最後の一切れ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:國分厚彦 (ライティング・ゼミ、2026年5月開講・渋谷、4ヶ月コース)
※この記事はフィクションです。本作品の人物、施設、団体名、症例は全て架空のものであり、実在の人物とは一切関係ございません。
「……明日で10月1日か」
関東の小さな町にある介護老人保健施設「さくら園」の看護師、尾形潤は、仕事終わりの医局で日めくりカレンダーを破り、ゴミ箱へ捨てた。医局の時計は21時を回っていた。
「明日、これを寿美子に渡そう。今年中には辞めよう」
潤は退職願を手に独りごちた。急性期病院をやめ、内科医である妹の寿美子が所長を務めるさくら園に入ったものの、単調で重たい介護の仕事に、潤は疲れ切っていた。
「お疲れ様、潤兄……って、何持ってんの?」
医局に入ってきた寿美子は、兄の様子を見て眉をひそめた。
「そろそろ、ここ辞めようと思って」
「人手足りないのに困るよ。辞めた後どうするの」
「東京で肉屋のバイトでもやるわ」
寿美子はため息をついた。昔から料理人を夢見ていたが、いつまでも放蕩する兄の姿を思い出した。見かねた両親が、潤を看護学校へ入らせたことも。
「そういえば、明日、吉田精肉店の熊夫さんが入所するよ」
寿美子のそっけない報告に、潤は目を見開いた。吉田精肉店は町一番の肉屋で、二階のレストランの特製ステーキは絶品だった。潤も昔、そこでアルバイトをし、いつかあの味を作れる料理人になりたいと思っていた。しかし少しでもヘマをすれば手が飛んでくるような、熊夫の厳しい鉄拳指導に耐えられず、三ヶ月で辞めていた。
「熊夫さん、まだ六十代だろ」
「神経難病で寝たきり。呂律も悪く、むせやすい。今はペースト食、頑張って小さな固形食が限界ってとこかしら。でも『ステーキが食べたい』って聞かなくて。それで、向こうの病院で色々話し合いを重ねて、うちに来ることになったの」
「なんで?」
「潤兄がいるからよ。あの熊夫さんの厨房でバイトしてた医療従事者なんて、潤兄くらいでしょ」
潤は、寿美子の言いたいことが読みきれなかった。
◯
翌日、吉田熊夫は民間救急車でさくら園に来た。面談には寿美子、潤、熊夫、妻の和子が同席した。
「熊夫さん、お久しぶりです。潤です」
普段は気だるい潤も、熊夫の前では背筋が伸びた。熊のようだった体は痩せていた。
寿美子は静かに切り出した。
「病状を考えると、ステーキを飲み込めるようになるのは簡単ではありません。誤嚥で命を落とす恐れもあります。それでも、肉を食べたいということでよろしいですか」
熊夫は口を震わせた。
「……肉……が食べた……い……」
和子も頭を下げた。
「主人は昔から『肉が食えなくなる時が俺の死ぬ時』と言っていました。危ないということは前の病院の先生からも十分に聞いており、覚悟もしております。どうか、もう一度、ステーキを食べさせてください」
寿美子は潤を一瞬見てから答えた。
「できる限り努力します」
面談後、寿美子は潤に言った。
「潤、あんたの出番ね」
「……どういうことだよ」
「熊夫さんでも食べられる潤兄の『特製』ステーキ、よろしくね。熊夫さんの願い、叶えてあげてね」
「……そういうことか」
寿美子の意図に気づき、潤は苦い顔をした。
◯
潤は寿美子、和子、言語聴覚士たちと相談し、嚥下リハビリを続けながら、今の熊夫に食べられる形でステーキの味を再現しようとした。最初は吉田精肉店のレシピを頼りに肉汁をペースト食へ混ぜたが、熊夫は吐き出した。
「……不味い……肉への……冒涜だ……」
その目は、昔と同じ、肉に厳しい料理人の目だった。
潤は焼き加減、ほぐし方、大きさ、味付けを何度も試した。
3ミリでは喉に残った。2ミリにすると、肉の香りが消えた。脂を落としすぎれば熊夫は顔をしかめ、残しすぎれば咳き込んだ。潤は厨房の中、冷めた肉片を何度も自分の舌に乗せた。一ヶ月後、ようやく熊夫がぎりぎり食べられる調理法にたどり着いた。
「潤……これなら……食える……」
潤と寿美子は顔を見合わせた。
「一度、和子さんを呼んで、部屋でステーキパーティーをしませんか」
熊夫は力強く頷いた。
◯
11月の木枯らしの日、熊夫の部屋は折り紙で吉田精肉店の店内のように飾られた。
寿美子は熊夫の部屋に和子、潤、言語聴覚士を集めて、最後の確認をした。
入所時に書いた意思決定書を片手に、危険はゼロにはできないこと。むせが強ければ、そこで中止すること。それでも熊夫が、自分の口で肉を味わうことを望んでいることを確認した。
熊夫と和子は目を合わせ、「……お願い……します」と一言返した。
潤は、和子から託された最高級ステーキ肉を手に、厨房へ向かった。肉を前に、潤は大きく深呼吸をした。
施設のコンロでは店の焼き加減を完全には再現できない。それでも潤は、熊夫の檄、店での日々、この一ヶ月を思い出しながら丁寧に焼いた。できたステーキを、2.5ミリ程度の小さな筋繊維の塊にほぐした。熊夫が食べられる、ギリギリの大きさだった。
「お待たせしました。吉田精肉店の最高級肉を使った、特製ステーキでございます」
「……ステーキの……匂い……」
熊夫の目が輝いた。潤が一番小さな一切れを口元へ運ぶと、熊夫はゆっくり噛み、飲み込んだ。
「……うまい……俺の……ステーキ……の味……」
潤は安堵した。二切れ目、三切れ目と問題なく食べた。
だが最後の一切れを口にした時、熊夫の口が急に動いた。
「……ありが……」
潤がまずいと思った次の瞬間、熊夫は肉塊を誤嚥し、激しく咳き込んだ。すぐに吸引し、大きな塊は取り出した。
しかしその夜、熊夫は高熱と激しい咳を起こした。誤嚥性肺炎だった。抗菌薬と酸素投与が始まったが、状態は回復しなかった。
抗菌薬点滴を交換しながら、潤は熊夫の胸が上下するのを見つめていた。あの一切れを、もっと小さくできたのではないか。あの時、口元へ運ぶ手を止めるべきだったのではないか。答えのない問いだけが、指先に残っていた。
2日後、熊夫は亡くなった。
◯
熊夫の死後、寿美子は葬儀屋へ連絡し、程なくして葬儀屋が来た。部屋には内装の跡と、ステーキの匂いが残っていた。
葬儀屋が熊夫の身なりを整えている間、自責の念に沈む潤に、和子が話しかけた。
「潤くん、主人にステーキを食べさせてくれてありがとう。最期まで、神経難病患者ではなくて、ステーキ好きな肉屋の店主としていさせてくれてありがとう。主人も喜んでいると思います。これ、主人からです、どうか読んでください」
和子は涙ながらに礼を告げ、手紙を差し出した。潤が肉を焼いている間、熊夫が和子の手を借りながら、書いたという。
◯
熊夫さんたちを見送った後、潤は医局で手紙を開いた。震えた字で一行だけ書かれていた。
「潤、ありがとう」
潤は涙を拭った。
「こちらこそ、ありがとう」
そうつぶやき、ロッカーにしまってあった退職願を取り出して破り捨てた。
「お疲れ様、潤兄。……って、何してるの?」
戻ってきた寿美子に、潤は言った。
「寿美子、俺、もう少しここで頑張るよ」
潤の視線の先には、ゴミ箱の中にある破いた退職願があった。
「食べたいとか、帰りたいとか、会いたいとか。そういう最後のわがままを、ちゃんと一緒に考えられる場所にしたい。それが、俺なりの、熊夫さんへの餞になるから」
寿美子は一瞬真顔になり、それから少し笑った。
手紙からは、まだほのかにステーキの匂いがしていた。
《終わり》
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