「変わらない」を守るために《 週刊READING LIFE Vol.41「変わりたい、変わりたくない」》
記事:服部動生(READING LIFE編集部公認ライター)
「オーナー、俺もう辞めたいっす」
強い悲しみをまとった言葉が狭い店内にこだました。か細い声だが、狭い空間を青色に塗り替えるには十分な力を持っている。
「おいおい、いきなり穏やかじゃないな。何かあったのか」
オーナーと呼ばれた小太りの男は、目の前の若者の目をじっと見て、少しずつ近づいていく。カウンター越しに二人は向かい合う。近づけば近づくほど、彼の声がよりよく聞こえてきた。
「俺、元々は板長に憧れてこの店に来ました。今でも板長と同じ味が出せればと思って頑張ってます。でももうダメです。最初の頃は色々教えてくれましたけど、2年目からなんか違うなって思って、最近は何かを教えてもらうってことがほとんどなくなりました」
オーナーは黙って若者の話を聞くしかなかった。
「料理学校の同期がホテルでコックをやってます。まだまだ下っ端ですが、先輩達から丁寧に教えてもらえるらしいです。俺、やっぱりそういうところにいた方がいいかもしれないって、最近ずっと考えてました」
若者は大きくため息をつく。そのため息の深さが、彼の悩んだ時間を物語っていた。
「そうか、すまなかった。随分悩ませたみたいで」
オーナーは若者から一切目を離さず、彼の唇の震えや瞬きを見ていた。
「お前がウチに来たとき、板長に憧れてここで修行したいと言ってきた。こんなちっぽけな料理屋に、福利厚生も十分じゃないところに、飛び込んでくるなんて。本当に今時珍しいタイプだと思ったよ」
「あの時は、何にも考えてなかったのかもしれません。でも、俺だってそろそろ30も見えてきます。怖いんです」
「そうだよな。うん、私たちもお前に寄り添う気持ちが足りなかった。辞めたいなら辞めていい」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言ってはいるものの、一切の嬉しさや喜びは感じられない。空っぽの返事だ。それだけ打ちひしがれて、ようやく言葉にしたのだろう。
若者がほんの少し落ち着いたところで、オーナーはおもむろに口を開いた。
「ところで、今日の仕込みはどこまで終わってる?」
「大根の火入れがまだ」
「じゃあ、火にかけてる間どこか行くか。餞別だ、これからも飲食で働くなら、勉強になるところに連れてくよ」
「はい」
若者は下を向いたまま返事をした。手元には5本ほどの大根が置いてある。それを輪切りにし、皮をむいて丁寧に面取りをすると、鍋の底に並べる。ゆでる際に水ではなく米のとぎ汁を使うことで大根の匂いが消える。これからいろいろな煮物に転用してく際に必要な処理だ。
「さて、行くか」
二人は店の扉に鍵をかけ、商店街へとくりだした。
「言ったっけ?土曜日の昼に休みにしてるのは私がどこかに食べに行きたいからだって」
「それ何回も聞きました」
「そうか、悪かったよ」
オーナーは商店街の表通りを過ぎ、やや寂れた裏通りへと向かう。歩いている間にも、二人の間に会話はない。肩が凝りそうな雰囲気の中、ようやくオーナーが「ここだ」と一言指さした。
「イタリアンですか、珍しいですね」
「そうか?」
これまでもオーナーは若者を色々な店に連れて行ったことがある。けれど自分の店と同じ和食が中心であった。
「いらっしゃいませ。あ、タケちゃん」
「ヒロキさん久しぶり」
小さな扉をくぐると、まさに猫の額と言える狭い店内にたどり着く。カウンター越しにオーナーの名前を呼んだのは気さくな笑顔を浮かべる老人。オーナーよりも20歳ぐらい年上に見える。還暦はとっくに過ぎているだろう。
若者は知っている。オーナーのことをタケちゃんと呼ぶのは古い仲間なのだ。おそらくオーナーが先代から店を受け継ぐ前から知っている間柄。
メニューを覗くと、パスタとピザが何種類か並んでいる。ランチなのでサラダがセットでついてくるようだ。
「今日はね、ジェノベーゼがいいよ」
「じゃあそれで、お前は?」
「俺は、カルボナーラがいいです」
「ほう?」
ヒロキと呼ばれた老人は目を輝かせた。
「カルボナーラとはわかってる」
「どういうことですか?」
「カルボナーラはヒロキさんの十八番なんだ」
ヒロキはカウンターを乗り越えんばかりの勢いで若者をのぞき込んでくる。
「キミ、カルボナーラは好きかい?」
「はい、パスタの中でなら」
「実にわかってる。カルボナーラはパスタの基本なんだ。トマトソースよりも基本なんだよ」
勢いに気おされる若者を尻目に、ヒロキはウキウキと声を弾ませる。まるで百点のテストを褒められた小学生のように無邪気だ。
「わかった、わかりましたよ。今度食べますから、カルボナーラはまた今度食べますから」
ヒロキはオーナーのややなげやりな言葉で渋々奥に引っ込んだ。
「ヒロキさんのカルボナーラは絶品だが、一度語りだすとうるさいから常連はここぞというときしか頼まない」
「そうなんですか」
「まあこの街にも来なくなるかもしれないし、今のうちに食べておいても損はない」
ホールの女の子が慣れた手つきで水を運んでくる。瓶にはキンキンに冷えた炭酸水が入っていた。
「ここの水は天然の炭酸水だ。食事前に口に含めば雑味が減る」
オーナーは二人分の炭酸水をコップに注ぐと、若者に一杯を差し出す。刺激は強いが、一度飲み込んでしまうと口の中には風が吹いた後の様に何も残らない。
「さて、これからの質問、別に答えたくなければ答えなくていい。ただもしよければ、今後のために教えてほしい。私から見てもよくわからなかったが、お前から見て板長との間に何があったんだろう」
「そうですね……」
飲んだ炭酸が喉に上がってくる。それとともに、若者は何かを吐き出しそうになった。
「最初に変だなと思ったのは一年前、俺が肉じゃがを作ったときのことです。あの時、ダシの分量を間違えて、途中で汁がなくなって。それで慌てて継ぎ足したんです」
「それで?」
「材料は全部入れちゃったし、どうにかまともにしなきゃと思ってそのまま煮切ったんです。見た目は何とかまともになって、俺が味見した分には間違えたとは思えないくらいには上手くいったんです。一応上手くいったんで板長に味見してもらいました。そのとき板長はこう言ったんです」
『お前これ、醤油二回に分けて入れたろ』
「意味わかんないですよ。そりゃ確かに醤油二回に分けて入れたのは本当ですし、俺が説明するまでもなく当たってことは、それだけ思ってたのと違う味だったってことですよね。後から考えてなんとなくわかりましたけど、叱るならもっとちゃんと叱ってほしかったです」
「なるほど」
「どういうことですか?口下手にもほどがあると思いませんか」
「確かにな」
オーナーが若者をなだめようとしていると、前菜のサラダが運ばれてきた。
「今日はタケさんの好きな水ナス入ってますから」
「ほんと?ありがとう」
ホールの女の子と話すとき、オーナーは打って変わってわざとらしい他所行きの声になる。この変わり身の早さが飲食店経営者の特徴だ。
「そっか、その話を聞いて一つ言うことがあるけど、それね、正解」
「え?」
オーナーはサラダボウルの中に潜む水ナスをいの一番にフォークで突き刺した。
「正確に言うと、肉じゃがを作る時、最初から全部つゆを入れる主義の板前と分ける板前がいる。どっちが美味しいかは好みの問題」
「でも板長は俺に一回のレシピしか教えてくれませんでした」
「それはウチが一回を基本にしてるから。俺の親が店をやってた頃からそう。ウチは一回派」
「じゃあやっぱり違うんじゃ」
「いやいや、一回か二回かは些末なことだ。よりおいしければそれでいい」
若者は少し納得できないと思いつつ、炭酸水と一緒に反論の言葉を飲み込んだ。
「まあ板長が口下手なのは否定しない。下手だ。褒め方が絶望的に下手だ」
「褒める?」
「そうだ、褒めたんだよ。自分が教えた方法と違うことを試したと思ったんじゃないかな。結果的には勘違いだったわけだが」
若者は自分の皿に目を落とす。レタスやキュウリなどの青色はもちろん、そこにパプリカや赤かぶなどが加わっていろどり鮮やかに花が咲いている。水ナスに皿の底のドレッシングを絡め、口へと運ぶ。
「どうして、教えたことと違うことをして褒めるんですか?」
「どうして?」
オーナーは目線を若者から外し、少し泳がせてから再び若者を見た。
「そりゃあ、教えられたことだけやってたら進歩がないでしょ」
「まあ確かにそうですけど」
「それに、お前も板長の言われた通り全部やってきたわけじゃないだろう?家でも料理してるよな」
「はい、してます」
「そうだと思ったよ」
早くもサラダを食べ終わったオーナーは、再び炭酸水を口に含む。
「意外かもしれないが、家では料理をしない板前のほうが多い」
「そうなんですか?」
「仕事場で嫌というほど作らされてるからな。家では作りたくなくなるのがむしろ普通だと、私は思う」
「なんか寂しいですね」
「その点、家でも料理をするお前はすごい。店だけでは物足りないと見える。板長にはまだ勝てないが、10年経てば勝てる要素を持っている」
「俺が、ですか?」
「パスタお待たせしました」
「ありがとう、やっぱりバジルもいいけど、日本人ならシソ・ジェノベーゼだな」
オーナーは唇を緑にしながら語る。やっとサラダを食べ終わった若者の前にも、例のカルボナーラが運ばれてきた。
「職人に一番必要なものは何だと思う?」
若者のカルボナーラを巻く手が止まった。口に運ぼうにも、何だが手の動きがぎこちなくなってしまう。
「美味しいものを出すことですか」
「そうだ、けどそれよりも実は大事なことがある」
ようやくまとめられたパスタを懸命に口に運ぶ。濃厚な卵が口中に広がり、チーズがのどまで侵食していく。何度も噛んでから飲み込むと、とても大きな満足感が胃袋に落ちていった。たったひと口でこのパワー、美味しいものはやはり素晴らしい。けれど、だからこそわからない。オーナーの言う、美味しいものを出すことよりも大事なこととはなんだ?
「お勘定!」
店の奥に座っていた初老の男が席を立った。
「ずっと来たかった。ここは相変わらず旨い」
「ありがとうございます」
ヒロキは厨房から出てきて初老の男を店の外まで送っていった。
「今出てった人は、ウチの常連でもあった。」
「へぇ」
「でも引っ越して、このあたりじゃ見かけなくなった。それがなんで、わざわざ来たんだろうな」
「変わらず美味しいからでしょ?」
「『変わらず』と言ったか?」
オーナーの眼つきが変わった。オーナーは若者のカルボナーラに混ざっているベーコンを指さす。
「さっきの人がこのあたりにいたのは三年前だ。あの当時はお手製のベーコンだったが、今はよそから買ってる」
「え?!」
若者は自分のフォークでベーコンを刺してみた。油が滴り、程よく焦げた表面が食欲をそそる。滴り落ちた油はチーズと良く混ざり更なる快楽的化学反応を起こしている。
「ヒロキさんは天才的な腕を持った職人だが、ベーコン作りにおいてはヒロキさんを上回る天才いたんだ。ヒロキさんもずっとベーコンを研究してた。カルボナーラの骨子だからな。けれど、どう頑張ってもその天才を越えられない。じゃあどうするか、簡単な話だ。ベーコンを買えばいい」
「そんな、悔しくないんですか」
「私もそう聞いた。けどヒロキさんが言うには、『美味しいものを出せないほうが悔しい』とさ」
若者は思わず厨房を見やった。カウンター越しでは向こうで何が起こっているのかはわからないが、気迫のようなものさえ感じ取れる気がする。
「板長もその話を聞いたとき黙って頷いてた。自家製のベーコンだってどこに出しても恥ずかしくない美味しさだった。でもあの人たちにとっては、自分の頑固さを貫くよりも、お客さんにより美味しいものを食べてほしいという気持ちのほうが強い。そのためなら意地なんてかなぐり捨てる。で、意地を捨てると今までとは違う料理になるはずなんだ。でもお客さんはこう言う」
『相変わらず美味しい』
若者にも心当たりがないわけではなかった。若者の作る料理でさえ、季節によって常に変化し、板長はその日の天気さえ計算に入れて料理をする。一度だって同じ料理はないはずだ。でもお客さんからもらう感想はいつも同じ。けれど、若者もお客さんの味覚が鈍感だとは思わない。不味いものを出せば途端に吹き飛ぶのが飲食店の宿命、それはたった数年の経験でも嫌というほど見てきた。
「お客さんは私たちに変わらないおいしさを求めてやってくる。けれど、同じ料理を出され続けると飽きてしまう。そうすると評価は落ちていく。変わらない美味しさを守るためには、絶えず変わっていかなくてはいけない」
若者はパスタを食べ終えると、グラスに残っていた炭酸水を飲み干した。
「どうしてもっと早く教えてくれないんですか」
「ごめん、知ってると思ったんだよ。板長に一目ぼれしたって飛び込んでくるぐらいだからさ」
「なんだかなぁ」
「だから悪かったって。板長は凄腕だけど、これ以上教えられることは多分ないと思う。食材は一年あれば一回りする。一年目で教えそびれたことがいくつかあったとしても、二年あればまあだいたいはわかるだろう。それより先は、教えられたことをどう自分なりに工夫するかを考えなきゃいけない。板長だっていつも悩んでる」
「そうですか、板長も」
「なにせ正解がないからな。教えようがない。安易に正解を強制するのも危険だし。ただこれだけは言っとく。今よりもおいしくしようって気持ちがあれば、必ず板長に勝てる」
オーナーはホールの女の子を呼びつけて、メニューを要求した。
「せっかくだからデザートも食べよう。ここのチョコレートケーキはうまいぞ」
「じゃあ、俺もチョコレートケーキで」
「は~い、お持ちしますね」
店員は間延びした声で答える。
「最初の話に戻るけども、辞めたいならそれは止められない。私たちに非があるからな。けど、まだ板長の料理が好きだったら、その人の近くで仕事をするのが一番刺激を受けられると思う。この人の料理を超えるものを作ろうって、今もどこかで思ってるだろう」
若者は黙って、たった今運ばれてきたケーキを眺めていた。
オーナーは常連の初老の男を見送って、店の玄関まで出てきた。
「ごちそうさま、タケちゃん、今日は大根が美味しかったよ」
「ありがとうございます。今日の大根はウチの若いのが作ったんですよ」
「へぇ、板長さんじゃないんだ」
「ええ、期待の新人です」
http://tenro-in.com/zemi/86808
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