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ちっぽけな僕の大きな買い物《週刊READING LIFE Vol.61 クリエイターのための「家計管理」》


記事:黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

「小さな県の大きな買い物」
 
こんな見出しが雑誌だか新聞紙だかに載ったのは、昭和52年頃のことです。
 
この小さな県というのは、私の故郷、山梨県のことです。
余計なお世話だ、と言いたいところですが、当時も今も、確かに小さな県です。
 
で、その小さな県が大きな買い物をしたというのです。
物理的に大きいということもありますが、大きなのはその購入金額でした。当時の値段でなんと2億円。現在の価値でいえば倍以上にはなっているでしょうか。
 
一体何を買ったのでしょう?
 
その買い物がお披露目されたのは、昭和53年のことです。この年の11月、ある公共施設が開館しました。
「山梨県立美術館」です。
そう、この大きな買い物というのは、新たなに開館する美術館の目玉展示となる美術品、絵画でした。
 
その絵画、全体的に暗い印象を受けますが、それは経年劣化にもよったそうで、後に大幅に修復され、瑞々しい色が蘇ることになります。しかし、当時でもその力強さはよく現れていました。
開館当時、私はまだ生まれていませんでしたが、幼い頃、美術の教員だった祖父に連れられ、その大きな絵画を目の当たりにしたことがあります。
大きな、と言っても、サイズは大人の背丈より少し大きいくらいでしょうか。しかし子どもだった自分にはそれが巨大な壁画にも見え、薄暗い館内の雰囲気と相まって、少し恐ろしさを感じたものです。ただ、その絵画に描かれた人物の力強さ、迫力は、幼心に強く残りました。
 
畑の坂を下る男。肩にかかった袋。右手は空に舞い、そこから種が撒かれている。そこに描かれるのは農民が種まきをする姿。しかしそれは単なる作業の写生画ではなく、とても力強い、農村に生きるものへの賛歌でもありました。
 
画家の名はジャン=フランソワ=ミレー。
購入した絵は、日本では彼の代表作として知られている『種をまく人』でした。
 
岩波書店のシンボルマーク、といえば何となく想像できますでしょうか?
 
これ以降、山梨県立美術館は、ミレーとその周辺、いわゆる「バルビゾン派」と言われる画家たちの絵画を収集していきます。
それらは評判を呼び、中央自動車道の全線開通にも伴い、県民だけでなく、観光客からも人気を集め、「ミレーの美術館」として親しまれるようになりました。
 
また、後に県内企業が所蔵している作品を寄贈されたり、萩原秀雄(山梨県出身の画家)の作品を一括寄贈されたりと、購入以外にも様々な縁で美術品が集まってきました。
 
この美術館は、単なる目玉展示で人々を惹きつけるだけの美術館ではなく、美術の心を持った人々の縁を結び、その志を感じる場所であったのです。
 
さて、小さな県の大きな買い物は、結果的に好評を博します。特にミレーの農民を描く視点が、農家が多かった山梨県の風土にピッタリだったのでしょう。県民からも好意的に迎えられました。
 
しかし、あくまで「結果的に」であって、やはり購入時には反対意見もあったそうです。使うのは県民の税金ですし、また、それだけでは足りずに、県内の企業や銀行からも出資を受けた上での買い物だったそうです。
 
当然といえば当然です。いわゆる「芸術で腹は膨れない」というやつでしょうか。その巨額には、実際もっと効果的な使い道があったかと思います。
 
これを個人に落とし込んで考えてみましょう。私たちがいわゆる「芸術」にお金を費やすというときは、一体どういう決断をしているのでしょうか。
先ほども言ったように、芸術で腹は膨れません。従って、空腹に悩まされている場合に、芸術にお金を費やす選択肢はありません。
また、芸術はレジャーではありません。いや、昨今ではそういうよりの親しみやすさを出している芸術もありますが、であれば、その場合、私たちは芸術に出費をしているわけではなく、レジャーやエンターテイメントに出費をしているわけです。
 
では、そういったことも踏まえつつ、私たちはどう考えれば芸術のために出費できるのでしょうか。
いや、そもそも芸術に家計を割く必要があるのでしょうか。
 
必要かといえば、そうですね、「必」ではないでしょうね。先ほども言ったように、芸術で腹は膨れません。すなわち、生きていく上で、もっといえば生命活動を維持していく上で、必須となる要素ではありません。
また、レジャーともエンターテイメントとも少し違う。なぜなら、それを所持することが、楽しみに直結しているわけではないからです。
これが蒐集家のようなご趣味をお持ちの方なら、また話も違ってきます。それを所持したり、所持したものを眺めたりすることが、自分自身の楽しみに直結するからです。
ただ、世の中のほとんどの方は、芸術品をそのような目で見ることは少ないはずです。芸術品を眺めて、感嘆のため息を洩らす。そこまでです。せいぜい美術館の入館料を払うくらいで、芸術品それ自体にお金はかけられません。
 
いや、そんな億単位のお金をだすことを意味しているわけではありませんよ。レプリカでもいいし、絵葉書でもいい。最近のミュージアムショップは充実していますからね。
ただ、そうは言っても気持ち的に買いにくい。
再三言っている通り、それ自体は実用的なものではないし、楽しむべき要素もない。
文字通り、気持ち的に余裕がないと、芸術に割くお金は捻出しにくいというものがあります。そして気持ち的に余裕があったとしても、そこに割く意味を見出すことが難しいのです。
 
ただし、それは「自分自身にとっては」の話です。
 
私は教員として、様々なタイプの学校に勤務してきました。そしてその中に、特別支援学校(昔の養護学校)もありました。
そこに通う児童生徒たちは、確かにどこかしらにハンディキャップを負っているものの、その感性には驚かされることばかりでした。
特に、私が赴任当初に受けた衝撃は忘れられません。
 
その絵は生徒玄関に飾ってあったと思います。
地域の祭りを描いたものでしたが、その活き活きとした情景には目を奪われました。決して写実画ではありませんが、祭りの熱気や人々の表情、物体の細かな描写や動き、そして色使いなど、様々な要素が火の祭りを如実に表現していました。
 
最初私は、これを描いた人は卒業生で、その道に進んだ人かと思っていました。
しかし後に、私はそれが当時小学生だった在校生の作品だと知り、さらに衝撃を受けました。
こんな才能を持った子どもが本当にいるのか、と。
 
障がいを持った人が創る芸術を、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートなどと呼びますが、その芸術性にはとても驚かされました。ぜひ、一度鑑賞されることをお勧めします。
 
さて後日のことですが、美術の先生にあるイベントに誘われます。それは障がいを持つ人々の作品のコンクールで、審査員の方が入賞作についてコメントをしてくれるイベントでした。
美術の先生は、何人かの生徒の作品を、コンクールに出していたのです。そしてその中のいくつかが入賞していました。
 
審査員の方も、入選作全てに感心していたようでした。そしてその中で語っています。
 
「みんな、絵を買えばいいと思うのですよ」
 
絵を買う、芸術品を買うということは、作者にお金が入るということ。つまり、その人の収入源となるのだ、と。
仕事先が限られる障がい者にとっては、こういう収入を得る方法もあるということなのです。
 
もちろん、芸術だけで食べていく、というのはどのような状況であれ難しいことだと思います。だから収入源の一つとして、くらいのニュアンスだと思いますが、確かに納得できるものでした。
 
私たちが芸術品を買うこと、それは自分自身のためだけではないのです。作者の生活を支えることにもなり、何より、文化を支えることにもつながるのです。
 
少し「いいな」と思った絵画の絵葉書を買うこと。そのような小さな行動が、作者やそれを取り巻く文化を支えていることにつながっていくのだと思うのです。
 
文化の衰退は生活レベルの低下につながります。ただ、それは分かりやすく表に出るわけではありません。いつの間にか、何かが欠けてくる。そう言った現象です。
感性や創造力、ひらめきや意欲。そう言った抽象的なものを人間に供給していくのが文化です。人が人としてあるのも文化という下地の上に成り立つものでしょうし、自分ではない誰かを思いやることができるのも、文化圏の中に成り立つことであると思うのです。
 
確かに芸術で腹は膨れません。しかしそのような状況になるのを防ぐためにも文化的な生活圏が必要で、そのためには芸術が栄養剤のように必要となるのだと思います。
 
私が出会ったあの絵画と、それを描いた生徒は、とても活き活きとしていました。絵を描ける、何かを作れるということは、とても幸せな行為です。私は芸術には疎い身ですが、彼ら彼女らのためなら、何かしら対価を支払ってもいいと考えています。
 
それが、私個人としては、芸術品に出費するという意味だと思うのです。
作品を見て、いいなと感嘆のため息を洩らす。例え、そこからレプリカや絵葉書や加工されたグッズなどを買ったとしても、私自身にはそれ以上の利益はありません。せいぜい机上の一風景として、無機質な空間を彩ってくれるくらいでしょうか。だとしても実質的な利益を私自身に運んでくれるわけではない。
支払った費用に見合った利益を得られるとは限らないのです。
 
しかし、それが作者の糧になる。私の暮らしを支える文化圏の糧になる。そう思えば、支払った金額以上の対価が得られると感じられるのです。
 
なるほど、山梨県はお世辞にも都会とは言えません。人口の流失は止まらないようですし、限界集落と言われる場所も多い。
しかし、この芸術や文化にかける強さが、この地方を生活圏たらしめる土台となっていると思うのです。
 
それを支えているのが人々の芸術にかける思いであり、文化を絶やさないようにする希望なのだと思います。
これは地方に限った話ではありません。
日本という国が、日本に住む人が、人としての生活を送ることができるためにも、私たちは芸術のために何かを払ってもよいと思うのです。
 
私が最後に『種をまく人』を見たのは、おそらく夏前だったと思います。
閉館時間が迫る中で、その展示室には数人の客しかいませんでした。
その中で、あの絵はスポットライトを控えめに浴び、力強く、そして瑞々しく色彩を放っていました。
2019年下旬、かの絵画はオランダのゴッホ美術館の特別展示のために海を渡りました。
昔においても、ミレーに影響された人は多く、ゴッホもその一人だったようです。そしてゴッホから影響を受けた芸術家も多い。一つの文化から、さらに多くの様々な文化や芸術が花開いていくのです。
 
そういえば県下の小学校には、必ず『種をまく人』や『落ち穂拾い』などのミレーのレプリカが必ずと言っていいほど、飾ってありました。山梨の小学生は、その絵画を見ながら日々の学校生活を送るわけです(もちろん私もそうでした)。
 
今、あの絵画を思い出して確信します。
小さな県に大きな文化の花を咲かせるために、やはり『種をまく人』は必要だったのだと。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
黒崎良英(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

山梨県在住。大学にて国文学を専攻する傍ら、情報科の教員免許を取得。現在は故郷山梨の高校で、国語科と情報科を教えている。また、大学在学中、夏目漱石の孫である夏目房之介教授の、現代マンガ学講義を受け、オタクコンテンツの教育的利用を考えるようになる。ただし未だに効果的な授業になった試しが無い。デジタルとアナログの融合を図るデジタル好きなアナログ人間。趣味は広く浅くで多岐にわたる。


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