冷たいトイレに、断熱と愛を
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
2026/1/30 公開
記事:木藤奈音(ライティング・ゼミ25年11月開講コース)
泌尿器科の問診票を前に、ペンがとまった。
膀胱炎になる心当たりはありまくりだ。しかし自分もひとかどの大人である。
『トイレが怖くて寒くて我慢していたら、用足しのときに痛くなりました』
そんなこと書けるだろうか? ある意味尊厳の問題である。
*
夫が地方に転出し、我が家の二拠点生活が始まって数か月。私は毎月赴任地へ通い、コンクリ壁の社宅の冷たさに震え、そして資材を買ってDIYで扉断熱を行った(詳細は「愛と情熱の扉断熱 | 天狼院書店 – 天狼院書店」をご覧ください)。しかし部屋のほとんどは、いまだ冷たいままである。特にトイレがひどい。
殺風景な白い壁に板張りの床。ベージュのタンクに洋式便座。窓辺は強力消臭剤『便臭ストロング』の指定席だ。奥の壁に沿って、太いパイプが天井から床をまっすぐ貫く。ときどき上のほうで水音がするのは、上の階で……深く考えるのはやめよう。
便座に座る。部屋は狭く壁が迫ってくる。エドガー・アラン・ポゥの『黒猫』が頭によぎる。冷たさが両脇から太ももにささる。中世の城もこんな寒さだったのだろうか。
そういうわけで、当地ではなるべくトイレを外で済ませるようになった。スーパーで、コワーキングスペースで、飲食店で。とはいえ田舎なので夜6時には自宅である。そこからは我慢タイムである。
そして東京の快適なトイレに戻るや、私は膀胱炎になった。痛たたたた。
泌尿器科からの帰り、再び心の中で断熱への炎が燃え上がっていた。
今回は、薬ですぐに治るだろう。しかし、根本的な解決ではない。あの冷たいトイレがある限り、ずっとトイレを我慢し、再び膀胱炎になるだろう。夫も、昼間はともかく、夜は冷たいトイレを使うほかない。いよいよ雪が降る。おなかをこわすかもしれない。痔が、しもやけが……心配は尽きない。悩む余地なんてない。
我が家の安寧のためにも、あのトイレをどうにかするほかないのである。思い立ったら即実行。スマホのECサイトを立ち上げ、必要な資材をポチポチと購入するのであった。
*
数週間後、再び夫の家にいた。資材は夫が受け取り、作業部屋にまとめてくれた。
「これ誤配じゃないよね?」と聞いてくる。もちろん誤配ではないが、素人の量じゃない気もする。
4畳間には、高さ2メートルの太いロールとスーツケース大の段ボール。断熱パネル10枚組も部屋の隅を占拠している。太ロールは床用のクッションフロアで、今回使い切る予定だ。ずっしり重い。果たして私の手に負えるのだろうか。
「明日は当直で帰らないんだけど、いなくて大丈夫だよね?」
ウッ。期待はしていなかったが、手伝えないといわれるとさすがに動揺する。今回の訪問は1週間。資材は買ってしまった。いつ雪が降ってもおかしくない空。私ひとりでも、やるしかないのだ。とりあえず、明日からの段取りを決めていく。
*
翌朝から作業が始まった。ゴールは2つ。トイレの壁と床を断熱材でおおい、冷気を遮断する。壁に壁紙を、床にクッションフロアをはり、見た目を改善する。
まずは壁だ。断熱パネルを壁の大きさにあわせてカットする。ウェハースのような断熱パネルは、カッターで難なく切れた。壁に仮留めし、問題なさそうなので、壁に固定用のテープをはっていく。
断熱パネルを数枚消費した。サイズ調整後のパネルに、しわが出ないよう注意しながら壁紙シールを重ねる。色はECサイトで一目ぼれしたミントグリーン。古い役場の便所に、おしゃれカフェの風が吹くだろう。
色がのったパネルをテープに押し当て一枚ずつ圧着固定する。これを両壁が完全に覆われるまでくりかえす。狭いトイレは、花が咲いたように明るくなった。壁の冷気もとまった。方向性は間違っていない。それでも、足元から冷たい空気が立ち上ってくる。本番は床だ。
気が付いたら日が暮れていた。早めの夕食をとったあと再開する。
床の断熱には高価な薄いパネルではなく、100均やホームセンターにあるウレタンパネルを使う。これを便器の曲線に合わせてカットし、床にはめ込むのだ。
最初に型紙をつくる。新聞紙を数枚便器と床にかぶせ、型取りをする。完成した型紙をウレタンパネルの裏面側におき、カッターでなぞる。面白いほど刃がめり込む。一枚一枚カットし、床の形のパネルを完成させる。
いよいよウレタンをトイレの床に敷き詰める。これまでの作業精度に審判が下るときだ。
床が埋まるにつれ、私のテンションはさがっていった。ウレタンはところどころ盛り上がり、床が波打っている。カットした空隙が小さすぎるのだ。作業部屋とトイレを往復してサイズ調整を行う。ついに床の断熱が完了した。最後にテープでパネルを固定し、タイル柄のクッションフロアをのせる。立ち上がり、室内を見渡した。いい感じ。
明日、帰宅した夫はトイレの豹変ぶりに驚くだろう。
時計を見ると、日が変わる寸前だった。
この日初めて大きく体を伸ばした。一日中座っていたので膝が痛く、腰と背中はカチカチだ。寝る前に、さっそく試してみようと、便座に座ってみる。
衝撃で飛び上がった。
おしりはまだ凍えている。
冷たい風が、背中をなでる。
なぜ、どうして。水を流して、蓋を閉める。
そして、私はタンクを見た。
ベージュ色の、陶器製のタンク。中の水もろとも、キンキンに冷やされているだろう。
どうする? いったん寝る?
それとも、タンクもパネルでふさぐ?
―パネルで、ふさぐ!
思いがけず悪魔的なアイデアが爆誕した。断熱パネルでタンクを覆えば、タンクの冷気も遮断できる。でも、今から始めてどれだけ時間がかかるだろう。
もう真夜中だ。いったん寝て、また昼間に作業をすればよいではないか。
もう一人の私がささやく。明日は隣町で用事があり、続きにかかれるのは数日先だ。他の作業をする日もある。1週間で全部やりきれないかもしれない。
どうしようか。正直疲れている。眠い。でも、明朝帰宅して、トイレをあけてびっくりする夫の顔が見たかった。
続けよう。
今日は眠れないかもしれない。
そこからの私は、人生で見たことがない集中力を発揮した。
タンクを測る。便座を測る。
設計図を書く。
パネルを切る。壁紙を貼る。
仮設置。全体チェック。
部屋へ。トイレへ。再び部屋へ。
切る、測る、切る。そして固定。
そうして、タンクの即席目隠しが完成した。木目調の壁紙が、カントリー調の雰囲気を醸す。ぐっと温かい印象になった。思いつきにしては上出来である。
『フランスの田舎にあるプチホテルにも見えなくない?』そう夫に伝えるのを想像して、にやにやした。
やっと眠れる。ベッドに倒れるや、遠くでシカの鳴き声が聞こえた。もう朝なんだと思い、眠りに落ちた。
*
コーヒーの香りで目が覚めた。夫が帰宅し、朝食を食べていた。
「トイレ見たよ。明るくなったね。壁も冷たくなくなった」
しまった! 眠っている間に、夫はトイレを使ってしまった。驚く顔を見る機会は消え去ったのだ。
「トイレ、行きたくない?」
「今行ったばかりだからなあ」
「もう一度、行きたくない?」
彼は少し考え、何かに気づいた後トイレに入った。閉めた扉の向こうから、「ワアア!」とわざとらしく驚いた声が聞こえた。
私はちょっとだけ満足した。完全にやらせだが、かまわない。こうして、我が家の温度と愛は、また少し上がったのである。
≪終わり≫
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