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「日雇い派遣」が教えてくれた「らしさ」と「強み」《週刊READING LIFE Vol.62 もしも「仕事」が消えたなら》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

朝7時、私は立ち続けていた。
 
東京お台場のテレコムセンター改札前。
2月になったとはいえ、肌を刺すような海風と冷えで足先の感覚はなくなっていた。
しかし待ち続けた。
どんよりとした曇り空。予報では、時折雪がチラつくとのことだった。
 
しばらくすると、20代だろうか。若い男性が1人いるのを認めた。
コンビニのおにぎりをムシャムシャとほおばっている。
 
急に空腹を覚えた。新橋駅ホームで自販機の缶コーヒーを飲んだだけだったからである。
 
ほどなく、改札前の人数に変化があった。
気づくと男性が3人になった。見たところ全員が20代である。
私を含めて4人は、たがいに距離を置きながら、なにをするまでもなく待機していた。
 
しばらくすると、1台のバンが停まり、作業着姿の男性が降りてきた。
30代前半だろうか。私たちを見るとポケットから紙を取り出して名前を呼び始めた。
 
「◯◯さん」、
「△△さん」、
「□□さん」、
 
(点呼なんて何年ぶりだろう)
 
無機質ななかにも通る声。
いわゆる棟梁だった。
 
「高林さん」
 
「はい」
リアクションが反射的に出た。
百貨店時代、返事をするときは、「ドレミファソ」の「ソ」の音階と言われていたからだろうか、我ながら甲高い声だった。
 
20代の3人は、手荷物を持ったり、飲みかけのペットボトルを飲み干したりと、次の行動の準備を始めている。
 
私はといえば、これから何が始まるのかまったく見当がつかないでいた。
完全アウェイ状態である。
用意されたバンに乗った。
 
たがいに言葉を交わすこともない。それがなにか暗黙のルールのようである。
どこにつれて行かれるのであろうか。孤独というか、誰にも頼れそうもない空間にいることだけは確かだった。
やがてバンはある高層ビルの前で停まった。
 
棟梁がセキュリティカードをかざしてドアが開いた。
 
1階部分に入ると、目の前にはさまざまなスチール製の備品が山積みされている。
 
分解されたロッカー、パーテーション、スチール机、椅子、などなど。
 
私たちがこれからやろうとする行動が理解できた。
 
棟梁の説明では、これらの備品を階段を使って5階まで運ぶという。
なぜかエレベーターは使えなかった。
 
もちろん、階段の壁面には養生がされていた。
 
私を除く3人は勝手知った環境なのだろうか。
すでに着ているダウンジャケットやブルゾンを脱いで、仕事に取り掛かろうとしている。
まさにスタンバイの状態。
改札前で待っているときとは大違い。
完全にモードに入っていた。
 
私はといえば、ただついて行くだけ。
年齢的にも20歳以上若い彼らの真似をするしかなかった。
搬入搬出業務。
それは、原則禁止されている「日雇い派遣」であった。
 
仕事のない状態の私にとって、選択の余地はなかった。
 
開始して1時間もしないうちに息が切れてきた。
若い3人に比べて体力の差は明らかである。
 
スチールは堅牢であることから、単位あたりの重量も金属の中では重い部類に入る。
 
棟梁の指示は2人ペアではなく一人での作業である。
 
20代の彼らは、高さ2メートル・幅1メートルのパーテーションの部品を複数両手に持ち、ノンストップで5階まで運ぶのである。
 
私はというと、腰もふらつきながら、階段で休み休み運ぶのである。
まとめて持てるわけではない。
 
身体の疲労とともに、目が泳ぎはじめてきた。
 
午前8時から始めて2時間ほど経ったとき、休憩の声がかかった。
 
正直、ほっとした。
 
ただし、その休憩も座って休むというものではない。
 
棟梁とともに、喫煙用の赤塗りのバケツを囲んで立って休むのである。
 
全員ポケットからタバコを取り出して、なにを話すまでもなく吸い始めている。
 
私はといえば……
 
なにもすることがなかった。知らない相手を前に萎縮する一方である。精一杯やっているのに仕事量は少ないまま。棟梁は口には出さないものの、不満の表情を見て取れた。
 
タバコを吸わない自分は、休みたいのに休めない。
間(ま)が持てないのである。
 
5分の休憩はまたたく間に終わった。
作業はまだ全体の2割も終わっていなかった。
 
休憩後は1回に持つ重量が増えた。
 
ロッカーにつける支柱は長さが2メートル50ほど。肩に乗せるとバーベルを持って行うスクワット状態である。
みんなはしっかりとした足取りで進んでいる。私は最後尾で腰がふらつき、蛇行して歩かざるを得ない。
 
「おい、タラタラしてんじゃねえよ」
背後から棟梁の声が聞こえた。
 
こちらとしては最善を尽くしているのである。
しかし、50歳になろうとしている自分と片や20代の3人との差は明らかだった。
 
その差は時間とともに、大きくなるのである。
 
(しようがないだろ)
 
心と身体は悲鳴を上げても、誰も助けてくれるわけではなかった。
 
「ったくよ。使えねぇなぁ」
 
さらに追い打ちをかけるようなひとこと。
 
如何ともし難い事実に、思わず8ヶ月前を思い出してしまった。
 
(あのときの選択って、いったいなんだったんだろう?)
 
肩にずしりとくるスチール製の支柱。
階段を上りながら、28年間の百貨店生活に終止符を打った決断を思い起こしていた。
 
腰がふらつくのも、自分より20歳若い棟梁から罵詈雑言を浴びるのも自分の責任。
「すべての責任は自分にある」
 
5階まで運んで荷物を下ろしたあと、階段を降りながら、かつての日々が蘇ってきた。
 
百貨店生活28年目の1月だった。
40歳以上の社員を対象に早期退職が発表された。
 
そのとき私は、法人営業(法人外商)に在籍中。4年間で社内MVPを3回受賞したことで、仕事に乗っている感じがした。
 
主なクライアントは広告代理店である。
仕事が面白い反面、非常に手間と労力と、時間がかかる仕事であった。
典型的な、千三(せんみつ)の営業である。
 
1,000回営業して、3つ受注できれば御の字。
 
実際、クライアントからの依頼の件数は多いものの、それが商売となると話は別であった。
 
「あの企画、なくなっちゃったんだ」と何度言われたことか。
それでも、こちらの営業に対する熱量が高ければ成果は上げられるものである。
しかし、成果とは裏腹に、時間とともに疲労は溜まっていたのである。
 
いわゆる勤続疲労である。
 
朝8時から夜10時までの仕事は、医師からの薬の投与と整体を受けながらの日々だった。
身体が悲鳴を上げていたのである。
 
早期退職の情報を聞いた時、「いったん身体を休めてから次のステージに進んでもいいだろ」という気持が生まれた。
「早期退職を選択する」
家族を含めて、周囲は大反対だった。
 
反対されても、前に進むことにした。
多少浪花節のようなものかもしれないが、28年間育てていただいた百貨店に対して、有給休暇を消化しないで最後の日まで働こうと決めた。
それは自分のなかではけじめだったが、家族からはあきれられた。
 
「次の仕事は退職後に決めればいい。決められるだろう」と楽観視していた。
 
5月30日、会社の人たちにあいさつをした私は私物を片づけた後、会社をあとにした。
社員通用口、もうここを通ることもない。
それは、次のステージへのスタートのように感じていた。
 
翌日5月31日の午前中、私は東京赤坂にある再就職支援の会社に向かった。
これは早期退職を選択した社員の再就職のため、百貨店が契約していた会社である。
 
1年間の間、PC、プリンターも使い放題。
必要とあればカウンセラーによって就職先も紹介してもらえるという条件だった。
 
早速、カウンセラーの指導の下、レジュメ職務経歴書づくりが始まった。
 
前日までは百貨店の仕事。
その日からは「新たな仕事を探す」という、「求職」にシフトした。
どちらも自分の中では仕事のゾーンではあったが、実態は別ものであることに気づいてはいなかった。
 
履歴書が完成したことで、いよいよ求職活動の始まり。ドラが鳴った気がした。
再就職支援会社の紹介してくれる案件だけではない。
大手転職サイトに登録した私は、片っ端からWEB上で応募した。
 
百貨店時代、販売、仕入、お客様サービス部門、さらには法人営業と28年間で14の職務を経験していたこともあって、自分は幅広く対応できると勝手に解釈していた。
今から思えば過大評価である。
 
年齢は満50歳と5ヶ月。まだまだいけると考えていたのは自分の思い込みに過ぎない。
私には企業の人事担当者から見た自分の姿を想像すらしていなかったのである。
 
家族には3ヶ月ほどでメドをつけて、半年後には新たな会社で働き始めると伝えていた。
それは根拠のない希望的な観測だった。
 
「この会社いいかも」と思った企業への応募。
それは1つのフレームに基づいたものではなく、まさに闇雲(やみくも)に過ぎなかった。
応募しても、企業からのリアクションの決り文句はほぼ同じだった。
「大変残念ではございますが、貴殿の意向に添えない結果となりました」
いつしか夏は過ぎ、季節は秋から冬になろうとしていた。
 
面接どころか、書類選考不採用が続いた。
 
「こんなはずでは……」と思ったものの、どうすればよいかがまったく分からない。
出口の見えない迷路、いや、なにか真っ暗闇の深海に沈んでいくようだった。
 
「あなた無職なんだからね」
年の瀬に家内から言われた。
 
「無職」
今までそんなことはありえないと思っていた。
一番身近にいる家族から突きつけられた現実。
 
そればかりではない。家内によると、大学に入学したばかりの長男は「親父みたいにならないぞ」とつぶやき、高校生の次男は父親が職がないという事実に傷ついているという。
 
いくら声高に「求職活動をしている」と主張しても通用しない現実があった。
そうはいっても前へ進もうとした。
 
年が明けても事態はまったく好転しないどころか、ますます迷走していくようであった。
頼みの再就職支援会社のカウンセラーからは、「あんたって、何やりたいんだか分かんねぇんだよ」と言われてしまった。
 
「せめて1社でいいから面接まで」という思いもかなわない状態だった。
 
たまたまWEB上にあった「誰でもできるカンタンな仕事です」に応募してみた。
面接があるわけではなかった。
 
応募したところ、「明日から来てください」とすぐさま返事が来た。
しかも「動きやすい服装」と注釈がついていた。
 
それが今回の「日雇い派遣」だったのである。
 
昼休み。
支給された弁当を食べながら、退社後の日々を思い出していた。
 
「なんで自分がここにいるんだろう?」
ペットボトルのお茶を飲みながら浮かんできた疑問である。
 
(ここって自分の居場所なんだろうか?)
ぼんやりと考えていたとき、棟梁から「始めるぞ」と声がかかった。
 
午前の続きだった。
備品を軽々と持ち上げる20代の3人の後を追うように、いや、遅れまいと動こうとした。
しかし、午前に比べて一歩一歩の歩幅は狭まっていた。
差はますます広まっていた。
 
気づくと1往復分遅れている自分がいた。
 
備品は終わり、今度は床に敷く業務用のカーペットである
巻いた状態のカーペットを肩に担いで同じく5階まで運ぶことになった。
明らかに重量感が変わり、バランスを取るのがカンタンではなくなった。
 
ノンストップで5階まで運ぶ20代3人に比べて、こちらは2階、3階の踊り場でいったん下ろして休養するしかない。
 
腰はふらつき、差がますます広がり始めたときだった。
「はっきり言って、迷惑なんだよ」
後ろから下腹に響くような声が聞こえた。
 
見ると私たちと同じように荷物を肩に乗せた棟梁がいた。
私の進捗に業を煮やしたのだろうか。自ら率先して運ぼうとしているのである。
 
「おっさん、今日はもう帰っていいよ」
 
「……」
 
(どうしよう……)
そもそも返事の言葉が見つからない。
「今日はもう帰っていい」は、「明日から来るな」を意味することくらい分かる。
 
せっかく手にした搬入の仕事。
 
それすらも「来るに及ばず」状態である。
 
搬入仕事のビルをあとにしてあらためて思った。
8ヶ月前までの自分は、家族を背負っていたのだ。
 
百貨店退社後は、求職活動という名の下、新たな活動をしているつもりでいた。
それは未来への投資と信じて疑わなかった。
 
しかし、問題は結果なのである。
 
未来は見えず、
 
書類選考は通過せず、
 
さらに、せっかくの仕事も満足に動けない状態。
 
「見えない、できない、動けない」
 
この事実に愕然となってしまったのである。
 
あらためて、百貨店時代は、会社の庇護のもとで働かせていただいていたという事実に気づいた。
 
(どこに行こう?)
 
「ゆりかもめ」は電車賃も高いし、だったらバスで家の近くまで戻るか……とぼんやりと思った。
 
お台場には人がまったくいないエリアがある。
そんな道をひたすらビックサイト国際展示場まで歩き続けた。
 
都営バスに乗ったところまでは覚えているが、その後はまったく記憶にない。
気づくと家の前に立っていた。
 
消耗と筋肉痛で、玄関で靴を脱ぐのもやっとだった。
 
「何でもいい。仕事、仕事が欲しい!!」
 
今までにない心境が芽生えていた。
 
翌日、いつものように赤坂の再就職支援の会社に行った。
PCの前に座ると、明らかに今までとは同じではない気がした。
それは「結果ありき」ということである。
 
「新たな道」、「未来への投資」なんてきれいごとに過ぎない。
 
結果のために行動するんだ。
もう、迷わなかった。
これからの人生、「おっさん、今日はもう帰っていいよ」とは絶対に言われるもんかと心に決めた。
 
数日後、私の携帯電話に見知らぬ着信が入った。
登録していた人材紹介会社からだった。
本来ならばメールのところ、急ぎの案件でもあり直接本人への確認とのことだった。
 
「コールセンターの仕事ってどうですか?」
 
東京都江東区のケーブルテレビ局がコールセンター長を募集しているというものだった。
 
未経験の仕事である。本来の自分なら迷うところだったかもしれない。
 
「お願いします」
誰に相談するまでもなかった。即断即決だった。
 
数日後に人事との面接。さらにその1週間後には社長面接と進んだ。
社長面接の日の夕方のことである。
内定通知のメールを受け取ったとき、西日が差し込む部屋で思わず、へなへなと座り込んでしまった。
(もう、求職活動なんてしなくていいんだ)と。
 
コールセンターは自分にとって未知の仕事だった。
ただし、お客様対応の本質は百貨店と共通していることに気づいた。
 
それは、コミュニケーションとは、「相手の頭で考える」というものである。
 
求職活動中にはまったく見えていなかった、自分の「らしさ」と「強み」。
 
「日雇い派遣」の洗礼が気づかせてくれたのかもしれない。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ベストメモリーコンシェルジュ。
慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。


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