帯状疱疹と共に生きる《READING LIFE不定期連載「祭り」》
記事:中川文香(READING LIFE公認ライター)
「帯状疱疹ですね」
遡ること約4年。
皮膚科を訪れた私は、その病名を告げられた。
以来これまで、私はこの後遺症と共存している。
あの時には、「処方された薬を適切に使っていればそのうち治るだろう」そんな安易な気持ちでいた。
今から4年ほど前、私は新卒で入社した会社を辞めようかどうしようか、ものすごく迷っていた。
当時、医療系のシステムエンジニアとして働いていた。
連日の残業、業態から出張も多い仕事。
30代を目前にしていた頃だった。
おそらく世の中の多くの女性がぶつかるであろうと思われる色々なもやもやに、私ももれなくぶつかっていた。
“結婚適齢期” に差し掛かり、日々大きくなる周り(特に田舎の両親・親戚)からの「結婚しないの?」のプレッシャー。
一方仕事はだんだんと任されるようになり、重くのしかかってくる責任。
日々の仕事に忙殺され、出張漬けで家にもあまり帰れないような生活。
新卒で入った会社で、もう7年近く働いている。
だんだんと先が見えてきて、このままいくと近くリーダーを任されるようになるだろう。
その後は?
私はどこまで目指しているの?
結婚や出産を経て働く女性のロールモデルになるような先輩は、私の部署にはいなかった。
私が第一号になれるのか?
こんなに働きながら、私に子育てなんて出来る?
「このままで私、本当にいいのだろうか……?」
そんなことを考えに考えてぐちゃぐちゃになって分からなくなって、でもなんとか導き出したのは、
「私は結婚してみたいと思っているし、今の仕事はこれから何十年も続けられない気がする」
という答えだった。
ただ、「ひとまず辞めてから考える」という選択肢は当時の私には無かった。
先を決めずにぽんと辞める勇気がどうしても持てなかったのだ。
ぐるぐると迷っていると、偶然にも友人が転職した先で「一緒に働く人を探している」という話をくれた。
話を聞くと、 “メインは不動産関連だが、病院関連のコンサルティングの仕事も請け負っている” という。
「最初は別の仕事をしてもらうことになるが、いずれは医療系の仕事に携わってもらうことも出来ると思う」
とのことだった。
これまで携わってきたのも医療関係の仕事だった。
「やってみたい」と思った。
何度か話を聞き、お互いの条件をすり合わせ、「ではお世話になります」というような感じでトントンと決まっていった。
あまり深くは考えずに、直感だけともいえるような状態で進んでいってしまったのだけれど、「これだけあっさり決まるのだから、その方向に進んでみるのも良いのではないか?」という思いも自分の中に芽生えていた。
転職先が決まり、程なくして私は勤めていた会社の上司に退職の意向を伝えた。
私の体が異常を訴えてきたのは、その翌日だった。
「あれ? 汗疹かな?」
夏の終わり、少し肌寒くなり始めの頃だった。
ひとまず無事に退職の意向を伝えた、翌日の土曜日。
右の腰のあたりに赤いぶつぶつが出来ているのを見つけた。
汗疹なんて小学生以来じゃない? 嫌だなぁ。
そう思ったけれど、「しばらく触らないようにしておいたら治るかな」
軽い感じで考えていた。
けれど、翌日になっても、その次の日になっても腫れは引かないどころか、太ももやわき腹のあたりまで少しずつ広がり、だんだんとちくちくした痛みを伴うようになった。
「もしかして、帯状疱疹ではないか?」
当時、友人の母が帯状疱疹になったという話を聞いたばかりで、その症状も世間話程度に聞いていた。
赤い湿疹ができる。
かゆみと、刺すような痛みを伴う。
腫れはすぐには引かず、だんだんと広がっていく。
体の半身にのみ、ぐるりと帯のように湿疹が広がるため “帯状” 疱疹という。
水疱瘡のウイルスが引き起こすため、過去に水疱瘡に罹った人は発症する可能性がある。
その状態のすべてが、自分の汗疹もどきに当てはまった。
当時、仕事では自分が管理者となって抱えている案件がいくつかあった。
仕事を抜けることはすなわち、誰かにカバーをお願いしなければならない状況で、その時に空いているメンバーなんていないくらいの忙しい時期だった。
休むなんて出来ない。
仕事が休みの土曜日に診察している皮膚科を調べ、ごったがえす待合室で右腰をさすりさすり待ち、ようやく診察室に通された私に伝えられたのはやはり、 “帯状疱疹” という病名だった。
「あら。こんなにひどくなるまで……湿疹はかなり熱も持っているし……痛かったでしょう?」
50代くらいの見るからに優しそうな女性の医師が、気の毒そうに言った。
ああ、やっぱり帯状疱疹か。
ストレスでなるって聞いてたしなぁ。
これまであまり大きな病気もせず、どれだけ残業しても、どれだけ出張して移動しまくっても、どれだけ体に負担をかけても土日に泥のように眠ればなんとか回復していた自分も、病気になるのだなあ、やっぱり人間だったんだ、良かった良かった。
それまで頑丈だと思っていた自分の体もやっぱり生き物だったんだなという、ほっとしたような嬉しいような、痛いのに「良かった」と思う妙な気持ちでごちゃまぜになったのを覚えている。
先生に可哀そうがられたけど、ああ、この状態って、結構ひどい状況なんだ。
確かに痛かったもんな。
でも、私が仕事休むと部長が穴を埋めないといけなくなるし、「休ませてください」って言える状況じゃないもんな。
でも、座ってるだけでもピリピリして痛いんだよなぁ。
ぐるぐるぐるぐる考えた。
お医者さんに言われたことを反芻して、頭で考えて。
頭で考えて、「痛いって思っていいんだ」と自分に許可しないと痛みを訴えてはいけない、と思えるくらいに、感覚が麻痺していたのだ、たぶん。
それでも、「帯状疱疹でした、しばらく休ませてください」とは言えなかった。
私はもう辞めることが決まっている。
でも、辞める日までの仕事はすでに埋まってしまっている。
そこまではしっかりやり遂げなきゃ。
辞めることで迷惑をかけてしまうし、途中で放り出したら他の人が困るしな。
皮膚科で処方された軟膏を毎日お風呂あがりに塗り、飲み薬を飲み、しばらくすると腫れはだんだんと引いていき、赤い湿疹は少しずつ枯れてかさぶたになっていった。
ちくちくする痛みも少しずつ和らいでいった。
ああ、良かった。
これでずっと座っていても少しは痛くなくなった。
でもなんかちょっと、腰回りに鈍痛があるな。
ちくちくの痛みよりはましになったし、この痛みもそのうち治るかな。
そのまま自分に任された仕事をひたすら続け、終電で帰る日々を送り続け、ようやく、退職の日が来た。
結局、辞めるまで帯状疱疹になったということは会社の人には言えなかった。
その次の日から、新しい仕事が待っていた。
新しい仕事は、店舗立ち上げだった。
前職のシステムエンジニアとは全く違う仕事。
しかも新規店舗の立ち上げ。
仕事は以前にも増して忙しく、今度は土日の休みすら無くなった。
毎日毎日店舗の準備に明け暮れ、深夜まで事務処理作業をし、今まで経験したことのないアルバイトさんやパートさんの管理・教育、慣れないことばかりだった。
「今は忙しすぎるけれど、オープンして軌道に乗ったら、仕事に慣れてきたらきっと少しゆっくりできるはずだ」
そう言い聞かせて、ほとんど気合いだけで乗り切った。
ひとまず、私がなんとかしなければ。
任されているのだから、とにかくやり遂げなければ。
文字通り死に物狂いで働いた。
上手く立ち回れずに、当時のアルバイトさんやパートさんにはたくさんの苦労や心配も掛けた。
みんなに支えられて、自分も頑張って、なんとかオープンを無事に迎えることが出来た。
立ち上げた店舗はフランチャイズの会員制のビジネスだったのだけれど、オープン時の成績も上出来以上の滑り出しだった。
ああ、良かった。
ひとまずスタートまでこぎつけることが出来た。
でも、その時私の体は限界を訴え続けてきていた。
当時、睡眠もろくにとっておらず、食事も三食ままならないような状況だった。
店舗の事務所に座っているとき、あの帯状疱疹が出来た右半身、特に腰から下がつるような、こわばるような感覚を頻繁に感じるようになっていた。
立ち上がってしばらくさすると、少し良くなる。
また翌日、痛くなる。
そんな状態の繰り返しだった。
痛む右足をだましだまししながら、店舗の運営を続けている状態だった。
そんな時、「店舗の立ち上げが上手くいったので、次の新規店舗の立ち上げもやって欲しい」という話が出てきた。
ありがたいお話だった。
でも迷っていた。
このまま新規店舗の立ち上げに携わるべきか。
けれど、今のこの体の状態で新しい場所に行って、今と同じ働きが出来るのか?
かといってまだ入社して日も浅い。
この申し出を断っても良いのだろうか?
そもそも、こんな体で今の仕事を続けられる?
でも、今辞めるのは会社に迷惑がかかるのではないか。
でも……
でも、でも……
またもやぐるぐると考えたけれど、今度は恐怖の方が勝った。
帯状疱疹は治ったはずなのに、どうして未だに右半身が痛むのだろう?
足全体がつるような感覚になることもある。
このまま体に鞭打って働き続けても、今度は働くことすら出来ない体になってしまうのではないか?
そんな恐怖だった。
私はお世話になった社長と友人と、そして一緒に頑張ってくれたアルバイトさん、パートさんに泣きながら頭を下げ、その仕事を辞めることになった。
無職になって、地元に帰り、少し実家で休養させてもらうことにした。
30歳になってしばらく経った頃だった。
仕事を辞めてから、この右半身の異常を治そうと、色々な病院に行ってみた。
初めに帯状疱疹の治療をしてくれた皮膚科に行き「帯状疱疹自体は治っているので原因は分からない、神経系の問題かもしれないので紹介状を書きます」と言われ、脳神経外科の紹介状をもらった時には面食らった。
脳にまで異常が届いたのか?
恐る恐る受診した脳神経外科では、「特に異常は見られません、帯状疱疹の後遺症ですかね」という、どうにも対処できない診断結果をもらった。
ひとまず脳の異常では無かったようで、それには安堵した。
整形外科に行き、整体にも行き、色々なところで診ていただいたけれど、結局直接的な痛みの原因は分からなかった。
店舗立ち上げの頃のような激務からは解放されて実家に帰り、残業のほぼ無いようなゆったりした仕事を始めたからか、つるような右半身の痛みは無くなっていた。
けれど、また違う痛みが続くようになっていた。
長時間座り続けると右腰が痛くなる。
長時間歩き続けても、右足全体に痛みが広がる。
疲労を感じると、右腰から足にかけて鈍痛がでる。
酷い時には背中の右側がこわばるような感覚になるときもあった。
また病院にもかかってみた。
とある大きな病院で、神経伝達検査というようなものをやってもらった。
そこで分かったのは、
「右の腰から足先に向けての神経伝達は上手くいっているが、足先から右腰に向かって返ってくる神経伝達が途中で途切れている、つまり足先から腰に帰ってくる途中のどこかの神経が一部損傷していると考えられる。おそらく、帯状疱疹をしたときに神経を傷つけてしまったのだろう。損傷しているだろうということは分かるが、それがどの部分なのかを特定するのは今の技術では難しい。箇所の特定が難しいので、治療するのは困難である。どうしても痛みが酷いようであれば、痛みの緩和をするペインクリニックで処置することを勧める」
ということだった。
つまり、
なんらかの異常はあるが、治すことは出来ない
ということが分かったのだった。
その時初めて、からだというものは、一度壊れてしまうと完全に元には戻せないのだ、と文字通り身をもって知った。
私の体は、一部分、傷ついてしまって、もう治ることは無いのだ。
このまま、この痛みとずっと付き合っていくのだ。
もしかしたら原因が分かって治すことが出来る未来が来るかもしれないし、このまま一生この痛みと共に生きていくことになるのかもしれない。
途方に暮れた。
「あの時に無理をしすぎなければ」
そう考えたことももちろんある。
後の祭りだ。
でも、今更後悔したってしょうがない。
“後の祭り” だと考えたらどうしようもないけれど、 “祭りの後” と考えたらどうだろうか?
20代の、それこそ多少無理をしても体の回復が早かったあの頃。
祭りで神輿を担ぐように最前線でガツガツ働いていた。
男性の多い職場で「負けるもんか」と必死だった。
きついつらいと思ったこともたくさんある。
仕事が思うように進まなくて自分の無力さにベソをかきながら帰ったこともたくさんある。
初めて経験することだらけで、一人で途方に暮れてただぼんやりしたこともある。
それでも、振り落とされないように必死でやってきた。
もがいてもがいてとにかく前に向かって必死で走った。
大変なこともたくさんあったけれど、学ぶこともたくさんあった。
きつい思いもしたけれど、嬉しいこともたくさんあった。
そんなお祭り騒ぎの20代をひたすらに駆け抜けてきた、その先。
体が私に、静かに教えてくれた。
無理をしたら、そのことを体はしっかり覚えているんだよ、と。
帯状疱疹になったことは、しょうがない。
その時に仕事を休めなかったのもしょうがない。
その結果、症状が酷くなったのだとしても、それもしょうがない。
完治は難しいのだとしたら、ひとまず付き合っていくしかない。
それは、後の祭りだ。
では、祭りの後はどうするか。
今のところ、疲れたり、生理になったり体調が思わしくない時には、相変わらず右の腰から下が痛むことがある。
酷い時には右の背中の方まで鈍痛が広がる。
私はこれからも、この痛みと共に生きていく。
痛みが出た時は、からだからの「これ以上無理したらだめだよ」というサインだと思う。
そのことを、痛みを伴って身に刻むことが出来た。
気付くのが少し遅かったかもしれないけれど、体からのサインをきちんと受け取ることが出来て良かった。
これからは、頭で考えるだけじゃなくて体の声を聴いて生きていこう。
この体とは、私が死ぬまでの付き合いになる。
しっかりメンテナンスして、大事に付き合っていかなくちゃ。
そんな風に、考え方を少しだけ、変えることが出来た。
ぐちゃぐちゃになりながら走り抜けた先にあった、静かな時間。
祭りの後には、自分の体と対話しながら進む、ただ静かな、でも確かな日常が待っていた。
□ライターズプロフィール
中川 文香(READING LIFE公認ライター)
鹿児島県生まれ。
進学で宮崎県、就職で福岡県に住み、システムエンジニアとして働く間に九州各県を出張してまわる。
2017年Uターン。2020年再度福岡へ。
あたたかい土地柄と各地の方言にほっとする九州好き。Uターン後、地元コミュニティFM局でのパーソナリティー、地域情報発信の記事執筆などの活動を経て、まちづくりに興味を持つようになる。
NLP(神経言語プログラミング)勉強中。
NLPマスタープラクティショナー、LABプロファイルプラクティショナー。興味のある分野は まちづくり・心理学。
この記事は、人生を変える天狼院「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライターズ倶楽部」をご受講の方が書きました。 ライティング・ゼミにご参加いただくと記事を投稿いただき、編集部のフィードバックが得られます。チェックをし、Web天狼院書店に掲載レベルを満たしている場合は、Web天狼院書店にアップされます。
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