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週刊READING LIFE vol.23

あした、新宿で愛は死ぬ《週刊READING LIFE「10 MINUTES FICTIONS〜10分でサクッと読める短編小説集〜」》


記事:水峰愛(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

iPhoneの縦長の画面をスクロールしながら、指の感覚が麻痺してゆくのを感じた。
胸の真ん中から発した絶対零度の怒りと嫉妬は、体を一瞬にしてすみずみまで凍りつかせ、急激に体の温度を奪ってゆく。
口の内が急激に乾き、唇がひび割れるような気がした。
体は凍結しているのに、情報を処理する脳だけが忌々しいまでに活性化していて、私の神経は、逃れようの無いちいさな箱のなかへぎゅうぎゅうに詰め込まれてゆく。へたり込みそうな身体をよそに、頭の中の小さなモーターだけがオーバーヒートしながらシューシューと空回りをしている。
 
その理由は、先ほどから血の気の引いた指で握りしめているこのiPhoneだ。
冷たい汗で滑るこの通信機器の四角い画面に切り取られた情報なのだ。
 
「今週から入った新人スタッフのご紹介です。咲野まゆきちゃんは地下アイドルとしても活躍する22歳。気配り上手な女の子です。店内で見かけたら、ぜひ声をかけてあげてくださいね」
 
レール式の扉がガタガタと叩かれる音を聞いて、我に返った。
私は、自分が今コンビニのトイレに下半身を丸出しにして腰掛けていることを思い出す。急いで立ち上がっておざなりに局部を拭き、下着とタイツを上げ、レバーを「小」の方へ回して水を流し、バッグを置いている洗面台の前に立つと、あからさまに無機質な蛍光灯の下で、微量の鼻血を流している自分が鏡に映った。
赤色の色素を吸収してしまうらしい無機質な蛍光灯の下では、なぜか鼻血も青っぽく見えた。私は激情に駆られると、こうして昔からときどき鼻血を出す。
よく覚えているのは小学生の頃だ。
3学年下の弟が、観光地のおみやげに買って貰った名前入りの爪切りを同級生に盗まれた。私は怒りに駆られ、盗んだ同級生を問い詰めたのだが、彼は当然のごとくシラを切り通した。私は蝮のようにしつこく彼のクラスに通い詰め、あるいは登下校時に待ち伏せをして、爪切りを弟に返却するように督促し続けたのだが、ある日彼は何を思ったか私の目の前で、その爪切りをポケットから取り出し、校庭の横を流れるドブ川に投げ捨てた。
あの時の彼の「ざまぁみさらせ」という薄ら笑いを目にした瞬間。「そもそも俺はお前が大嫌いなんじゃ」と言わんばかりの、ピュアな憎しみに貫かれた冷徹さの発露に触れた瞬間、私は鼻血を流しながら彼に殴りかかっていた。
 
朦朧とする意識のなかでトイレットペーパーを巻き取り、それを水道水で湿らせて、半分乾いたその鼻血を拭き取る。それをゴミ箱に放ると、化粧ポーチのなかからファンデーションを取り出して、鼻の下を伸ばしながらペタペタと塗り、簡単に手を洗って、能面のような顔で個室を出た。
若いサラリーマンが、迷惑そうな顔で立っていたが、気遣う余裕は当然ながらない私は、一礼もせずに、彼の側をすり抜けた。
コンビニを出ると、タバコ屋の店先のベンチが目に入った。私はふたたび、そこに腰掛けた。というよりも、へたり込んだ。
そして、大きく息を吸って吐いて空を睨む。
冷たい世界に光を降らせるような、高くて青い、冬の空。頭上に広がる青空を眺めていると、身体のなかを毒性の霧みたいに充満していた苦しみが徐々にこぶし大の玉となって胸に降りてきた。
「苦しい」
声に出してみると、その玉は胸のなかで呼応して、ズキズキと心臓を圧迫した。
 
ブログを開設している「ワイルドサイレンス」という新宿のバーには、一度だけ行ったことがある。
シモヅさんとの距離が今夜でどれだけ縮まるか、というスリリングでロマンチックな夜、彼は私をその店に誘った。
「暗闇で感じる官能」がその店のコンセプトらしかった。
キャンドルのおぼつかない光の中にぼんやりと浮かび上がる店内にはカップルしかおらず、私たちは窓際のペアシートに通された。
ギムレットを2杯飲んで、それからシモヅさんとキスをした。
それぞれの欲望がふつふつと暗い店内を回遊していた。
あの夜、匿名の人いきれに紛れて、私も甘い毒のカプセルを奥歯で潰したのだった。唇を重ねたとき、彼と知り合ってからずっとほのめいていた背徳の予感が量感を持った波となって私のなかに押し寄せた。ひどく悪いことをしている気分だった。そして、ひどく気持ちがよかった。
「彩子ちゃんのことが、好きだよ」
私よりも7つ年上のシモヅさんは、少年のようにストレートにそう言った。
「だったら、私はあなたの完全な愛人になります」
なぜそんな不器用な答え方になったのか、いまでもはっきりしない。彼が既婚者だったからかもしれない。
ただ、シモヅさんの大きな手で肩を抱かれて店を出るとき、店の奥から出てきたオーナーと彼が軽い挨拶を交わしていたことを覚えている。聞けばオーナーの彼もフリーライター仲間で、兼業として「ワイルドサイレンス」を開いたのだそうだ。だから私が2ヶ月前、仕事の人間関係に悩んで退職しようかという相談をシモヅさんに持ちかけたとき、彼は
「あのバーのオーナーに掛け合って、彩子が働けないかどうか聞いてみてあげるよ」と言ったのだ。
それから季節が変わって冬になった今も、私は水道橋で意地悪なパート女性に嫌味を言われながら古文書の管理を続けている。
そして、私が悪夢のような職場から離脱して行き着くはずだった場所には、べつの女の子が収まった。私よりも10歳近く若い、地下アイドルの女の子が。
 
彼女をその店にねじ込んだのは、シモヅさんであることは明確だった。
彼女の特集記事をシモヅさんが執筆し、バースデーイベントを企画し、彼女のブログをSNSで拡散するなどのまめまめしい宣伝行為を少し前から行うようになっていたことを私は知っている。不穏な気持ちでそれらの更新情報を見守っていたら、職場の世話までしてやっていた。愛人へ出すはずの助け舟を進路変更させて。
認めたくはないけれど、以前のように彼が帰り道に電話をくれなくなったことも、デートに誘っても仕事を理由に断られることが多くなったのも、これですべてに説明がつく。
 
仕事に行かなくてはいけない。忘れていたが、私は出勤途中なのだ。
のろのろと立ち上がり、1日ぶんの体力をすでに消耗した陰鬱な足取りで、長い坂道を登り始めた。
10分ほど遅刻をして職場に到着すると、新聞をスキャニングしてデータ化するための撮影準備を担当するサカガミさんが、パキスタンの新聞紙にアイロンをかけているところだった。
「すみません、貧血で、途中で動けなくなってしまいまして」
あながち嘘ではない微妙な言い訳をしながら席に着く。電車の遅延で遅刻したり、用事があって残業できない日など、サカガミさんはいつも化粧の濃い顔を白々しく取り澄まして、「あらそう、まぁ仕方ないわよねぇ」などと他のパート女性に感じの悪い目配せを送ったりするのが常なのだが、今日は何も言わなかった。私をちらりと見遣って、「おはようございます」と、不自然な敬語を使い挨拶をしただけだった。
私は横浜市の土地の所有権に関する膨大な資料をリスト化するためにカタカタとパソコンを操作し、向かい合ったサカガミさんは5センチほどの暑さに重ねた異国の新聞紙にアイロンをかけ続けた。
新聞紙はめくるごとに顔の濃い中東の男性の顔写真がどこかしらに掲載されていた。
サカガミさんが、何かをチェックしながら新聞の束を何度もめくったり戻したりする手元に時々目をやるたび目に入るそれらの男性は、どれも中東男性のスタンダードに見えて、見分けがつかない。しかし当たり前に彼らにも彼らの人生があって、愛憎の沼でドロついている愛人のひとりやふたり、いるかもしれないのだ。
さきほどブログで確認した、咲野まゆきの姿が私の頭からは片時も離れない。
地下アイドルとはこういうものなのか、という感慨を私に呼び起こさせる、テレビに出るアイドルの仕草や髪型や服装をモノマネのように模倣しながらも、そこから本職の彼女たちの持つ華やかさや不可侵なオーラのようなものがすっぽり抜け落ちた、不自然と自然の辺境をゆく不思議な印象の女の子だった。
 
サカガミさんが手繰る新聞紙に掲載された様々な顔は、そのうち私の顔、咲野まゆきの顔、というふうに変形してゆき、私の顔とブログに掲載されていたまゆきの顔が、新聞紙をめくったり戻したりするたびに、私、まゆき、私、まゆきという風に交代ごうたいに現れるのだった。私、まゆき、私、まゆき、三十路、アイドル、三十路、アイドル、鼻血、アイドル、鼻血、アイドル。
古い女、新しい女、古い女、新しい女。
発狂しそうになった私はよろよろと立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。
 
会社のトイレの小さな窓からは、東京ドームシティのアトラクションが見える。
ジェットコースターや観覧車、立ち乗りゴンドラがせわしなく動く様を、薄暗い個室でぼうっと眺めていた。
青と赤の観覧車に巻きつくようにジエットコースターのレールが伸びていて、定期的にそのレールを、蛇のように滑らかな動きでカートが走り抜けていった。その度に、レールを車体が滑る地鳴りのような音と、人々の悲鳴が届いた。
私は昔から、ジェットコースターに乗れない子供だった。恐怖という刺激を、どうしても快感に変換できないのだ。だから、絶叫マシンの類も、お化け屋敷も、軒並み避けてきた。高いところも苦手だから、観覧車もあまり好きではない。
どうしてみんな、お金を払ってまで怖い体験をしたがるのか、不思議でならなかった。
それなのに私は、ジェットコースターどころではないリスクを払ってまでひとつの愛を欲しがっている。
他の社員がトイレに入ってくる気配があって、私は慌てて個室を出た。鼻血は垂らしていなかったが、目の下には「疲弊」を絵に描いたような隈が刻まれていた。
 
部屋へ戻る途中、ロッカールームに立ち寄ってiPhoneをチェックすると、メッセージの着信を通知するアラートが灯っていた。シモヅさんからだった。
 
「明日、すこし会えるかな?話がある」
 
その後、自分がどんな仕事をしたのかは、はっきり覚えていない。
いつものようにルーティーンをこなし、タイムカードを押して、会社を出た。
 
気がつけば、すっかり日が長い。
先月まで、この時間は真っ暗だったことを思いながら、会社から水道橋駅までの道を歩く。
片側三車線の都道を隔てた向こう側には、白の大きなドームが見えて、私はいつも曲がる横断歩道を通過して吸い寄せられるようにその丸のある場所へ向かった。
 
遊園地の入り口は、たくさんの人々で賑わっていた。
トイレに篭って見た景色と、それはまるで別ものだった。子供達のはしゃぐ声と、風に乗って運ばれるポップコーンの甘い香り。色とりどりの鮮やかな看板に、銀色の風船。
「カナイさん?」
声をかけられて、思わず振り返る。サカガミさんだった。家族連れや若いカップルに混ざって、黒のつるつるしたダウンコートに猫の顔が描かれたトートバッグを下げたサカガミさんが立っていた。
「サカガミさん、どうしたんですか」
「カナイさんこそ、何してるの」
「会社の近くにこんな遊園地があったのに、一度も来たことがないなと思って」
「私もよ、今日初めてきたわよ」
そういって笑ったサカガミさんは、いつもの威圧的で意地悪なサカガミさんではなくて、どこにでもいるやや派手な中年女性に見えた。
彼女はたしか主婦だったはずだ。家族の夕飯を準備するために、退勤したあとは急いで帰宅していたと記憶しているが。
「なんか、夜は安いらしいのよ、こういう遊園地って」
「そうみたいですね」
夜間営業が始まってカップルが増え始めた施設の入り口で、特に仲良くもない大人の女2人がよそよそしく立っているのが滑稽で、気まずい空気が流れ始めたところに、サカガミさんが言った。
「あれ、乗ってみようか」
サカガミさんが指差した先には、トイレから見える例のジェットコースターがあった。いままさに轟音と共にカートが滑り落ちていく。夕暮れの空の中に。近くで見ると、それはまた別格の迫力だった。
ごくりと生唾を飲み込む音が、自分でも聞こえた。
「いいですよ、乗りましょう」
その答えに、一番驚いていたのは私自身だった。
 
その乗り物の名前を、「サンダードルフィン」と言うらしい。
私たちは、こともあろうか乗り物の最前列に乗せられ、今まさに安全レバーが下されたところだった。係員のアナウンスが流れ、ゆっくりとカートが出発する。
カタカタカタカタと規則的な音を立てながら、冬の空に向かって乗り物は上昇する。信じられないような高さのあの頂上まで、容赦無く登っていく。ぎゅっとレバーを握りしめた掌は、すでに汗でびっしょりで、心臓がどきどきと鳴った。ちらりとサカガミさんを見たら、彼女も強張った笑顔を一瞬こちらに向けた。もっとも、風でざんばらになった髪で、その表情はほとんど見えなかったのだけれど。正面を向き直り、おもむろに私は言った。
 
「明日、彼氏と別れるんですよ」
サカガミさんからの返事はない。聞こえていないのかな? と思い、もう一度横を見ると、
「あたしは、昨日、旦那と◯◯◯◯よ」
風が強くて彼女の声が聞き取れず、「え!?」と、聞き返す。
また、すこしの間。
「り、こ、ん! 若い女と、逃げたの、よ!!!」
そう言い終わるが早いかどうか、体が宙に浮いた。うしろから、絶叫が覆いかぶさる。「死ぬ」と私は思い、安全レバーを力いっぱい握りしめて目を閉じた。轟音と共に、信じられないようなスピードで体が振り回される。回転したり、滑りおちたり、それは体験したことのない刺激と恐怖だった。
「死ぬ! 死ぬ! 死ねー!」隣で絶叫するサカガミさんの声を聴きながら、私は真っ暗な世界でひたすら風と音を感じていた。

 
 
 

私がシモヅさんを好きだったのは、彼が、私を別世界に連れ出してくれるように思えたからだ。
彼が見せてくれるもの、教えてくれること、それらのすべてが刺激的で新鮮だった。
だから私は、彼が運転するカートの助手席で、ずっとはしゃいでいたかった。
 
しかしけっきょくの所、自分が宣言した「完全な愛人」になれたかというと、その無謀な挑戦は完膚なきまでに破綻した。
素直な気持ちを伝える代わりに、わざとシモヅさんからの連絡を無視し続けてみたり、「いまは会いたい気分じゃないの」と誘いを断ったり、挙句べつの人とデートをして、明け方に「男と遊んでたから迎えにきてよ」などと無理を承知で当てつけたりした。
傷つくのが怖かったからだ。
私と同じ分量の「好き」を彼が返してくれないことを、本当は知っていたから。
そして心を守るための的外れな決意をしてしまったがゆえに、行き場の無くなった「好き」は歪んで腐敗して悪臭のする汁を漏らしながら2人の関係を蝕んでいった。
こんなことになるくらいなら、最初から言えばよかったのだと今なら思う。
「あなたをとても好きで、あなたなしではいられない」のだと。ふたりの関係性がどんなものであっても、またあなたが私を愛していようがいなかろうが、あなたを失った世界で私は生きては行けないのだと。
私を傷つけることができるのは世界であなただけなのだと。
伝えればよかった。まともに傷ついてでも、どれほどあなたが私の人生を変えてくれたか、どれほど素敵な世界に私を連れて行ってくれたか。
 
けれど本当は気づいていたこともある。
いちばん大切なのは、自分の行きたい場所には自分の足で行くことだ。
 
すっかり暗くなった遊園地の売店で、私とサカガミさんはポップコーンを買った。それを食べながら、ゲートまで歩く。
「あー、もう晩ごはんの用意しなくてもいいんだと思うと、せいせいするわ」
晴れやかに言ったサカガミさんは、まだたぶんめちゃくちゃ傷ついているはずで、でもほんのすこしずつでも、毎日の暮らしの中で自分を立て直してゆけることも、同時に確信しているはずだった。
「今日、誘ってくださって嬉しかったです。ほんとによかった」
私はそう言って、笑った。彼女も笑って、それで、「がんばろうね」と、私の目を見て言った。
「じゃあ、また」
そう言って別れた私たちは、明日また同じオフィスで顔を合わせる。そして同じような仕事を黙って繰り返す。多分、とくに仲良くもない、いままでの2人に戻って。
冷たい冬の夜空に、白い息が溶けてゆく。その向こうには、薄墨を流したように頼りない東京の夜空が広がっている。
1人になった私は、バッグからiPhoneを取り出す。そして、シモヅさんとのLINEの画面にこう打ち込んだ。
 
「会いましょう、明日、新宿で」

 
 

❏ライタープロフィール
水峰愛(Mizumine ai)

1984年鳥取県生まれ。2014年より東京在住。
化粧とお酒と読書とベリーダンスが趣味の欲深い微熟女。好きな言葉は「色即是空」。

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2019-03-11 | Posted in 週刊READING LIFE vol.23

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