コミュ障が生きていくための最後の砦《 週刊READING LIFE Vol.40「本当のコミュニケーション能力とは?」》
記事:吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
「コミュ障だから、大勢の飲み会とか無理」
SNSでそんな呟きを目にするようになってどれくらい経つだろう。コミュ障すなわちコミュニケーション障害は、本来ならば聴覚や視覚の障害、発達障害などを持つ人が、他人と意思疎通するにあたって生じる大変さや誤解、またそこから生じるトラブルを指している。しかし、今日コミュ障と言えば、「自分の発言が誰かを不快にするのではないかと気にして何も言えなくなる」「沈黙が怖くてどうでもいいことを喋り続けてしまうのでとても疲れる」といった、コミュニケーション時に過度に心理的な負担を感じてしまうことを指しているように思う。コミュ障という言葉が日本中にこれだけ浸透しているのを見るに、日本人は誰しもが自分のコミュニケーションのスタイルについて思い悩んでいるのだ。和を以て貴しとなす、実に日本人らしい悩みと言えるだろう。
さて、何を隠そう私もコミュ障である。上記の例で言えば、本来的な意味でのコミュ障であり、通俗的な意味でのコミュ障でもある、つまるところコミュ障エキスパートだ。ただ、私がコミュ障だと言った時、友人たちは、なるほど然りというのと、そんなまさか、あの人に限って、というのに二分されるだろう。私と知り合った時期によって、その印象はがらりと変わっているはずだ。私はコミュニケーションが何たるかを自分なりに徹底研究し、一つの結論を得るに至った。その結果として、私は「コミュ障ではないっぽく」振る舞うことが可能になったのだ。
私は今でもコミュ障である。
でも、そのせいで人に相対することに気後れすることはない。
今日は、コミュニケーションにおいて本当に必要なものを、ご紹介したいと思う。
前にも書いたが、私は発達障害の一種、ADHDである。ADHDは、集中力が持続せず注意散漫、じっとしていることが出来ずドタバタ動き回る、そんな特性がある。これだけ書くと、なんだ、自分にもそういうところあるよ、という人が一定数現れるが、ADHDと診断されるような人は、こうした症状のせいで日常生活に支障が出てしまっているのだ。ADHDあるあるが、書類のミス。そう聞くと、「誰だって書類のミスくらいある」と思うだろう。書類のミスポイントはたくさんある。日付、人や商品の名前、数字、漢字。今まで書類を間違えたことが一回もない人は稀かもしれない。だから「誰だって書類のミスくらいある」なのだ。だが、定型書式のある書類で、毎回日付を間違える奴がいたらどうだろう? 何度言っても、数字を最新のデータに直さない奴がいたらどうだろう? 「こいつ、書類作る時にちゃんと確認していないのかな? でないと毎回間違えるわけがない」と思うだろう。ちゃんと確認していないということは、つまるところ仕事に対して真摯に取り組んでいないのではないか。そんな風に思っても致し方ないことだと思われる。
そう、書類のしょうもないところを毎回のように間違える。これはADHDの注意力散漫が為せる業なのだ。「誰だって書類のミスくらいある」ではなく、「日常生活に支障が出ている」のだ。他にもADHDならではのミスを多種多様にやらかしているのだが割愛する。本当にしょうもない間違いばっかりやらかして、何度も訂正ですと言って書類を配り直したり、メールを送ったり、上司に弁明したりする羽目になった。
「これ、何でここ間違えてるの?」
上司が目くじらを立てて私を呼びだした。ああ、もうこのやりとり何回目だろう。
「はあ、間違えてましたか?」
私は曖昧な返事をする。何で、と言われても、間違えたから、としか言いようがない。確認を怠ったから間違えたのか? いや、当事者でなければ言い訳に聞こえるのは百も承知なのだが、何度も何度も確認はしているのだ。だが、脳に不思議なフィルターがはたらいていて、チェックしているはずの数字が、正しい数字に見えてしまっていた……ような気がする。長期的な記憶も苦手なので、上司に弁明する頃には、何でそんなミスをしたのか、自分ではさっぱりわからないのが正直なところだ。怒声と共に責め立てられても、何で間違えたのかなんて、何も思い浮かばない。何で、の問いに、何と答えたらいいのか分からない。その結果としての気の抜けた返事に、上司はますます怒りを強めたようだ。
「こんな簡単なこと、何で間違えるの! Bだって言っただろう!」
「それは、AがBだった、ということでしょうか」
「言い訳はいいから!」
分からないなら致し方ない、せめて原因を究明しようと質問すると、更に怒りを買ってしまったようだ。またやってしまった。こうなると、もう貝のように黙って怒られるしかない。忘れてしまっているので、身に覚えのないことでガミガミ怒られて、すっかり意気消沈。よし、次こそはちゃんとやるぞと思うのだが、どうにもこうにも、また同じようなミスをしてしまうのだ。怒られるのは書類のミスだったり、遅刻だったり、会議での発言だったり、理由は多種多様なのだが、どれも同じように相手をもっと怒らせてしまう。何がいけないのか、さっぱりわからなかった。
他にも、人と話していて、突然相手がムッとしてしまうことがあった。何か失礼なことを言ってしまったらしい。慌てて取り繕うも後のも祭りだ。会話していて、自分としては関連することのつもりでコメントするのだが、「今その話してないから」「関係ないこと言わないで」と言われることもしょっちゅうだ。私は注意散漫だから仕事が出来なくて、相手の気持ちを汲み取ることができなくて、話の流れも空気も読むことができない。ADHDとしては軽度だから、相手の気分を害してしまったことだけは分かる。あーあ、またやっちゃった。あーあ、また怒らせちゃった。ADHDだからどうしようもないのかな。これが私なんです、って開き直るしかないのかな。
「……怒られるのは嫌だなあ」
ネットや本で調べてみても、怒られ方について参考になる解説を見つけられなかったので、コミュニケーションに関する情報を集めた。感情を抑えて、論理的に。相手を否定せず受け入れる。相手が「はい」と答えるような質問をたくさんする……。ビジネス系、自己啓発系、恋愛系、どれを見ても書いてあることはだいたい似たり寄ったりだった。どれも大体出来てる気がするんだけどなあ。ミスが発覚して、感情的にあれやこれやいうより、解決策を考えた方がいいんじゃないの? そのために、間違えた理由を覚えておいたり、勘違いのないように聞き返したりしているのだが、どうしてこんなに相手を怒らせてしまうのだろう。
結局開き直れなかった私は、引き続き怒られ続けた。あまりにも怒られすぎて、一年のうちに二回も異動した。会社からお前は使えない奴と言われたようで悔しく悲しく、意気消沈しながら会社に通った。新しい部署は人手不足で、本来私のキャリア、入社して数年では到底担当できないような責任の重い仕事を引き受けることになってしまった。社内組織が正しく機能しているかチェックする、内部統制の主担当だ。
さすがに恐れおののいた。確かに前任の方のアシスタントをしていたのは私だが、その方が退社したからといって、キャリアも知識もスキルもない私をそのまま担当にしてしまっていいのか? しかし、仕事の期日はやってくる。やらなければいけないことは山積みだ。誰かがやらなければいけない、そしてそれは例え力量不足でも主担当の私がやらなければいけない。私はおそるおそる、営業部の部長に面談のアポイントを取った。営業部は初めにいた部署で、部長は当時の私から見れば上司の上司の上司にあたる。雲の上のような存在だったのだ。そんな人に、業務を理由にアポイントを取り、面談するなど、考えただけでも吐き気がした。絶対何かやらかして、怒られるに違いない。
面談当日、部長は会議室に訝しげな顔で現れた。私は、内部統制は上場企業の責務であることを説明し、部長にヒアリングをしなければならなかった。
「あ、あの、お忙しいところお時間いただきありがとうございます」
「うん、それで、話ってなあに?」
「はい、な、内部統制というのがありまして……」
雲の上の人に、内部統制担当者として、対等な立場で説明しなければいけない。ヒアリングを実施して、文書を作成しなければいけないこと。テストのようなことをしなければいけないこと。資料は稚拙で、説明はしどろもどろ。プレゼンとしては聞くに堪えない出来栄えだったと思う。一通り説明をし終えて、手汗でたわんだ自分用の資料に目を落としながら、私はぽつりと呟いた。
「あの……申し訳ありません、私みたいなのが、部長に偉そうなことを言ってしまって」
内部統制は、現場からすると、自分たちが何か悪いことをしているのではないかと疑われているような心地になるという。部長もきっと今、そんな心地になっているだろう。ただでさえ腹立たしいことなのに、私のような駄目社員が担当だと知ったら、さぞかし腹が立つのではないか。きっとそうだ、お怒りに違いない。そう思ってつい口から出てしまった。
部長は驚いたように目を見開くと、一息置いてから、ニコリと微笑んだ。
「偉そうとか、考えないでいいんだよ。それが貴方の仕事なんでしょう」
虚を突かれて、私はぽかんとする。部長はニコニコしながら私の資料に目を落とし、いくつか質問をした。しどろもどろに答える私。何度かそのやりとりをして、部長は終始ニコニコしたまま、面談は終了した。部長は日程を決めたらメールしてね、と言い、ニコニコしながら会議室を去った。
「……怒られなかったな……」
残された私と、手汗だらけの資料をみて、そう呟かずにはいられなかった。
何で私は怒られなかったんだろう? 資料に間違いはあったし、説明は聞くに堪えなかった。単に部長の人柄が良いというわけでもない、厳しい檄を飛ばすことで有名な人だ。何で怒られなかったんだろう? いつも怒られることと違う事と言えば、あの余計な一言くらいだ。部長はそれまで怒っていたけれど、あの一言で許してくれたのだろうか? それとも最初からずっと怒っていなかったのかな。本人に尋ねるわけも行かないので真相は知る由もないが、とにかく私は怒られなかった。
何で怒られなかったんだろう。その謎は解明せず、日常的なミスも減らなかったので、やはり私は怒られ続けていた。以前と変わったことは、私以外の人が怒られている様子をこっそり観察するようになったことだ。観察してみると、だいたいの人が、怒られる時には謝罪を口にしていた。明らかにその人が悪くなかったり、後で怒られたことを悪態ついたりするような人でも、怒られている最中は、困りに困った、今にも泣きそうな顔をして、いやー、申し訳ありません、と頭を下げている。大して改善提案をしている様子もなく、ただ謝っているだけだ。結局、ああやって申し訳なさそうなそぶりをするのがいいのかな。そんな風に思い、心にもなくとも、おまじないのように冒頭に「申し訳ありません」とつけるようにした。そうすると、確かに相手を更に怒らせることは目に見えて減った。怒っていた人は、私のこの言葉が欲しかったのか。納得はできないが理解はできて、面倒くさいけど人付き合いだから仕方ない、と割り切ることにした。
おまじないが効くのは、怒られている時だけではなかった。何かお礼を言う時。一緒に長々と飲み明かしている時。ありがとう、と言った後に、「とても助かった」と足す。一見全く違う話題だけど、私は関連性があると思っている時、「ちょっと話がずれてるようなんだけど、ふっと思ったの、これは……」という。ほんの些細な、私だったら言わなくてもいいような一言を付け足すだけで、より喜んでもらうことが出来たり、相手を困惑させたりすることが少なくなった。なるほど、みんな、こういうおまじないが欲しかったんだな。私が突拍子もない発言をする裏で何を考えているのかが分からないから、怒ったり戸惑ったりしていたんだ。
怒られている時、もちろんものすごく反省していて、申し訳ないと思っていたのだけれど、そんなのは当たり前で、いちいち報告するべきことではないと思っていた。申し訳ないと思う気持ちや反省の気持ちは感情で、ビジネスのやり取りには不要だと考えていた。そんな不要なものをわざわざ伝えるより、原因究明や改善策の模索をすることが大事だと思っていた。だが、怒っている側からすると、私のそうした感情が見えないことが、より一層怒りを掻き立ててしまっていたのだ。コミュニケーションでは論理的に、とあちこちで言われているが、私が思うほど論理だけではなかったのである。コミュニケーションをする時、程よく感情を伝えるためのおまじないは、素直さというのだと、最近ようやく言語化することが出来た。素直さは最後の砦。それは私の座右の銘になった。
あの時、部長は、私の言葉を聞いて、私のどんな感情を見たのだろう。
緊張なのか、畏怖なのか、混乱なのか。あるいはその全部なのか。素直に言葉にすることが出来て本当に良かった。部長の優しい笑顔を思い出すたびに、感謝せずにはいられない。
◻︎ライタープロフィール
吉田けい(READING LIFE編集部公認ライター)
1982年生まれ、神奈川県在住。早稲田大学第一文学部卒、会社員を経て早稲田大学商学部商学研究科卒。在宅ワークと育児の傍ら、天狼院READING LIFE編集部ライターズ倶楽部に参加。趣味は歌と占いと庭いじり、ものづくり。得意なことはExcel。苦手なことは片付け。天狼院書店にて小説「株式会社ドッペルゲンガー」を連載。
http://tenro-in.com/category/doppelganger-company
http://tenro-in.com/zemi/86808
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