな風習どころではなくなった。
社会人として年齢を重ねながら、仕事以外の鬱陶しい付き合いからは極力エスケープする自分がいた。
 
母が60代で亡くなり、男やもめで過ごす父に会いに実家に立ち寄ることすら1年に数えるほどだった。
 
月日は流れ、父が80歳を越えたある日のことだった。
 
「伏見稲荷に行かないか?」
京都の伏見である。
 
聞くところによると、2月上旬の第一日曜日だという。
突然のことで、いったいなにごとかと不思議に思った。
寒い思いをしてまで、京都に行くなんてM以外の何ものでもない。
いつもだったら、父のリクエストをスルーするのが通例なのに、なぜか家内が一緒に行こうと言った。
 
百貨店に入社して、法人外商(法人営業)の部門だったわたしにとって、土日は営業は休みである。
 
「行きましょうよ」不満だったが、家内のひとことが決め手になった。
父、家内、そして長男に私の4人で行くことになった。
日帰りとはいえ、父と一緒の旅行は、それが最後になるとは知らずにいた。
 
朝6時、品川発の新幹線に乗り、8時半に京都着。
新幹線の改札を抜けた私たちは、JR奈良線に乗ることになった。
6両編成の各駅停車は、日曜なのになぜか満員だった。
「なんでこんなに混んでるの?」
 
朝は早い、底冷えのする寒さ、そして満員電車。
2駅目の稲荷駅に着くころは、私のストレスは爆発寸前になっていた。
 
下車しようとしたら、電車のなかの乗客全員が降りたかのような混雑ぶり。
3基ある自動改札の前では長蛇の列ができ始めていた。
 
ようやく改札を出た私たちは、まるで東京駅丸の内北口オアゾ前の横断歩道を渡るビジネスマンのように、いつの間にか早足となっていた。
 
すると、なだらかな上り坂の行く手に、巨大な鳥居が見えた。
まわりを見ると、鳥居に向かって、とてつもない数の人の波ができ始めている。
過去に一度だけあっただろうか?
明治神宮の初詣のシーンが蘇ってきた。
 
鳥居を過ぎると、そこは祈祷を申し込む列の最後尾だった。
「いくらなんでも、この人の数は……」
まわりでは日本各地の方言が飛び交っている。
その日は特別だと瞬時にわかった。
祈祷申し込み所の脇にあったパンフレットを見ながら、伏見稲荷を知ることになった。
 
初午祭。
伏見稲荷大社にとって、一年で一番大事な日である。
 
節分を過ぎた最初の、午(うま)の日。
水田耕作が基本の日本人にとって、その年の五穀豊穣を祈念する日である。
平安時代に建立された伏見稲荷。
その後、鎌倉、室町、戦国時代を経て信心深い人たちに受け継がれてきた信仰は、江戸時代、徳川幕府の士農工商制度の確立から、稲作を祈念する全国的な稲荷信仰ムーブメントに発展することになった。
 
家の近くに誰の持ち主か分からないながらも、お稲荷さんがいくつもあったのはその名残である。
 
家内と長男を拝殿の脇に待たせて、私と父は祈祷申し込みの列に並んだ。
祈祷の種類が目の前のボードに書かれている。
農業を生業(なりわい)としない以上、まぁ、ありきたりでいいかと思い始めていた。
 
「家内安全」「商売繁盛」
とりあえず、この2つを申し込んだ。
 
あとはどうやら、宮司さんからの祈祷を受けるらしいことは分かった。
 
正面の拝殿前にも人の列ができていた。
 
四方をまるで大黒柱にような柱で囲まれている、ちょうどバスケットボールコートくらいの広さの祈祷の部屋である。
 
すでに前の回の祈祷が始まっていた。祈祷の部屋はほぼ満席状態。底冷えのする陽気なのに、人々の熱気だろうか、のどの乾きから冷たいアイスコーヒーが飲みたくなっていた。
 
待つこと約30分。
祈祷の部屋のドアが開いた。私たちの家族も含めて約200人が宮司さんに誘導されて、順番に横長のイスに着席し始めた。
 
10分後、うやうやしい表情の宮司さんが部屋に入ってきた。
正面の拝殿に二礼二拍手一礼ののち、祝詞(のりと)を奏上し始めた。
 
不思議な感覚だった。
初詣や、上棟式に参列したときとは同じではない感情が私の中を支配し始めていた。
なにを言っているか分からないながらも、独特の韻律、神々しいリズムが時を刻む。
 
祝詞に続き、祈祷を申し込んだ名前が、都道府県名とともに呼ばれ始めていた。
気がつくと私たちの名前とともに商売繁盛、家内安全と呼ばれた。
 
その回の祈祷が完了したのだろうか、「代表者は前へ」という声が聞こえた。
父に促されて、拝殿前の高さ1メートルほどの台のところに集合した。
 
榊を受け取った私は、若手の宮司さんの指示でそれを時計回りに半回転させて、それを台の上にお供えした。
列に沿って歩いていくと、出口の手前左側にいた別の宮司さんからおちょこを渡され、一口だけお神酒を口にした。
普段日本酒は一切口にしない私にとって、いままでにないまろやかな風味。
そうえいば、伏見は日本酒の産地である。
 
お札(ふだ)とお供物をいただいて終了。
 
「さて、これで終わりだ。次は……」と思い始めたのもつかのま、父から「せっかくだからお神楽(かぐら)を見よう」という提案がされた。
 
(まだあるのかよ、もういいだろ)
 
「初午祭のときのお神楽は特別なんだよ」
80歳を越えた父のひとことである。
 
(祈祷で待ったうえにこんどは……)
私の心は閉口していた。
 
「親孝行すると思って、せっかくだからお神楽見てみましょうよ」
家内のひとことで、しぶしぶ神楽のある高床式の舞台に上がることになった。
 
(せっかくの京都日帰り旅行が……)
ところがである。
そのお神楽とは1年に1回、初午祭のときに舞う特別なもの。
 
雅楽の音とともに、装束をお召になった巫女さんが登場した。
こんな間近でナマの神楽を見るのも初めてである。
その舞は、五穀豊穣を祈念するものと聞かされた。
 
ゆっくりとしたリズムで神楽を舞い始めたときである。
私の無意識になにか、雷に打たれたような衝撃が走ったのである。
 
(これってなんだろう……)
彼女の舞に魅せられたのかもしれない。
 
心と身体、全体が震える感じなのである。
 
(こんなことってあるの?)
 
そうだった。そういえば遠い過去にこんな興奮があった。
(そうだ! あのときの)
それは新宿コマ劇場で見た美空ひばりの『リンゴ追分』の1小節目を聞いたときの感覚である。
 
稲作農家にとっては、自然と共存することが一番の道。
 
それとお神楽、そして『リンゴ追分』がシンクロしだしたのである。
短いような、それでいて1時間にも感じられるようなお神楽。
柔らかい舞の動き、神楽のリズム、そして胸のあたりが熱くなるような体感覚。
 
気づくと神楽は終わっていた。
なにか空気の上を歩くような感覚である。
 
お神楽の舞台から降りた私の心は、「せっかくだから初午祭をもっと堪能したい」という気持ちに変換しつつあった。
 
「じゃぁ、稲荷山に行こうか」
父は私たち3人を促して、拝殿の背後に向かおうとしていた。
 
千本鳥居で有名な伏見稲荷。
鳥居のトンネルがどこまでも続いているのである。
私たちはすでにそのトンネルを歩き始めていた。
 
80歳の父のどこに、こんなエネルギーがあるんだろう?
私は父の健脚ぶりに舌を巻きながら、一緒に千本鳥居をくぐり始めていた。
 
200メートルほど行くと
急に傾斜が急になった。
 
そこにはお稲荷さんのお社(やしろ)があった。
 
熊鷹(くまたか)さまだった。
 
背後の稲荷山には、千本鳥居に導かれるように、小規模な稲荷が続いているのである。
その数、30前後であろうか。
 
父は茶店でろうそくを1本買い、火を点けてお灯明として置き、お神酒をお供えした。
 
父は、下社(しもしゃ)、中社(なかしゃ)、上社(かみしゃ)とお灯明を置き、お神酒をお供えするのである。
 
聞くところによると幼年時代、父は祖父に連れられてこの伏見稲荷にお参りし、背後の稲荷山に回ったとのこと。
ちょうど私の中で、千本鳥居のトンネルをひたすら歩いている父の姿がリアルに浮かんでいた。
 
千本鳥居を歩きながら、ふと父は言った。
「じつは、これっておじいさんがやってたことなんだ」
 
祖父が伏見稲荷の初午祭に臨むときには、同行者がいなくて、たとえ1人であってもこのプロセスで回るというもの。
 
父によると、この根拠はどうやら、江戸時代の稲荷信仰に基づくものにほかならない。
 
伏見稲荷の初午祭。
お祭りという異空間のなかで、商売繁盛、ビジネス繁栄に向けて、私たちの行動を振り返るときかもしれない。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ベストメモリーコンシェルジュ。
慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。

http://tenro-in.com/zemi/102023



2019-11-04 | Posted in 祭り(READING LIFE)

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