日本最大級カレーの祭典は、忘我の入り口だった《READING LIFE不定期連載「祭り」》
記事:中野 篤史(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
日はすでに暮れていた。11月3日土曜日の靖国通りは人出で賑わっている。しかし、裏通りへ入るとそこは、休日のオフィス街のように人もまばらで表通りの喧騒とは対照だった。私が進む30メートルほど先には十字路がみえる。その角にある小川町郵便局があって、中は真っ暗だ。本当にこんな静かなところでやっているのだろうか? と疑問に思っていた時、前方から風が強く吹いてきた。ミックスされたスパイスの匂いが、鼻腔をくすぐる。十字路を右に曲がった先から流れてきているにら違いない。進むほど匂いはだんだん強くなっていく。視界には捉えられないが人々がいる気配も感じる。そして、通りを曲がった。右側に広場らしきフェンスが見える。私は歩みを進め、ついに広場の入り口にたった。カレーの匂いが辺りに充満している。ついに来た……。ここで間違いはない。日本最大級カレーの祭典、神田カレーグランプリ。私はグッとくるものをこらえて、私は小川広場へと一歩足を踏み入れたのだった。
会場となっている広場は想像していたよりもずっと小さかった。50メートルプールとプールサイドをやや大きくしたほどだろうか。もっと混雑しているかと想像していたが、そうでもなかった。土曜日の17:30頃という時間のためか、それなりに人は入っているが、行列が出来てカレーを注文するのに時間がかかるほどではなかった。おそらく明るい時間帯の方が混んでいたのだろう。パンフレットを手に入れた私は、とりあえず会場を一周してみることにした。
「ドンファン」のイベリコ豚カレーか。具材に重心をおいたカレーは味の想像がつきやすい。スパイスカレー愛好家の私としてはパスしておこう。
ここは「ラホール」ブラックカレー カニクリームコロッケのせか。ブラックカレー次第だな。食べるリストに入れるかどうかは保留にしておこう。
「ジョイアルカレー」の信玄からあげカレーか。唐揚げ+カレーは、大衆受けが良さそうだな。しかし、カレーの重心が具材に寄っているのは今回はパスなのだ。「いわま餃子」か、へーーー餃子ね。って餃子かい? しかも店頭に立っているのはイラン人のお兄さん? その横でグルグル回っているのは、もしかして……、ケバブですよね。なんと、ラムハンバーグのせケバブカレーだと。面白い。ネタとしては食べるべきだ。しかし、これはもやはハンバーグカレーである。故に今回はパスさせていただこう。
「ジャンカレー」の角煮カレー、なるほど。
「いずみカリー」の牛すじカリー、そうかそうか。
「アパ社長カレー」ロースカツ社長カレーとな。
赤いハットをかぶった等身大の社長のパネルもある。おいおいどんだけ「私を見て」なんだ。と苦笑しつつも、B級グルメの最高峰とも言われる金沢カレーがベースというからには要チェックだ。タイカレー、インドカレー、牛スジカレー、キーマカレー。ジャンル分けできないようなものや、キワモノっぽいものまで、全20店舗。さて、どれからいくか。
まずは、スパイスカレーからということで「スパイスボックス」のケララチキンカレーからいこう。ちなみに、“スパイスカレー”というのは、カレールーを使わずに、スパイスを調合して作るカレーのことを言う。さらに、スパイスカレーは2系統に別れる。インドやスリランカなど本場のカレーに端を発するが、独自のブレンドで味つけを追求したフリースタイル。一方、カレーの本場の味を追求し、スパイス使いの奥義を極めていく正統派スタイルだ。そう言う意味では、「スパイスボックス」ケララチキンカレーは、正統派スパイスカレーと言える。ケララとは南インドの州の名前で、そこで食べられているカレーをケララスタイルのカレーという。特徴としては、ココナッツミルクが入る。でも以外にあっさりしている。そして辛い。早速カレーを買って、席を探すが飲食スペースのテーブルは空いておらず、広場の隅の方にあった四人掛けのテーブルに、空きがあるのを見つけた。
「すみません、ここいいですか?」四人がけのテーブルで、先にカレーを食べていた男女のカップルに声をかけた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます」
そうだ。カレーを食べている人はここでは仲間なんだ。いただきます。と心の中で唱え、カレーにスプーンを入れた。トマトと玉ねぎを使い、酸味と甘みのバランスが絶妙だ。そして結構な辛さがある。ただトッピングの半熟卵のまろやかさが、辛さをうまく包んでくれて、食べやすくなっている。スタートとしては悪くない出だしだ。
私が席に着くと同時に、カップルの男性の方は、別のカレーを買いに席を立って行ってしまった。だから、その女性と私は二人でカレーを食べていた。無言で。側からみれば我々はカップルに見えるに違いない。会話も交わさず、無言でスプーンを動かす二人。カレーグランプリの会場において、恋人同士のそれは会話以上に二人の絆を確かめ合う行為に違いないのだ。しかし、実際私とその女性とは赤の他人である。にも関わらず、無言でスプーンを口へ運ぶという行為が、なにか共同作業にようでもあり意味のある行為に思えてしまう。これは、カレーというスパイス料理に隠された不思議な力の一つに違いない。結局、私が食べ終わって席を立つまで、彼女の相方の男性は戻ってこなかった。
つづいて「カリー&ワイン べっぴん舎」で完熟トマトカリーをゲットした。今度は広場中央の飲食エリアに席を見つけることができた。完熟トマトじっくり煮込んだというスパイシー赤カリーは、甘みと酸味のバランスがいい。そして、しみ出た深いコクはじっくり煮込まれたトマトからきているのだろうか? それが味に一層の深みを与え、大人なな仕上がりになっていた。
「おかあさん、お代わりー!」と隣から大きな声がした。隣の席の男の子だった。4、5歳くらいだろうか。
「ちょっと待ってて」と言い、母親は席を立っていってしまった。そうだよなカレー美味しいもんな。私も2杯目なんだよと思いながら、カレーを口へ運ぶ。
「カレイの歌が 聞こえてくるよ♪ カ カ カ カ カレ カレ カレ カレ カ カ カ!」子供が歌い出した。
いや、それはカレイじゃなくてカエルの歌だよね。でもいいよ。カレー食いたいもんな。そりゃあ、カレイの歌が 聞こえてくるよな。 私も心の中で一緒に歌った。また、カレーを食べたくなってきた。よし、3杯目いこう。
さてどうしたものか。ベトナムカレーにするかインドカレーにするかまようところだ。明日もあることだ、今日はインドカレーで〆るか。ということでインド人の作る「ザ・タンドール」のバターチキンカレー&キーマカレーになった。まあ、当然の成り行きというか、これはいわゆるインド人のつくるよくあるインドカレーだった。ベトナムカレーにしておくべきだったか? という若干の後悔を残しつつ初日を終えた。
2日目の正午。私は再び神田カレーグランプリの会場に立った。また来てしまった。空は雨が降り出しそうなほど重かったが、客足は昨夜よりずいぶん軽かった。すでに殆どの店の前に行列ができている。
この日最初に食べるカレーは決まっていた。アパ社長のロースカツカレーだ。なぜスパイスカレー愛好家の私が、このようなキワモノカレーを食べなくてならないのか。セオリーからいえば胃袋に限界がある以上、店舗を厳選してスパイスカレーを食すべきなのだ。わかっている。それはわかっているのだ。でも昨日からあの社長のインパクトが強くて頭から離れないのだ。プライドが傷つくのを恐れずにいうなら、アパ社長カレーが気になって仕方がないということだ。アパ社長の呪いなのか? この呪いを解くには、食べるしか方法はない。食べて経験すればおさまりがつく。
ロースカツ社長カレーを手に入れた私は、テーブルについた。見た目は普通のロースカツカレーにみえる。カレーにスプーンを入れた。あっ、うまい。金沢カレーをベースにした本格ビーフカレーというだけあり、ルーの深みが半端ない。多分ワインも使われている。グランプリを目指すというだけあり、600円では表現できない味に仕上がっていた。なんとロースカツ社長カレーは、採算をド返ししたコスパの高いカレーだった。そして、見事に呪いは去っていった。
つづくカレーは、昨日から目をつけていた「三月の水」無水ベトナムココナッツカレー。タイのグリーンカレーほど辛くはなく、グリーンカレーよりも甘く濃厚だった。しまった。私は作戦ミスを犯していたことに気づいた。昨晩からの3杯のカレーに続き、今日2杯目に、この甘みと濃厚なカレーをもってきてしまった。流石に、味がちょっときついのである。しかし、ここで終わるわけにはいかない。胃袋的にはまだ余裕がある。ベトナムカレーを完食して、〆はやっぱり、サラリとスパイスカレーでないと。
昨日から気になっていた「kitchen723」のスパイスチキンカレーを手にいてた私は、飲食スペースの隅の方に席を見つけ座った。カレーから漂ってくるスパイスの香りは、すでにその味を伝えてくれていた。この時の私は、鼻の下が伸びてだらしのない顔をしていたに違いない。
「すみません、ここいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」私が一人悦に入っていると、カップルがやってきて私の正面に腰を下ろした。二人それぞれに別のカレーを買ったようだ。二人は食べ始めた。
「わっ。からーーい」と女性がいった。それはスパイスボックスのスパイスチキンカレーだった。確かにそれは辛い。ケララ風だからね。男性の方は、無水ベトナムココナッツカレーだった。そっちはけっこう甘いよ。
「こっちは、甘い!」と男性が言った。
「えー、どれどれ」と二人は互いのカレーを交換した。
「あ、辛いね! でも美味い」
「わー、これ甘くてオイシイ」そうそう、その組み合わせの方がいい。
それから、二人は黙々と食べ始めた。そこにあるのは、プラスチックのスプーンでプラスチックの容器を掻く音だけだった。
カレーに言葉は必要ない。いや、どちらかといえばカレーを食べると言葉を失っていくと言った方が、しっくりとくるだろうか。スパイスの妙味によって、おのおのが自分の内側の世界へと引き込まれていく。それは内へ内へと向かう巡礼のようでもある。スパイスの刺激と辛さ故に、人の意識は否が応でも舌に集中する。その瞬間から外界の刺激は、意識の外側へ遠のいてしまう。人は、カレーを食べている刹那に、内なる深淵の静寂へとたどり着く。そこで、過去も未来もない究極の「今」を体験するのだ。そこは言葉が存在しないところ。つまり思考が介在しない忘我の状態とも言える。それはあたかも、祭りの狂喜乱舞の中にあって、「我」を忘れる状態のようでもある。
私はスパイスチキンカレーを口へ入れた。あー、これこれ。口の中に広がる様々なスパイスの香り。絶妙なブレンド具合。甘みや酸味だけでなく、味に深さを与える苦味もしっかり表現されている。そして、後からやってくる辛さが私を内なる旅へといざなう。私の耳には、もうカレーグランプリの喧騒は届いていなかった。
❏ライタープロフィール
中野 篤史
’99に日本体育大学を卒業後、当時千駄ヶ谷にあった世界中の旅人が集まるゲストハウスにて20代を過ごす。またバックパッカーとして、国内やアジアを中心に欧米諸国を漫遊。どいうわけか、現在は上場IT企業に勤め、子供2人を持つ40代の父親になっている。最近は、暇さえあればスパイスカレーを食べ歩く日々をつづけていて、天狼院書店でライターズ倶楽部に所属しながら、食と旅行を中心に記事を執筆中。
http://tenro-in.com/zemi/62637