「好きなことも思い出せない」人が”鉛筆の音”に反応した時《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》
2025/12/1/公開
記事:内山遼太(READING LIFE公認ライター)
※一部フィクションを含みます。
「好きなことって、なんだったっけ?」
そう呟いた彼の声は、どこか遠くにあった。
感情も興味も、すべてが霧の中に溶けていた。
でもある日、静かな作業室で”カリカリ”と鉛筆の音が響いた。
彼の目が、その音にわずかに動いた。
その瞬間、止まっていた「興味」のスイッチが、静かに入った。
—
彼が初めてセッションに来たとき、その表情は驚くほど平坦だった。
喜びも、悲しみも、怒りも——何の感情も浮かんでいなかった。まるで、すべての色が失せた世界を生きているかのようだった。
「最近、どうですか?」
私が尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「……わかりません。何も感じないので」
彼は30代後半。数ヶ月前から重度のうつ状態にあった。休職中で、ほとんど家から出ていない。食事も、睡眠も、すべてが機械的だった。
「好きなことはありますか?」
私は、アセスメントの一環として尋ねた。
彼は長い沈黙の後、こう答えた。
「……思い出せません」
それは、記憶を失ったという意味ではなかった。過去に好きだったことは知っている。でも、それに対する”感情”が消えていた。
「昔は、音楽が好きでした。絵を描くのも好きでした。でも今は……何も楽しくないんです」
彼の声には、諦めがあった。
うつ病における「感情の平板化」は、深刻な症状のひとつだ。特に重度のうつ状態では、快感情(楽しい、嬉しい)だけでなく、すべての感情が鈍麻する。それは、世界がモノクロームになるような体験だ。
「何か、やってみたいことはありますか?」
「……ないです。何をやっても同じな気がします」
彼の目は、虚ろだった。
無快感症(アンヘドニア)——それは、うつ病の中核症状のひとつだ。かつて喜びを感じていたことに、一切の興味を失う。音楽を聴いても、美しい景色を見ても、美味しいものを食べても、何も感じない。
彼の場合、それは「記憶の断絶」も伴っていた。
「自分が誰だったのか、わからなくなったんです」
彼は言った。
「昔の自分は、何が好きで、何を楽しんでいたのか。頭では覚えているけど、それが”自分のこと”だと感じられない」
それは、アイデンティティの喪失でもあった。
人は、「好きなこと」「興味のあること」によって、自分自身を定義する。でも、それらがすべて消えたとき、「自分」という存在も曖昧になる。
彼は、自分を見失っていた。
そして、生きる意味も見失っていた。
「朝起きても、何のために起きたのかわからない。ただ、時間が過ぎるのを待っている感じです」
彼の言葉は、深い空虚さを物語っていた。
セッションルームで、彼はただ座っているだけだった。提案された活動にも、興味を示さない。絵を描いても、音楽を聴いても、何も変わらない。
「意味がないです」
彼は、静かに言った。
「何をやっても、何も感じないから」
—
ある日、セッションルームで別のクライアントが創作活動をしていた。
静かな部屋の中で、鉛筆で紙に絵を描く音が響いていた。
カリカリ、カリカリ——
規則的で、でもどこか温かみのある音。
彼は、いつものように椅子に座って、ぼんやりと窓の外を見ていた。でも、その音が聞こえたとき、彼の目がわずかに動いた。
ほんの一瞬のこと。
でも、私はそれを見逃さなかった。
「今の音、気になりましたか?」
彼は、少し考えてから答えた。
「……音?」
「鉛筆の音です」
彼は、初めて隣のテーブルを見た。そこでは、別のクライアントが集中して絵を描いていた。
カリカリ、カリカリ——
「……なんだか、懐かしい気がします」
彼は、小さく呟いた。
それは、わずかな反応だった。でも、それは確かに”感情”の萌芽だった。
次のセッションで、私は彼に提案した。
「鉛筆で、何か描いてみませんか?」
彼は、いつものように無表情だった。
「描けないと思います」
「何を描くかは、考えなくていいです。ただ、線を引いてみるだけでも」
私は、白い紙と鉛筆を差し出した。
彼は、しばらくそれを見つめていた。そして、ゆっくりと鉛筆を手に取った。
紙の上に、線を引いた。
カリカリ——
その音が、静かに響いた。
彼は、手を止めた。そして、もう一度、線を引いた。
カリカリ——
「……この音、聞いたことがある」
彼は、呟いた。
「昔、よく絵を描いてたときの……」
音は、記憶を呼び覚ます装置だ。
特に、感情と結びついた記憶は、視覚や言葉よりも、音や匂いによって蘇りやすい。彼の場合、鉛筆の音が、かつて絵を描いていた自分の記憶を呼び起こした。
彼は、少しずつ手を動かし始めた。
最初は、ただの線だった。意味のない、ランダムな線。でも、手を動かしているうちに、その線が形を成し始めた。
円、四角、波線——
それらは、何かを描こうとしたものではなかった。ただ、手が覚えていた動きが、紙の上に現れていた。
「……手が、勝手に動いてる」
彼は、不思議そうに言った。
それは、身体が記憶を持っているということだった。
頭では「何も感じない」と思っていても、身体は覚えている。かつて絵を描いていたときの手の動き、鉛筆の重さ、紙の質感——それらは、意識の下に保存されていた。
そして、鉛筆の音が、その記憶の扉を開いた。
30分後、彼の紙には、いくつもの線と形が描かれていた。
それは、絵とは呼べないものだった。でも、彼にとっては意味のあるものだった。
「……なんか、ちょっとだけ、楽しかった気がします」
彼は、小さく言った。
その言葉を聞いて、私は確信した。
彼の中で、何かが動き始めている。
—
それから、彼は毎週、セッションで絵を描くようになった。
最初は、ただ線を引くだけ。でも、少しずつ形が生まれ、色がつき、イメージが現れてきた。
ある日、彼は一枚の絵を完成させた。
それは、森の中の道を描いたものだった。木々の間から光が差し込んでいる。
「これ、昔よく行った場所なんです」
彼は言った。
「子どもの頃、よく散歩した道。描いているうちに、思い出しました」
それは、記憶の回復でもあった。
うつ病による記憶の断絶は、過去の自分との分断を生む。でも、創作活動を通じて、その断絶が少しずつつながっていく。
彼が描く絵は、彼自身の物語だった。
森の道、海辺の夕暮れ、古い家——それらは、彼が生きてきた時間の断片だった。そして、それらを描くことで、彼は「自分の人生」を取り戻していった。
「描くって、こんなに楽しかったんですね」
ある日、彼は笑いながら言った。
それは、数ヶ月ぶりの笑顔だった。
「昔は、当たり前すぎて気づかなかったけど……今は、線を引くだけでも嬉しい」
それは、感情の再起動だった。
失われていた「楽しい」という感覚が、少しずつ戻ってきていた。それは、大きな喜びではなく、小さな、でも確かな温かさだった。
彼は、自宅でも絵を描くようになった。
「夜、眠れないときに描いてます」
彼は言った。
「描いていると、心が落ち着くんです」
創作活動は、彼にとってセラピーになっていた。それは、誰かに見せるためのものではなく、自分自身と対話するためのものだった。
そして、半年後。
彼は職場に復帰した。
「まだ、完全に元通りではないです」
彼は言った。
「でも、『好きなこと』が戻ってきた。それが、生きる力になってます」
彼の部屋には、これまで描いた絵が並んでいる。それらは、彼の回復の軌跡だった。
「鉛筆の音を聞いたとき、何かが変わった気がしたんです」
彼は振り返った。
「それまで、世界が灰色だった。でも、あの音を聞いたとき、ほんの少しだけ、色が戻ってきた」
音は、感情を呼び覚ます装置だった。
そして、描くという行為は、心を取り戻す営みだった。
作業療法における「作業」とは、単なる活動ではない。それは、「感覚」から心を取り戻すプロセスだ。
彼の場合、鉛筆の音が、失われていた「興味」のスイッチを入れた。そして、描くという行為が、感情を再起動させた。
回復は、大きな変化から始まるのではない。
それは、鉛筆の音のような、小さな、でも確かな”感覚”から始まる。
今日も、どこかで誰かが鉛筆を持っている。
カリカリと音を立てながら、線を引いている。
その音が、誰かの心を呼び覚ますかもしれない。
それが、”再起動スイッチ”だ。
❏ライタープロフィール
内山遼太(READING LIFE公認ライター)
千葉県香取市出身。現在は東京都八王子市在住。
作業療法士。終末期ケア病院・デイサービス・訪問リハビリで「その人らしい生き方」に寄り添う支援を続けている。
終末期上級ケア専門士・認知症ケア専門士。新人療法士向けのセミナー講師としても活動中。
現場で出会う「もう一度◯◯したい」という声を言葉にするライター。
2025年8月より『週刊READING LIFE』にて《“治す側”から”治される側”を経験した作業療法士が教える『心と身体の再起動スイッチ』》連載開始。
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