週刊READING LIFE vol.250

胸の高鳴りは血糖値と同じだ、と気づかされた一日《週刊READING LIFE Vol.250 この高鳴りをなんと呼ぶ》

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*この記事は、「ライティング・ゼミ」の上級コース「ライティングX」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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2024/2/19/公開
記事:青山 一樹(ライターズX)
 
 
「明日は、13時15分には産婦人科病棟に来てください。少し早いかもしれませんが、手術前の奥さまと、確実にお会いできますよ」と、私は看護師から言われた。いよいよ妻の帝王切開の手術日時が決定した。
 
翌日、私は、胸の高鳴りを抑えきれず、12時50分に、妻が入院する病院の産婦人科病棟へ到着した。そして、ナースステーションに居る看護師に、妻の名前を伝えた。「奥さまの担当の看護師に伝えますので、そのまま病棟を出たところ、エレベーターホールでお待ちください」と、その看護師は答えてくれた。
 
13時30分には手術が始まる。その30分後には、妻の胎内から娘が取り出される。そうすると、私は、14時には父親になっている。と、私はエレベーターホールにあった、折りたたみ椅子に座りながら、娘が産まれる時刻を計算していた。
 
「47歳で、やっと父になる!」という胸の高鳴りを抑えることができない。しかし、どれほど待っても、妻が病棟から出てくる気配がない。前に行われている手術が終わらないだろうか。焦った私が、時計を見ると、まだ13時15分だ。「少し早いかもしれませんが」と言われた時刻だった。いつの間にか、私は胸の高鳴りを感じなくなっていた。
 
私の職業は製薬会社の営業だ。仕事柄、医療関係者に待たされることには慣れている。過去には、担当先の病院で3時間50分も待たされたこともある。この日は、まだ20分しか待っていない。しかし、この20分が2時間にも3時間にも思えてしまう。「父になる」という胸の高鳴りが、時間の感覚を鈍くさせるのであろうか。
 
「まだか、まだか」と妻を待ち、時計の針が13時50分を指したころ、私は化粧室へ行きたくなった。産婦人科病棟に、男性用の化粧室はない。私は、1時間も待たされている、そしてトイレを我慢している、という二つのイライラを、通りすがりの看護師にぶつけた。まるで、低血糖で不機嫌になっている人のように。
 
「1時間も待っていますが、いつ妻の手術は始まりますか?」
「まだ始まらないのであれば、化粧室へ行ってもいいですか?」
「それで、化粧室はどこにありますか?」
と、かなりキツイ口調で、何の罪のない看護師へ矢継ぎ早に質問を浴びせてしまった。
 
糖尿病の患者さんが不機嫌になるのは、血糖値が高いところから低いところへ、急激に変化する。つまり、血糖値の乱高下が、精神的な不安定をもたらすから。というのを学んだことがある。この時の私は、糖尿病患者と似ていた。最高潮まで達した胸の高鳴りが、急に低いところまで落ちてしまった。エレベーターホールで、放置されたことによって。
 
産婦人科病棟は8階、そして男性化粧室は2階だった。行きも帰りも、なかなかエレベーターが来ない。高鳴りが乱高下している私にとって、化粧室への往復の10分ですら、とてつもなく長い時間に思えた。そして、更に私はイライラを募らせた。
 
仕事で4時間近く待たされてもイライラしないのに、プライベートで1時間待たされるとイライラしてしまう。エレベーターが来るのを待ったのは、わずか10分だ。その程度のことで、私は不機嫌になっている。しかし、この怒りを抑える方法が思いつかず、私は、医療従者へ自分の感情を、ぶつけることしかできなかった。仕事とプライベートで真逆の顔を持つ自分が、何だか恥ずかしくなった。「父になる」という胸の高鳴りが、乱高下していることが原因と分かりながら。
 
化粧室から病棟へ戻ると「これから奥さまが、手術室へ向かわれますよ!」と、不機嫌な顔をしている私に、気を遣いながら看護師が伝えてくれた。時計を見ると14時15分だった。予定より約1時間遅れて、妻はエレベーターを使って、病棟から手術室へ向かった。
 
普通分娩とは違い、帝王切開は、家族の立ち合いが禁止されていた。私は、引き続き、産婦人科病棟のエレベーターホールで待機した。今度は、14時30分に手術が始まり、15時には娘が取り出される、という計算をしながら。そして、胸の高鳴りの復活を感じ始めた。
 
エレベーターホールのソファに座り、ふと右側を見た。そこには「分娩室」と書かれた表示があった。病棟と手術室は離れた場所にあるが、分娩室と病棟は同じフロアにあった。分娩室の前に、妊婦の母親と思しき夫人が居た。その女性は「まだかしら。遅いわね!」と、イライラした様子で、何回もひとり言を呟いていた。
 
娘さんが分娩室に入ってから、何時間も経過しているのだろうか。初孫が、なかなか産まれて来ないのだろうか。「祖母になる」という思いと、これらの不安要素が絡み合い、私と同じように胸の高鳴りが乱高下しているのだろうか。と、このご婦人の立場を想像していた。
 
時刻を確認すると、15時15分だった。手術室からは、まだ連絡が来ない。難産なのだろうか。妻と娘に何かあったのだろうか。と、妻を手術室へ見送った時の希望と期待はすっかり忘れ、私は不安に包まれた。気晴らしに、友人・知人とSNSで、メッセージを交わしたかった。しかし、エレベーターホールは、ネット環境が悪かった。メッセージがエラーとなり、送信できない。復活したはずの胸の高鳴りは、影を潜めた。再び、高鳴りが乱高下してしまった。
 
エレベーターホールで2時間以上も待たされる。その間に、胸の高鳴りが何回も乱高下する。糖尿病患者で、これ程までに、血糖値が乱高下すれば、血管が破裂してしまうに違いない。そう考えている私の感情も破裂寸前だった。しかし、私より先に感情を爆発させた人がいた。それは、分娩室の前に居るご婦人だった。
 
「遅いじゃないの!何をしているの!」と、ひとり言を呟いていた女性が、感情を爆発させている。分娩室から出てきた義理の息子に向かって。立ち合い出産に臨んでいた息子の方も、困った顔をしながら、義理の母に状況を説明している。どうやら通常分娩では出産できず、緊急帝王切開に切り替えるみたいだった。その後、すぐに分娩室から妊婦が出てきた。そして、車椅子に座らされ、エレベーターに乗り、手術室へ運ばれていった。
 
その姿を目の当たりにした、私と義理の親子の3人は、横並びにソファへ腰を掛けていた。誰もが口を開かず、重々しい空気が流れていた。まるで、低血糖の「無気力」という症状が出ているかのように。われわれ3人は「父になる」、「祖母になる」という胸の高鳴りの乱高下に、翻弄され続けていた。そして、生命の誕生に遭遇する前に、すでに疲れ果て気力を失っているように思えた。その時、時計の針は15時30分を指していた。
 
帝王切開を行う手術室は1つしかない。私の妻の手術が終わらないと、この家族の手術は始まらない。この家族は、私よりも長い間、新しい命の誕生を待たなくてはならない。しかも、通常分娩から緊急帝王切開に切り替わった。不安や焦りは、私以上にあるはずだ。そう考えると、私は、この日、何度目かの胸の高鳴りを感じた。
 
15時36分、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。手術室から出てきた看護師だった。その看護師が、保育器を押して、赤ちゃんを連れてきた。いよいよ娘との対面の瞬間である。「保育器の外から、写真を撮ることもできますよ!」と、その看護師は私に言ってくれた。
 
私は、カバンからスマートフォンを慌てて取り出した。しかし、「早く写真を撮らなければ!」、「綺麗な写真を撮らなければ!」というプレッシャーのため、私は自分の指を上手く動かすことができなかった。カメラのボタンを押すどころか、スマホのロックですら解除できなかった。やっと娘の写真を撮る準備ができた。しかし、その時、娘は私のデバイスではなく、別の方向を見ていた。
 
娘の視線の先には、先ほどまで同じソファに座っていた義理の親子が居た。「こっちじゃないよ~」と、ご婦人が優しい声で、私の娘に話しかける。しかし、娘はその親子を見続けていた。私とその親子の3人は、顔を見合わせて笑った。娘が私のスマホから目を背けた瞬間、3人の不機嫌は一掃された。まるで、血糖値が正常範囲でコントロールされているかのように。その場の雰囲気は、和やかになった。娘が、われわれ3人の前に姿を現したのは、5分足らずだった。短時間ににもかかわらず、娘のおかげで、3人の胸の高鳴りは正常値を示した。
 
私は、妻の手術が終わったという連絡を受けた。そして、直ぐに手術室の前まで来るよう、指示を受けた。私は、再びエレベーターを使い、手術室の近くへ向かった。今回も、なかなかエレベーターが来なかったが、私は不思議とイライラしなかった。娘のおかげで、胸の高鳴りが正常値を保っていたからだった。
 
手術室から出てくる妻と、再開した。私は妻に「ありがとう。長い間、よく頑張ったね」と言葉をかけた。妻は8カ月もの間、自分の胎内で娘を育て、そして出産してくれた。その思い出を振り返った瞬間に、私の胸の高鳴りは再び最高潮に達した。妊娠から出産に至るまでの、妻の喜びと苦労を想像したからだ。
 
手術室から出てきたばかりの妻は、ベッドに横たわったままだ。しかし、そのベッドには、タイヤがついている。今回は、一緒にエレベーターへ乗り、産婦人科病棟まで戻る。病棟に戻れば、この日は妻と別れなければならない。私は心の中で「エレベーターよ、永遠に来ないでくれ」と祈った。病棟から男性化粧室へ向かう時とは、真逆の気持ちに私は支配されていた。「母になった」、「父になった」という最高潮の胸の高鳴りを、少しでも長い間、二人で共有したかった。
 
病棟の入り口まで妻を見送り、私は帰宅の途に着いた。病院を後にする際、ソファで一緒に座った義理の親子に、温かく見送られながら。しかし、家に着いても「父になった」という高鳴りは、最高潮のまま治まる気配がない。
 
これは、糖尿病で言うところの高血糖状態だ。この状態が続くと、今度は急激に低下する。そうすると、不機嫌や無気力の状態になる。それを避けるために私は、家族・友人・知人・同僚に連絡を送り続けた。「元気な女の子が産まれました!」というメッセージとともに。最高潮の胸の高鳴りを、ゆっくりと低下させる方法として。
 
1つ気がかりなのは、妻の産後の体調だった。「病棟へ娘が運ばれて来たのが遅かったのは、かなりの難産だったのでは……」という懸念があった。しかし、それは翌日に解消された。娘が産まれた時刻は14時56分、手術開始から20分ほど経った頃だった。これ以上にないくらい、順調な手術というのを、妻から教えてもらった。
 
娘が産まれて1ヶ月が経過した。この間、「父になれた!」という胸の高鳴りは治まったことがない。しかし、その高鳴りが乱高下したこともない。乱高下によって、不機嫌や無気力な状態になると、そこで育児がストップしてしまうからだ。
 
毎日のミルク・オムツ・抱っこという習慣が、私の胸の高鳴りを正常値に保っている。食物繊維の接種が、糖の吸収を穏やかにする。それと同様に、毎日の育児が、私の胸の高鳴りを穏やかにしてくれているのだ。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青山 一樹(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

三重県生まれ東京都在住
大学を卒業して20年以上、医療業界に従事する
2023年4月人生を変えるライティングゼミ受講
2023年10月よりREADING LIFE編集部ライターズ倶楽部に加入。
タロット占いで「最も向いている職業は作家」と鑑定され、その気になる
47歳で第一子の父親になり、男性育児記を広めるべく、ライティングスキルを磨き中

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2024-02-14 | Posted in 週刊READING LIFE vol.250

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