週刊READING LIFE Vol.38

ワンフォアオール、オール・フォー・ワン《週刊READING LIFE Vol.38「社会と個人」》


記事:高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 

One for all, All for one.
よく知られた、ラグビーの原則である。
ほんとうの意味は、
「1人はみんなのため、みんなは1つの目的のため」であるという。
 
もともと人からコントロールされるのが好きではなかったことから、高校入学とともに陸上競技部に入ることになった。
個人競技だったら、人とのしがらみがないだろうという勝手な解釈に過ぎなかった。
今から思うと、高校生活と大学生活とはまさに、ワンフォアオール、オール・フォー・ワンの7年間だった。
 
高校で陸上競技部に入ったものの、足首のねんざから満足な練習をすることはできなかった。
そこで、大学入学とともに、陸上競技部の門を叩いた。
リベンジのつもりだった。
陸上競技部の正式な名前は「競走部」。
この名前の表記があるのは、早稲田大学と立教大学、そして私の母校である。
部の発祥は、ちょうど、日本のスポーツの黎明期である明治時代にさかのぼる。
OBには戦前のオリンピックのメダリストもいる。
 
個人競技である以上、先輩がつくった練習スケジュールに基づいて、練習がスタートする。
一律に始めるのはウォーミングアップのときだけ。
その後は、短距離、長距離、ジャンプ、投てきなどの種目別に分かれた。
 
人から指示されることに肯定的でなかったことから、人がやらない種目をやろうと思った。
それが十種競技だった。
2日間かけて陸上競技の10種目を行い、記録によって決まっている得点の合計を競うものである。
欧米ではその勝者には、”King of Trace and Field”の称号が与えられる。
ただし日本ではマイナーな種目。近年では、タレントの武井壮さんの活躍から注目されるようになった。
 
競走部にとって最大の目標は、毎年5月に開催される関東インターカレッジ。
関東学生陸上競技連盟に所属している100校以上の大学のトップ16校に残ることが、部にとって何にも優先される。
ここで1部に残るか、それともそれ以外の2部に落ちるかが、天国と地獄の分かれ目ともいえた。
やるからには、記録も勝負もトップの1部で戦ってこそ意味があった。
現役部員もOBも、すべての関心は関東インターカレッジの入賞にあった。
 
入部したものの、大学1年の5月の段階ではまだ試合で出られるだけの力はなかった。
 
初めて臨んだ関東インターカレッジは、立川の陸上競技場だった。
雑誌で見ただけだった選手たちがメインのスタジアムだけでなく、サブトラックにもいる。
日本を代表する選手が、そのときだけは、母校のユニフォームを着て母校の名誉のために戦っていた。
 
私が入った年は1部と2部のボーダーライン上だった。
最終日の最終種目である1600メートルリレーまで、まさに僅差の争い。
アンカーの快走で5位となって1部残留を決めたとき、全部員はまさに狂喜乱舞。
主将は男泣きしていた。
 
試合に出た人も私たちのように出なかった応援するだけの人も全員がヒーロー。
個人競技でありながら、団体競技の様相を呈していた。
 
最大の目標である関東インターカレッジの1部残留を果たした私たちにとって、毎日の練習とともになくてはならないものがあった。
それはお金である。
当時は現在のように大学からの補助金が出ておらず、OBから年会費を徴収することもシステム化されていなかった。部としての活動費は十分な環境とはいえなかった。
そのためOBに対して年会費とは別に寄付をお願いするのである。
たとえ1,000円であっても人に頭を下げてお金をいただくことの意味と大変さを噛みしめることになった。
アマチュア競技者であっても、「スポーツ=お金がかかる」という事実を体感していた。
 
2年になった私は、冬の練習が功を奏した結果、関東インターカレッジの十種競技にエントリーすることになった。
 
2日間で10種目を行ううえで、1日目の最初の種目は100メートル競走である。
ここで私は1部、16校の代表選手16名中、2番となった。
記録は大したことはなく、まだ10種目の1種目が終わっただけの状態。
自分は淡々としていたが、我が母校の応援席は、驚き、喜び、拍手喝采の状態。
ふだん私に声をかけたことのないような上級生ですら、私に近づいてきて「がんばれよ」と握手を求めてきた。
 
ところが、2日目の最初の種目110メートルハードルで転倒してその種目を棄権した結果、前日までの応援はどこへやら。
まるで潮が引くように、声援がかからなくなった。
もちろん、競技をするのは私である。
前日は全部員で戦っていた印象が、たまたま1種目のつまづきで、見向きもされない状態になりつつあった。
 
その後、棒高跳びが得点ゼロに終わったこともあり、最終的には16人中16番だった。
 
人とは、いいときは近づいてきて、良くなくなると離れていく。
 
あとから思うとまさに人生の縮図だった。
 
その後、捲土重来を期して練習に励んでいたものの、腰を痛めて大学3年のシーズンを棒にふることになった。
ケガで走ることはおろか、歩くことすらカンタンではなくなった。
そんな私にとって、ある仕事をするようになった。
タイムキーパーである。
短距離から、長距離まで走る種目の選手たちにとって、タイムこそがパフォーマンスの結果である。
私はストップウォッチで計測することとともに、途中ラップを声で伝えることになった。
 
以前までだったら、誰かにタイムを測ってもらうことは当たり前のこと。
あらためて自分がタイムを測る側に立ってみて、タイムがないと、自分のパフォーマンスがわからないと実感した。
 
タイム=事実
記録という事実があって、人は工夫を考えて、進歩、進化するのである。
裏方に過ぎないことが、大変な仕事だと思えてきた。
 
練習でのタイムキーパーのほかに、新たな発見があった。
それは試合の場で出場する選手に付きそうことだった。
 
ウォーミングアップをする選手と一緒に軽くジョッギングをしながら、その選手が本番に向けて気持ちも身体を最高潮に高めて行くためのサポート役である。
 
ストレッチとともに、試合で結果を出すためのマッサージを施すのである。
最初は見よう見まねだった。
プロのやり方を学んでからはだんだん面白みが増してきた。
選手の筋肉は1日として同じではなかった。
 
関東インターカレッジという最大の目標のなかでのタイムキーパーとマッサージ。
試合には出られなくても、なにか自分の居場所を見つけたように思えた。
 
大学4年間はあっという間である。
希望に胸を膨らませて入学し、2年で関東インターカレッジに出場したものの、ケガで練習ができない日々を過ごしていたかと思ったら4年生となっていた。
 
腰は良くなり、少しずつ身体は動き始めていた。
8月に伊勢で行われた合宿では、4年間で1番といってもいいほど身体のコンディションは上がっていた。
50メートルのダッシュも個人としてベストレコードを出すまでに回復していた。
しかし4年生ということから、目の前には試合がない。
いつしか後輩たちの練習パートナーのようになっていた。
 
早稲田大学との対抗戦での円盤投げが学生時代最後の試合。
その試合が終わってもなぜかグランドに出ていた。
卒業を前に身体が動いている以上、続けないという選択肢はなかった。
3年生以下の後輩たちと時間を共有していたに過ぎなかった。
 
ただし、たとえどんなにパフォーマンスをしていても卒業という節目はやってくる。
部のOBが在籍している関係から百貨店に就職した。ご縁があったということがふさわしい。
 
店頭に配属された翌日、競走部の監督さんが職場にやってきた。
よく聞くと、配属された部の部長と旧知の仲という。
 
その日の就業後、部長が私に言った。
監督さんは、私のことをよろしく頼むというあいさつでの来訪だった。
「試合に出ていない高林たちが己を殺して尽くしてくれたから部がまとまった」というコメントを残してくれたという。
 
大学4年間、私は試合に出たかった。出るつもりでトレーニングをして切磋琢磨してきた。
それが結果として部のためになっていたのかもしれない。
”One for all, All for one”
現在の私の根幹を作ってくれた4年間だった。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
高林忠正(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

ベストメモリーコンシェルジュ。
慶應義塾大学商学部を卒業後、三越に入社。
販売、仕入をはじめ、24年間で14の職務を担当後、社内公募で
法人外商を志望。ノベルティ(おまけ)の企画提案営業により、
その後の4年間で3度の社内MVPを受賞。新入社員時代、
三百年の伝統に培われた「変わらざるもの=まごころの精神」と、
「変わるべきもの=時代の変化に合わせて自らを変革すること」が職業観の根幹となる。

一方で、10年間のブランクの後に店頭の販売に復帰した40代、
「人は言えないことが9割」という認識の下、お客様の観察に活路を見いだす。
現在は、三越の先人から引き継がれる原理原則を基に、接遇を含めた問題解決に当たっている。

http://tenro-in.com/zemi/86808



2019-06-24 | Posted in 週刊READING LIFE Vol.38

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