メディアグランプリ

『愛おしき分身たちの地層学』


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:智野のどか(26年9月ライティングゼミwithAI)

 

 実家の父の部屋には、絶対に触れてはならない結界があった。

四方の壁を埋め尽くす本棚は、とうの昔に限界を迎えていた。並んだ本の背表紙の上に、横向きで別の本がぎっしりと差し込まれている。隙間という隙間が黒々とした文字のブロックで塞がれていた。本棚から溢れ出した本は、床を容赦なく侵食していった。二段、三段と高く積み上がり、足の踏み場を奪うように不気味な塔がいくつも乱立する。机の上も異様な光景だった。最初は作業スペースを空けて脇に積んであったはずなのに、いつの間にか重力に負けて派手な雪崩を起こし、机の半分を呑み込んでいた。

 幼い私は、その部屋に入るのが怖くて仕方がなかった。

足を踏み外せば本の雪崩に呑み込まれ、二度と出てこられない底なし沼のように見えたからだ。

 だが、本当に異様だったのは、部屋の荒れようではなかった。そんな部屋の主である父が、平日の夜や休日の夕暮れ、決まって書店の紙袋を提げて帰ってくることだった。緑や茶色の見慣れたロゴが入った、ずっしりと重い紙袋。玄関先で靴を脱ぐ父の口元には、いつも得体の知れない優越感と、深い満足が張りついていた。「ただいま」と言いながら、その紙袋をそっと部屋へ運び込む。

 袋から出して表紙を眺め、パラパラと数ページめくっただけで、あの雪崩の頂点へ供物のようにそっと積み足す。中身を二度と開く気配はない。積むためだけに、父は本を買い続けていた。

 あの満足げな横顔を、私は底知れないものを見る冷ややかな目で睨みつけていた。

 だが、時が経ち、自分が大人になって初めて知った。我が身に降りかかった現実は、あまりにも滑稽だった。

 ふと我に返ると、私の部屋の机の上にも、まったく同じ雪崩が起きていたのだ。仕事帰りに立ち寄った駅前の本屋。平積みの棚で目が合った瞬間、胸の奥が痛む。

「今買わなければ、忘れてしまって二度と出会えないかもしれない」

 足早にレジへ向かい、紙袋を受け取る。

指先に伝わるずっしりとした重み。その瞬間、体中にすーっと安らぎが広がっていく。

手に入れた。これで大丈夫だ。

 私はまだ、前に進もうとしている。そうして手に入れた「安心」を抱えて帰宅する。

 だが、現実は忙しい。

買ってきたときの熱狂は、翌朝の仕事や家事に追われるうちに冷めていく。

どれから読もうかと迷い、開かないまま週末が訪れる。

 「これは仕事用」「これは小説」「これは後で読むもの」机の上の本タワーを分類し、並べ替えただけで、なんだか本の内容を半分くらい吸収した気になって終わるのだ。

そして本には、残酷なほど明確な「旬」がある。買ったその瞬間に開かなければ、自分の関心も、心の悩みも、少しずつズレていく。

机の上で冷めきったスープのように色褪せていく本たち。読めもしないのに、また買ってしまった。机の上の雪崩を見つめるたび、情けなさが胸をかすめる。私はかつて父に向けていたあの冷たい視線を、そのまま自分自身に突き刺していた。

 けれど、ある休日の午後、何気なく机の上の雪崩を見つめ直したときだった。背表紙の文字をぼんやりと下から順に追っていて、ふと指が止まった。一番下にあるのは、仕事で壁にぶつかり、必死にもがいていた時期に買った専門書。真ん中にあるのは、新しい暮らしを始めようと胸を躍らせていた頃のエッセイ。そしててっぺんにあるのは、誰にも言えない不安を抱え、すがるように手に取った哲学の本。

 これは、だらしなさの証拠などではない。

積読とは、「変わりたい自分」「なりたい自分」が積み重なった、日々の地層だったのだ。その時々で、自分が何に傷つき、何に憧れ、どんな人間になりたいと願っていたのか。背表紙の並びそのものが、過去の私が懸命に手を伸ばしていた痕跡だった。

 父もきっと、同じだったのだ。

理想の自分や、なりたい自分を目指して。

足りないところや憧れを、あの読まない本たちでそっと補いながら、仕事に追われる毎日とのバランスを懸命に取っていたのだと思う。

 そう腑に落ちた瞬間、胸の奥を塞いでいた重たい石が、音もなく消えていった。

私は本棚から数冊を抜き出し、足元の段ボール箱へと降ろしていく。一ページもめくっていない背表紙たちを、迷うことなく詰めていく。ガムテープを引く乾いた音が、部屋に小さく響く。

 片付いた机の上に、柔らかな午後の光がまっすぐに差し込んできた。身軽になった手元には、いまの私が一番読みたい、新しい一冊だけが静かに開かれている。

 

<<終わり>>

 

 

 

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