哲学の道は通学路
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:小林 こば。( 2026年4月開講・名古屋会場 )
僕には、こっそり名前をつけている道がある。
自宅からほどない場所。線路沿いにのびる細い道からはじまり、少し古びた歩道橋を渡って、スーパーの脇を通り抜けていく道。
どこにでもありそうな、取り立てて特別でもない道だ。けれど僕にとっては違う。仕事の合間、頭の中が散らかってきたときに歩くための道であり、考えを整えるための道だ。
歩きながら考える。考えながら歩く。
仕事で行き詰まるたびに幾度も歩いた。そして何度も助けられた。
だから僕は、その道を「哲学の道」と呼んでいる。
僕だけの大切な道だ。
「哲学の道」を歩いていると、不思議なことが起こる。
電車の音や車の走行音、すれ違う人の気配といった雑音が、いつの間にか遠のいていく。景色が、だんだん気にならなくなる。
余計な刺激が削ぎ落とされ、思考だけが静かに浮かび上がる。
30分も歩けば、頭の中がすっと整理される。頭がクリアになって、引っかかっていた問題の答えが、ふいに降りてくることもある。
この道のよさは、僕だけが知っている。気がつけば、何年も歩き続けている。
ある冬の晴れた日の夕方、珍しく息子を誘って一緒に歩いた。
線路沿いの道を進み、歩道橋を渡る。息子と一緒にここを歩くのは、その日が3回目くらいだったと思う。
せっかくだからと、僕は少し得意げに言った。
「ここ、自分の中で『哲学の道』って呼んでるんだよね。お気に入りの道。歩くと、頭がスッキリするんだ」
すると息子は、間髪入れずにこう返してきた。
「え、ここ? ただの通学路だけど」
思わず足が止まりそうになった。
「通学路?」と聞き返すと、彼は肩をすくめる。
「毎日ここ通ってるし。正直、もう見飽きた」
そして少し間をおいて、こう続けた。
「いつも急いでるしさ。頭がクリアになるとか、そういう感じじゃないんだよね」
その言葉に軽く衝撃を受けた。
僕はここが息子の通学路だということを知らなかった。
少し間をおいて、僕は言った。
「この道ってさ、考えるのにちょうどいいんだよ。歩きやすいしさ」
そう言うと、息子は少し笑った。
「そんな余裕ないって。ここ、遅刻ギリギリゾーンだし」
なるほど……。
僕にとっての落ち着いた空間は、彼にとっては慌ただしい場所のようだ。
同じ道を歩いているのに、違う景色が見えている。
僕にとっては思考を整える場所であり、息子にとってはただ通り過ぎる道だった。
哲学の道と通学路。
同じ道でも、捉え方が違えば、見える景色も変わるらしい。
結局のところ、道そのものに意味があるわけではない。
その道をどう見るか、どう感じるかで意味が変わるのだ。
歩道橋を渡りながら、僕はなんとなく聞いてみた。
「いつもの道だと落ち着いてゆっくり考えられない? 頭が整理される感じがしない?」
息子は少し考えてから、首を横に振った。
「いや、むしろ逆。同じ道は退屈。早く着くことしか考えてないし。ゆっくりなんて考えられない」
その温度差がおかしくて、笑ってしまった。
でも、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、同じ道を「違う道」として歩いていることが、どこか面白くもあった。
その日を境に、ちょっとした変化があった。
それから息子は、散歩にはまっていったのだ。
勉強の合間に、ふらっとひとりで歩きに出かけるようになった。
僕が言った「頭が整理される」という言葉が、心のどこかに引っかかったのかもしれない。
そして気がつけば、知らない道の話をするようになっていた。
「あっちの道、静かでいい」とか、「あの道は夕日がきれいだった」とか。
僕が「一緒に行こうか」と声をかけると、息子はあっさりと断った。
「歩くのが遅いから嫌だ。ひとりで行く」と。
なんだか、寂しかった。
気がつけば、隣にいるはずの距離が、少しだけ遠くなっていた。
ある日、僕はひとりで「哲学の道」を歩いた。
線路の音も、歩道橋の階段も、スーパーの明かりも、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。
かつて僕だけのものと思っていた道が、息子の通学路と重なっていた。
そのせいだろうか。ここはもう、特別ではないただの道に感じられた。
僕にとっての「哲学の道」は、いつの間にか別の道に姿を変えていた。
だから僕は、また別の「哲学の道」を探すことにした。
まだ息子が知らない、ひとりで静かに考えられる道を。
もっとも——。
しばらくして見つけた新しい道も、あとから息子に聞いたら、
「そこ、友達の家に行くとき、いつも通る道」
と言われたのだけれど。
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