週刊READING LIFE vol.258

「通訳者の美しい仕事とは? エレファントの中に輝くエレガント」《週刊READING LIFE Vol.258 美しい仕事》


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2024/4/22/公開
記事:工藤洋子(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
昔、まだ私が駆け出しの通訳者だった頃。
 
とある先輩通訳者が自分の経験を語る講演会があり、聞きに行ったことがあった。
 
「通訳している途中で突然、「ヴァーミーア」という聞き慣れない音が出てきたんですよ」
 
とその方は言う。
 
「ヴァーミーア」って、一体なんのことだろう?
そんな単語にはついぞお目にかかったことはないぞ?
 
一瞬頭の中がパニックになりかけたその刹那、
 
「そうか、フェルメールのことかっ!」
 
突然ひらめいたそうだ。
 
基本的にビジネスマンだが芸術にも造詣が深い、という方が講演者だったので、以前仕事の合間にどこかの美術館で見たフェルメールの絵の話を加えた、ということらしかった。
 
日本語でいうと、「フェルメール」。
 
どこにも音が「ヴァ」になる要素は見当たらない。
 
だが、元のオランダ語で書くと、”Vermeer”となる。それを英語的に発音すると、実は“V”のせいで日本語だと濁音になる要素が入っているのだ。
 
オランダ語やドイツ語では、”V”という文字が先頭に来ると濁らない「ファ」という発音になる、という外国人にとっては謎のルールが存在する。日本でも誰もが知っているほどに有名な自動車メーカー、フォルクスワーゲンもアルファベットで書くと“Volkswagen”となる。これを「ヴォルクスワーゲン」と主張する人はそんなにいないと思う。
 
英語などの外国語と日本語のカタカナ表記が著しく違っているものには、今話題のウクライナも含まれる。最近ニュースでよく出てくるこの言葉も英語で書くと、“Ukraine”となり、発音は「ユークレイン」となる。
 
このように日本語は外国語をカタカナで簡単に取り込むことのできる、実に懐の深い言語であると同時に通訳者泣かせの言語である、とも言えるのだ。
 
そんな奇っ怪な日本語と英語の差にも負けず、その場の機転で場を取り繕うだけでなく、スピーカーがその言葉をそのまま日本語で話したかのごとく、美しい日本語で通訳をされる、この先輩通訳者は今でも私が尊敬する素晴らしい方だ。
 
それから十数年、自分はといえば通訳者としてはまだまだ道半ばである。恥ずかしい思いをすることも多々ある。
 
先日こんなことがあった。また別のベテラン通訳者と一緒に仕事をさせていただいたとき、待ち時間におしゃべりをしていると今までの通訳仕事を振り返る、という話題になった。
 
「いやぁ、ヨシッとガッツポーズを取れるような仕事って年に一度ぐらいしかないですね〜」
 
という私にその方は、
 
「あら? そんなにあるの? いいわねぇ、私はせいぜい数年に一度あるかないかよ」
 
とおっしゃった。
 
恥ずかしい。
実に恥ずかしくてみっともない。
こんな大先輩の前で「よい通訳がときどきできます」なんてこと、よく言えたものだ。穴があったら入りたい、と文字通り思ったのはこのときぐらいではないだろうか。
 
なんという傲慢。
仮にもそれで生計を立てているプロが言うセリフじゃないよ?
 
自分が「ま、こんなもんでしょ?」とタカをくくっているレベルはきっとその方にとってはお話にならないレベルに違いない。
 
通訳者というのは、いつもは単独で仕事をすることが多いソロプレイヤーだ。テレビでも報道されるような国際会議やスポーツ大会など大きなイベントの場合は複数の通訳者が一緒に集まることもあるが、企業や大学の通訳などをメインに受けている私の場合はなかなか他の同業者と一緒になることがない。
 
だから、と言い訳するつもりではないが、客観的に自分の仕事を見るという意識が自分に欠けていたことは否定できない。一人でやるからこそ、もっと厳しい目でひとつひとつの仕事を見返して反省しておくべきだった。自分なりに仕事を振り返り、それがよい仕事だったか、いまひとつだったか。そして出来が悪かったなら、どうすればよかったのか。
 
そうすれば、大先輩にそんな大言壮語は吐けなかったはずだ。
 
では、そもそも通訳とはどういう仕事なのだろうか? 世間一般では「通訳」と「翻訳」の違いなどあまり気にしていない。「通訳」という言葉より「翻訳」という言葉の方が、少し知名度が高いらしく、私のことも
 
「英語の翻訳をする方」
 
と認識されていることが多い。「訳す」という行為がすべて「翻訳」という言葉に集約されているような節さえある。
 
私が考える通訳とは、その場のコミュニケーションの仲立ちをする仕事である。違う言語を話す二者の間でお互いの理解に齟齬が起きないようにすることが目的であって、言葉を逐一その通りに変換することが最終目標ではない。翻訳もこの点ではいわゆる直訳をすればよい訳ではないという点で同じだ、といえる。
 
しかしこのふたつ、「通訳者」と「翻訳家」の当事者からすれば似て非なるものである。
 
まず、翻訳の方から説明しよう。
 
これはみなさんもおそらく認識されているとおり、文字として書かれた文章を違う言語に書き直す作業である。太古の昔にこの世からいなくなった哲学者アリストテレスの著作をいま私たちが読んで学ぶことができるのも、スリラーの名手スティーブン・キングの作品を日本語で堪能できるのも、すべては翻訳者の方々のおかげだ。
 
このように文字を文字に変換する作業なので、やった仕事が目に見える存在として残る。残るから翻訳家は練りに練った文章を作り上げ、原文の意味を余すところなく対象の言語で自然な文章として翻訳文を仕上げるために切磋琢磨されていることだろう。
 
“Anne of Green Gables”を「グリーンゲーブルスのアン」とせずに『赤毛のアン』と訳したり、“Daddy-Long-Legs”を「あしながおじさん」(原題のままだとおとうさん)と訳したりするそのセンスがとても美しい、と私はいつも思っている。驚嘆に値する仕事だ。
 
それに対して、通訳者が相手にするのは音声としての言葉だ。その場で泡沫のごとく消えていく言葉をすくいあげ、その場にいる人がお互い理解できるようにすることが求められている。会議ならあとで議事録に残ることもあるが、それは通訳者の仕事ではない。あくまでターゲットは音声だ。
 
だからやっていることは実際、一発芸に近い。といっても乗るか反るかの大ばくち、ではプロと名乗ることはできないので日頃からそれなりの準備をするわけだが、それでもすべてに対して準備し切ることは不可能だ。
 
「そんなこと言うけど、通訳って言葉の意味を違う言葉に置き換えているだけじゃないの?」
 
と思われる方もいるかもしれない。確かにそういう側面もある。学生のとき、英語の長文問題で、「下線の英文の意味を訳しなさい」などという問題があったのを覚えているだろうか。そのイメージからすると言葉を置き換えるだけ、と感じるかもしれないのは私にも分かる。
 
しかし、言葉を訳す、というのはけっして暗号文読解のような単なる意味の置き換えで済むものではない。言語学者ソシュールによると「世界のあり方は、言語と無関係でなく、どうしても言語に依存してしまう」のだという。(『はじめての構造主義』橋爪大三郎、講談社現代新書)言葉によって把握されている世界は、それぞれの言葉が決めている。だから言語が違えば文化も違う、文化が違えば考え方も感じ方も当然変わってくるのだ。
 
日本語でもっとも特徴がある言葉の使い方は、「オノマトペ」にあるのではないか、と私は思っている。
 
オノマトペとは、「雨がざあざあ降ってきた」とか「悲しくてしくしく泣いた」などの表現で日常的に使われる擬音語や擬態語のことを指す。「ざあざあ」というのが雨が降っている音を真似て表現した擬音語で、「しくしく」が物事や動作の様子、感情などを音のイメージで表現した擬態語となる。
 
たとえば「歩く」という言葉を考えてみよう。日本語では「歩く」は「歩く」だ。この動作に他の動詞を当てることはない。「走る」と言えばそれは違う動作のことを意味することになる。
 
ではどんな歩き方をするか、を説明してください、と言われたら、どうするだろうか?
 
「すたすた」歩く、とか、「こそこそ」歩く、など今説明したオノマトペを使って表現しようとするだろう。他にも「うろうろ」とか「ぶらぶら」とか色々なバリエーションが考えられるが、やはり「歩く」ことには違いはない。
 
それが英語になると話は違う。
英語で「歩く」といえば、”walk”だ。カタカナでウォークと使われることもあるし、中学校で英語を習い始めた最初の最初に習うような単語だろう。
 
しかし、英語ではさきほどの日本語のオノマトペで表現された「歩く」に”walk”は使わない。「すたすた歩く」では、”stride”という動詞が使われるし、「こそこそ歩く」のは”slink”だ。「うろうろ歩く」は”putter around”(イギリス英語では”potter around”)だし、「ぶらぶら歩く」は”wander”となってしまう。
 
日本語では同じ「歩く」の仲間になっているのに、英語だとそれぞれ違う単語が用いられる。双方の言語において「歩く」ことに対する認識が同じであるはずはない、と私は思う。
 
よく私たちが認識している意識、つまり顕在意識は氷山の一角に過ぎず、ふだんは意識していない潜在意識が意識全体の9割を占めている、と表現されることがある。言葉によって認識されている世界もそれとまったく同じことだ。アメリカ人のジョンが言っていることを単語だけ置き換えても、日本人の太郎が理解しているものとはその程度の差こそあれ、何らかのズレがあるかもしれない。
 
その違いを一瞬で判断してお互いが理解できるように言葉に反映させるのが、通訳者の仕事だ。翻訳ではその場ですぐ言葉として言わなければならない訳ではないので、じっくりと考えることができる。それに対して通訳だと、言葉の練り方はどうしても甘くなる。甘くなる、というか、練る時間がない、が正解だろうか。言葉が元の発言者から出てから消えていく、その刹那に「自分で出来うる限りの」訳を付ける。それがどの程度できるかどうかで、その通訳の良し悪しが決まる。
 
それがさらに同時通訳、ともなれば事態は陸上のトラック競技のようになってくる。よーいどんでスタートダッシュ。振り返ることも立ち止まることもできず、ただただひたすら出てくる情報を処理することになる。
 
まさに一発芸。
 
その瞬間に最高の訳が出せるかどうか。
もしできればそれこそガッツポーズが出る瞬間、となるが、その確率はとてもわずかなものだ。かのプロ野球のイチロー選手でも最高の打率は4割を切るぐらいだ。もちろんそれは素晴らしい結果なのだけど、裏を返せば残りの60%はヒットが打てなかった、ということになる。
 
通訳者がその瞬間芸の連続の中で、最高にイカした訳を出せる割合は、いったい何パーセントぐらいだろうか?
 
イチローと同じ4割?
いやいや、まさか!
それはあり得ない。
少なくとも私はそこまでのヒットを量産することはできない。
 
では1割ぐらい?
同時通訳者として20年以上のキャリアを積んだ今でも、1割と見積もっては大先輩方にとても顔向けができない。
 
よくて5%?
野球の打率でいえば、1割にも届かず、5分がせいぜいだろうか。つまり、プロの通訳者としてさまざまな場面で仕事をしてきても、これは最高の訳ができた、と胸を張っていえる確率が5%ということになる。
 
数学の証明への評価で数学者が使う表現では、キレイに証明できると「エレガント」、それに対して不格好な証明だとエレガントをもじって「エレファント」と言うそうだ。ロジックを重要視する数学者らしい表現だな、と感心したものだが、これは私の仕事にも当てはまる話ではないだろうか?
 
つまり、ガッツポーズの出るほど、自分でも会心の一撃といえる出来の訳は「エレガント」な仕事だ。私の敬愛する先輩の惚れ惚れする訳出は、美しくもエレガントだと思う。
 
しかし、先ほども説明した通り、そんな瞬間はせいぜい5%程度だ。20回仕事をして、そのうち満足いく訳が出せるのは、1回だけ。あとは全部「エレファント」な仕事だ。ゾウが力任せに木をなぎ倒していくように、とにかく美しくない上に泥臭い出来映えであっても、地道にコミュニケーションを成立させようともがく、そんな仕事がほとんどだ。
 
そんな美しい仕事をしたいと願いながらも、同時に私にも分かっている。たとえエレガントにはほど遠く、エレファントな訳をしていようとも、それは通訳者としての自分のエゴでしかない。そんな天才画家が気に入らないからと描いた絵を自ら破くようなことは、私の仕事には関係ない。その場でコミュニケーションの仲立ちを望んでいる人たちが、
 
「おかげで話がよく分かった。ありがとう」
 
と言ってくださることこそがプロとしての到達点であるべきで、自分がエレガントかエレファントかなど気にするべきところではないはずだ。
 
そう思って今まで通訳をやってきた。
これからもクライアントを満足させる仕事をすることが究極の目標である。そうあるべき、だと思う。
 
でも。
それでも「エレガント」な仕事をしたい。その目標を持ち続けることは大切なことだと思っている。通訳者としてあと何年働けるか、そしてその中で何度「エレガント」な仕事ができるか。たとえ泥臭くてもそんな美しい仕事を目指して行きたい、と思う。
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
工藤洋子(READING LIFE編集部ライティングX)

20年以上のキャリアを持つ日英同時通訳者。
本を読むことは昔から好きでマンガから小説、実用書まで何でも読む乱読者。「食う」「寝る」「読む」で人生が埋まっているが、最近そこに「書く」が入ってきているところ。福岡県出身、大分県在住。

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2024-04-17 | Posted in 週刊READING LIFE vol.258

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