やりがいを感じたことがありません《週刊READING LIFE Vol.38「社会と個人」》
記事:森野兎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「やりがいを感じたことがありません」
長い沈黙に耐えきれなくなって、わたしはついにそう言った。
部下から飛び出した衝撃発言に、上司はまんまるに目を見開いた。
こう思うようになったのは、いつからだろう。
入社時は、総務部に配属された。女性社員の仕事は、受付業務から電話の取り次ぎ、備品管理や経費処理など、事務的な業務が主だった。総務部は何でも屋のようなところがあり、その他にも小さな仕事はたくさんあった。
最初のうちは、やりがいがどうこう言う前に、業務を覚えることに精一杯だった。ただ慣れてきて、色々なことをルーチンでこなすようになると、自分のやっている仕事がつまらないと感じるようになった。誰かがやらないといけないことだし、会社にとって必要なことであるというのも理解できる。ただ、一つ一つの業務が困難かと言われるとそうでもなく、目立たなくて、地味な作業の積み重ねだ。なんだか達成感が感じられなくて、「大したことやってないなあ」と思うようになった。総務部には3年ほどいたが、この仕事を、この先何年もやっていくのは耐えられないと思っていたとき、異動になった。今度は経営管理部だった。
わたしの会社は化学系メーカーで、経営管理部は会社の事業計画を考える部署だ。そこでわたしは、研究開発部門の予算立案から進捗管理を担当することになった。とはいえわたしはまだまだ下っ端で、知識も経験もないため、できることは限られている。わたしの主な業務は、上層部の経営判断材料となるデータを集計して、資料として作成することだ。
どれだけ緻密に予算を立案しようが管理しようが、研究開発部門では、実験結果次第で予定は狂うし、当初の想定が外れることは日常茶飯事だ。次第に、「わたしのやっていることって何なの?」という思いが募り、自分の仕事を肯定的に捉えることが出来なくなった。そして総務部にいた頃と同じように、達成感を感じられない日々を過ごしていた。
そんなときに、上司との面談があった。今後のキャリアプランについてを話す面談だった。
「今やっている仕事を今後どういう風に取り組みたい? またはどういう仕事に繋げていきたい?」
と上司に聞かれた。わたしは困った。
「うーん。今やっている仕事から派生して、やりたいと思う仕事が思いつきません」
と答えた。
「やりたい仕事がない? それはどうして?」
そう聞かれ、わたしは黙ってしまった。ハッキリ言っていいものかしばらく迷ったが、ごまかしても仕方がないと思い、正直に言った。
「自分がやっている仕事に、やりがいを感じたことがありません」
与えられた業務は真面目に遂行していたし、人間関係は良いので、上司の目には楽しく働いているように映っていたのかもしれない。目を見開いて驚く上司に向かって、わたしはそのまま続けた。
「わたしの理解不足かもしれませんが、データを集計したり、グラフにしたり、手間はかかりますけど、それだけの価値があるかわかりません。どれだけ手間をかけたって、試験結果によって開発計画は変わりますし。データが有効活用できていると思えません。意義や価値のわからないことを一生懸命やるって難しいし、やりがいを感じることができません。だから、今の仕事から繋がるような仕事で、やりたいことが思いつきません」
「やりがい」なんて、就職する前は、大して考えたことがなかった。
わたしには将来の夢がなくて、「これがやりたい」というより、「これは嫌だ」を避けて就職先を考えた。でも働いてみて、誰かのために役に立っているとか、自分のやっていることに意義や価値を感じられないと、つまらないのだということを知った。自分は自分が思っていた以上に、誰かに必要とされたくて、認められたい生き物なのだと知った。
仕事であれば、やりがいを得るためには、お金を得ることと、誰かの役に立っていると感じることが必要だと思う。
「お金」というと、なんとなくやらしいイメージになりがちだが、衣食住を支えるのにお金は必要だし、欲しいものを買ったり、行きたい場所ややりたいことをするのにも、お金は必要だ。お金を欲しいと思うことは自然なことで、仕事はボランティアではないのだから、やったことに対して、お金を得られないと、やりがいが薄まってしまうのは仕方がない。
でもお金をもらうにしても、誰かの役に立っているとか、やっていることの意義や価値を感じてお金をもらえた方が、嬉しい。
ただ自分のためだけに頑張れることなんて、しれていると思うのだ。それが特定の誰かのためであっても、不特定多数の誰かのためであってもいい。自分じゃない誰かのために何かをしようとするときの方が、もっともっと頑張れるし、やり遂げたときに、もっともっと心が満たされると思うのだ。
「やりがいを感じたことがない」なんて上司に言ってしまったが、本当にやりがいを全く感じることがなかったら、わたしはずっと同じ会社で働いていないだろう。
確かに直接利益に繋がるような提案も改革もできていないし、大きな成果を上げられたことなどない。でもわたしは下っ端だからこそ、細々した業務や手間のかかることを、一手に引き受けていた。その小さな業務に、「ありがとう」「助かった」と言ってくれた人は何人もいた。そう言ってくれた人がいるから、続けてこれたと思うのだ。大きな達成感がないことで、「やりがいがない」と言って自分を苦しめていたのは、自分自身だ。
「やりがいを感じたことがありません」
とわたしが言ったとき、上司は腕を組んで、目を瞑って、少し唸ったのち、こう言った。
「君がそういう風に思うのは、僕や、僕の上司や、その上の役員のせいです。会社が、あなたにそう思わせている。申し訳ない」
そう言って、わたしに頭を下げた。
同じ仕事をしていても、考え方を変えたり、行動を起こすことが出来ていれば、やりがいや意義をもっと感じることはできるはずだ。問題はわたしにも多分にあって、「やりがいがないと思うのは、君の努力が足りないからだ」と言うこともできただろう。
今の上司になってからはまだ半年ほどしか経っていないので、さほど長い付き合いではない。でも、上司は自分のせいだと言って、部下に頭を下げた。
わたしは、「人のせい」にするのが、嫌いだ。人のせいだと、自分でどうしようもできないからだ。「自分が悪い」と考えれば、自分の考え方や行動で、どうにでもできたりする。だが、数千人もの社員がいる会社の問題を、入社6年ほどの下っ端社員が一人抱え込むのは間違っていたのだろう。
上司のせいにして謝って欲しかったわけではない。でも、上司が「自分のせいだ」と言ってくれて、救われた気がしたのは確かだ。自分一人の問題にしなくていい、もっと周りを巻き込んで考えればいいのだと、そう思うことができるようになった。
「うちの会社では、現状として君の作ったデータを活かした議論はできていない。数字遊びのようになってしまっていると言われても仕方がない。君の感覚は正しいよ。今の体制は見直さないといけない。君がやりがいを持って仕事ができるよう、僕も頑張るから、一緒に頑張ろう」
と言ってくれた。
きっとわたしは上司に恵まれている。
自分のために頑張って、自分だけが得したことより、誰かの利益に繋がった方が、たくさん評価されるし、対価だってもらえる。自分の存在価値を認めるためには、自分じゃない誰かが必要なのだ。誰かのために頑張ることは、結局は自分のためにもなるのだ。個人の幸福は、社会の幸福と繋がっていると思う。
この先、いまの会社に勤め続けるかは、わからない。でもどこで何の仕事をしていても、やりがいを感じる仕事をしたい。
自分のために、誰かのために。
◻︎ライタープロフィール
森野兎(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
アラサーのOL。2018年10月より、天狼院書店のライティングゼミに参加。ライティング素人が、「文章で表現すること」に挑戦中。
http://tenro-in.com/zemi/86808