週刊READING LIFE vol.250

熱海で推し活、尾形光琳の紅白梅図屏風を訪ねて《週刊READING LIFE Vol.250 この高鳴りをなんと呼ぶ》


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2024/2/19/公開
写真出典:MOA美術館
記事:杉村五帆(READING LIFE公認ライター)
 
 
「毎日が、楽しくて仕方ないの!」
 
女友達と久しぶりにカフェで会ったときのことだ。席に座るなり彼女は周囲が振り向くほどの高いトーンの声でそう言った。目の前にいるのは昔の会社の同僚で、いつもなら人見知りで話下手な私の言葉に静かに耳を傾けてくれるところが数年来のつきあいにつながっていた。しかし、今日は別人のようだ。服装と化粧はうって変わって華やかで止めどなく言葉があふれだしてくる。
 
その変化の理由は、昨年からある俳優の推し活をはじめたからであった。演じても歌っても絵になる年齢不詳の男優の姿がすぐに頭に浮かんだ。彼女は彼の舞台に足を運んでから虜となり、今年に入ってからは有給を使い泊りがけで全国ツアーの行脚をしているのだという。本来、彼女を誘ったのは私の仕事の愚痴を聞いてもらいたいと思ったからだ。しかし、満面の笑顔と弾丸トークに出鼻をくじかれた。「すごいね」と言うと、
 
「だって、会社より大事な”推しごと”だから」
 
そう返答する彼女の目は潤み、頬は上気して、髪から足まで全身を女性ホルモンがかけめぐっているように見えた。結局、終始彼女の推し活の聞き役となって別れた。それでも収穫は大きかった。好きなものを全力で追いかけるという姿勢を長い間忘れていた自分に気付いたからだ。推し活は人をパワフルで行動的にする。そうか、私も愚痴を言う前に推し活をして元気になろう。そのほうが心身にずっと健康的だ。そうして思い出したのがかつて恋焦がれた、ある男性の存在だ。
 
推しの名は、江戸時代の工芸作家で尾形光琳という。彼の作品は、屏風から工芸品まであるが、金色が使われているものが多くパッと見は豪奢で大胆に見える。しかし、向き合うほどに日本人のDNAに訴えかけるような奥深さが感じられるのが特徴だ。私にとって世界で最もセンスが良い人ベスト3に入るだろう。好きすぎて彼の名前を見ると金粉にまみれたように4文字がキラキラと踊って見える。
 
出会いは、10代のときだ。母が購読していた家庭画報という雑誌で彼の傑作の一つ『燕子花図屏風』(かきつばたずびょうぶ)を見たときのことだった。金色の背景にリズムを刻むように配された群青色の燕子花の美しさが四六時中頭から離れなくなった。学校の美術のクラスの自由課題では拙い技術で模写に挑戦して提出したこともあった。大人になってからは、京都にあった彼の住まい跡を見に行ったり、作品が収められた美術館を訪ねたり、それをきっかけに日本文化に興味を持って茶道を習ったりした。その都度、感動して写真をたくさん撮りあとから何度も眺め、次はどこへ行って何を見ようかと夢想したものだが、徐々に仕事の忙しさが勝って何かを追いかける気力を失っていった。
 
女友達との会話をきっかけに尾形光琳への思いがよみがえり、そういえば彼の最高傑作である『紅白梅図屏風』(こうはくばいずびょうぶ)をまだ見たことがなかったのに気付いた。これは、熱海のMOA美術館に収められている国宝で年に一回、梅が咲く時期の約一カ月間だけ展示される貴重な作品だ。折も折、ちょうど2月に入り美術館で展示が始まったところだ。私の推し活をあらためてスタートするには最高のタイミングだった。「今週の金曜は休みをとって見に行こう」と決めた。若い頃のように久しぶりに胸が高鳴り、何かを求める熱い欲望が自分のなかに湧きだすのを感じた。衝動的にオンラインで前売りチケットを買うと胸の高鳴りはさらに激しくなった。その週は取引先の𠮟責を受けたり、不意の残業の発生や苦手な同僚と同席するミーティングなど、いつもの自分ならヘトヘトに疲弊してしまう出来事も尾形光琳に会えると思うだけで難なく乗り切ることができた。
 
当日がやってきた。MOA美術館が開館する朝9時半から逆算して品川で早めのJR東海道線に乗った。今回は思い切ってグリーン車をとった。新幹線だとさらに値段が高いし、乗車時間が短すぎる。尾形光琳に会うには、禊のごとく静かに心を落ち着かせ、細部まで観察できるように脳内を清める時間と空間が必要だったからだ。
 
早く着く電車を選んだのにはもう一つ理由があった。MOA美術館は高台にあり、周囲を梅林に囲まれている。美術館へはバスも出ているが、今回は自分を理想を追い求める修行僧に見立てて歩いて登ってみようと決めた。それに『紅白梅図屏風』を見る前に本物の梅を道すがら愛でるとは、なんて粋なのだろう。そばに尾形光琳がいたら「それ、いいね!」と言ってくれるに違いない。途中は急な坂が続くが、振り返れば相模湾が光っている。さらに冬ならではの空の青さが咲き始めた梅のシルエットを際立たせている。ため息ものだ。
 
願わくは一人で『紅白梅図屏風』と対面するために、開館30分前に着き、ロッカーにバッグを預け、準備万端の状態で一番乗りでエントランスに並んだ。しかし、すぐに男性、そして女性が私のあとに続いた。彼らも尾形光琳のファンでライバルなのだろうか? それならば大急ぎで展示室へと向かう必要が出てくる。偵察の必要性を感じ、私は自分が人見知りであることを忘れて「どこから来られたのですか?」「今日は光琳が目的ですか?」と2人に矢継ぎ早に質問すると「日本美術には詳しくないが、有名だからなんとなく見たいと思って来たのです」ということを双方が答えられたので「光琳の推し活ではないのか。よし、ダッシュしなくても大丈夫だ」と安心した。
 
とは言え、油断は禁物だ。受付の人に展示室の場所を確認すると「あそこか」とすぐにわかった。幸いにも私はこの美術館へ何度も来ている。館内図を見て何度も頭のなかで道のりのシミュレーションを行う。対して私の後ろに並ぶ2人は、初めての来館だという。MOA美術館は一階ごとの空間が高くとられ、長いエスカレーターが数階建ての階をつないで最上階の展示室へと続いている。途中にあるこの美術館の魅力の一つ、エスカレーターホールにはヨーロッパの聖堂のように美しい天井画が映写されており、おそらく2人ともこれに目を奪われて足を止めるに違いないだろうと踏んだ。これで私が一人で作品と対面できる確率が高まった。
 
オープンの時間がやってきた。迷わず屏風の展示室へ向かう。途中、すばらしい重要文化財の掛け軸がいくつもあって一瞬立ち止まりたい衝動にかられたが、今見ていると独り占めができなくなると誘惑を断ち切った。それもそのはずで、この美術館は国宝3件、70件ちかい重要文化財を収蔵しているのだ。だが、このあとに続く来館者たちは、この展示品のすばらしさに目を奪われてここでしばらく時間を過ごすに違いない。私にとっては美術のハニートラップのような仕掛けだ。
 
「早く、早く、展示室へ……!」
 
右へ曲がり、左に曲がって、まだ誰もいない朝の澄んだ空気に満ちた美術館のなかを係員さんに止められない程度の速足で歩いていく。
 
「あ、あれだ!」
 
何度も見て頭に入っている屏風の金色の端っこが見えてきた。そこからは歩いた記憶がなく、タイムスリップしたような心地で気が付くと屏風と対面していた。
 
「す、す、す、すばらしい……」
 
心のなかでつぶやくと同時に大きなため息が出た。尾形光琳の晩年の大作『紅白梅図屏風』とたった一人で向き合っている自分。ついに夢が叶ったのだ。約300年前の作品との邂逅をガラスが遮断しているが、MOA美術館のガラスは特別製で非常にクリアに作られている。館内のあちらこちらに「ガラスが透明なので気づかずに顔をぶつけないようにしてください」と注意書きが貼ってあるほどだ。だから、何かが自分と屏風を隔てている気はしなかった。
 
二曲一双で、それぞれのサイズが156×172センチとある。一面に貼られた正方形の金箔を背景に中央に同じく正方形の銀箔をいくつも貼られて形づくられた川が流れ、川をはさんで左側に白梅が、右側に紅梅が配置され、徹底した対比の美と大胆な構図が見事だ。もともとこの屏風は婚礼の贈答品として制作が依頼されたと聞く。だから紅白の梅は男女を表しているという説や梅が男性で川が女性なのだという説もある。川に貼られた銀箔は時を経てチョコレート色に変色しているが、水紋が女性の情感あふれる長い髪の毛にも見えるし、この世とあの世をつなぐ淀みの深い三途の川にも感じられ、むしろ当時よりも凄みを増しているのではないかという気がした。
 
美術館への道中で梅の写真を何枚か撮って気付いたことがあった。大振りで華やかな桜より、小さく地味な梅の花を撮ることは難しい。さらに梅は枝ぶりが複雑で「これだ」と思うようなものを一枚も撮影できなかった。対してこの屏風に描かれた枯れかけた梅の木は、長い年月の間に樹木のあちこちから自然がなすがままに枝が生え、苔むしながら、花と蕾をつけている。もし植栽のプロが見たら折れてしまいそうな不恰好な枝を美観の面から切りたくなってしまうかもしれない。しかし、屏風を見れば見るほど、「この枝はここから生えていなければならないし、花と蕾はこの位置でなければならない」とわかってくる。2本の古木は何気ないようでいて、実は作家の手によって整理された完璧なデザインへとコントロールがなされているのだ。
 
尾形光琳はもともと裕福な呉服屋の次男だった。幼いころから能や書、絵をたしなみ、そのいずれにも卓抜した才能を見せたという。成人してからは放蕩に明け暮れるが、蒔絵の下絵を描くなどして評判を得るなどして絵師としての片鱗があったらしい。浪費の限りを尽くし、女性遍歴を繰り返し、父の遺産も使い果たした光琳は、莫大な借金を抱え、40歳頃に必要にかられてようやく絵師としての道を歩み始めた。
 
こういった浪費は、アートの世界では必ず実を結ぶと私は勝手な自論を持っている。やはり良いものを一つでも多く見続けなければ、最高レベルに到達する作品をアウトプットすることはできないからだ。これは、料理やファッションの世界でも同様だと思う。だから、光琳の浪費家である面をむしろリスペクトしているほどだ。
 
実はこの屏風には危機的状況をかいくぐった過去がある。太平洋戦争中は、所有者の倉庫に焼夷弾が落ち、焼失の危機に陥ったが、家人の手で火は消し止められ、事なきを得たそうだ。戦後は複数の手に渡り、1954年にMOA美術館の創立者である岡田茂吉氏の所蔵となった。岡田氏の審美眼はすばらしい。まさに「尊すぎる」人物だ。おかげでこの日本の財産とも呼べる屏風が海外へ流出することなく守られ、現代へと受け継がれている。私は会ったこともない岡田氏に、何度も心のなかで「ありがとうございます」とつぶやき展示室で頭を下げた。
 
また、自分の家にこの屏風があったらどうだろうという妄想もしてみた。おそらく外に出るよりも屏風を見ていたい、屏風の前で横になっていたいと引きこもりになるだろうと容易に想像ができた。というのは、不思議なことに屏風を見続けているとヨガのクラスで行う横になって全身の力を抜くポーズ・シャバーサナの時のように失礼だとわかりつつもあくびが何度も出てしまったのだ。科学的な根拠はないが、さすが婚礼の贈り物だけあってリラックス作用も持っているようだ。
 
展示室には入れ替わり立ち代わりどんどん人が入ってきた。私は、邪魔にならないように展示室の壁を背にして遠くから作品の鑑賞を続けたが、飽きることはなかった。スマートウォッチが何度も「動いてください」とシグナルを送ってきたが、そのたびに行儀がわるいことではあるが屈伸運動をして気が付いたら90分鑑賞していた。90分というとちょっとした映画くらいの長さである。まさに映画と同じくらい飽きずに見続けられる最高のコンテンツ作品がこのたった一枚の屏風なのである。私は、どうすれば屏風と長くいられるのかを模索し、美術館の案内係や清掃係を募集していないものだろうかとWEBサイトを探したが、採用情報は見つからず残念に思った。
 
展示室を出てエントランスへ戻ると一枚のチラシが目にとまった。2024年秋にこの『紅白梅図屏風』と光琳の重要文化財の『風神雷神図屏風』(ふうじんらいじんずびょうぶ)があわせて展示されると書いてあった。年内にまた、この屏風に会える。それも光琳の代表作の一つ『風神雷神図屏風』とともに……私は胸熱でバスに乗り熱海駅を目指した。
 
帰りの電車のなかで私は尾形光琳の推し活の計画をたてた。4月には私が光琳と初めて出会った作品で国宝の『燕子花図屏風』が根津美術館で1カ月間公開される。秋に再びMOA美術館に足を運ぶというところまでメモをして、美術館で買った光琳の書籍を開いた。そこに書いてあった『八橋図』・『波濤図屏風』ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵、『松島図』ボストン美術館所蔵、『群鶴図』ワシントン・フリーア美術館という文字が目に入ってきた。残念ながら光琳の名作のいくつかは海外への流出を免れなかったようだ。しかし、どこにあろうとも厳重に守られており、飛行機に乗りさえすればいつでも鑑賞できるというのは奇跡に等しく全日本人いや全人類にとって幸せなことだ。さあ、この先どこへ行って何を見ようか? 私の推し活は世界規模へと広がっていきそうだ。自分のなかにエネルギーがみなぎってくるのを感じ、これからの毎日が楽しくなる予感でいっぱいになった。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
杉村五帆(すぎむらいつほ)

23年間一般企業の社員として勤務した後、イギリス貴族に薫陶を受けたアートディーラーに師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値とシビアに向き合うプロたちによる講演の主催を行う。アートによる知的好奇心の喚起、人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。天狼院WEB READING LIFE にて『美術商に学ぶアート思考』の連載が2月よりスタートする。

第1回 美術品の魅力に気づくきっかけは感動ではなく、嫌悪感かもしれない《心震える感動を求めて 美術商に学ぶアート思考》株式会社加島美術 代表取締役 加島林衛

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2024-02-14 | Posted in 週刊READING LIFE vol.250

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