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週刊READING LIFE vol.54

死んでいるように、生きていた私へ《 週刊READING LIFE Vol.54「10年前の自分へ」》


記事:千葉 なお美(READING LIFE編集部公認ライター)
 
 
「おまえ、有給全部使って、一回青森の実家に帰ってこい」
 
そう言われたのは、私が新卒で入社してちょうど1年が経とうとしていた頃だった。
上司に「面談」という名目で呼び出された私は、実質の退場宣告を受けた。しかも、強制退場だ。
 
当時、私の有給残日数は10日程度。
全部使うと、土日祝日を挟んでまるまる2週間は休むことになる。
出社する時期は未定で、休んでいる2週間の間に相談して決めようというものだった。
 
これが何を意味するか。
先行きは明らかだった。
 
私は、咄嗟に否定しようとした。
しかし、有無を言わさぬ雰囲気に、断る隙もなく従うこととなった。
 
上司の判断は正しかった。
 
私はまだ、自分をわかっていなかった。
いや、わかっているつもりだったが、まだ大丈夫、と自分に言い聞かせていた。
 
限界だったのだ。
 
上司が見て、同僚が見て、他人が見てわかるほどに、私は限界だったのだ。

 

 

 

新卒で入社した会社は、IT系の会社だった。
思うように就職活動が進まなかった私は、視点を変えて「自分を追い込める会社」を選ぶことにした。
いつか聞いたことのある「辛いことは若いうちに経験した方がいい」という言葉の通り、どうせなら新卒で鍛えられる方がいいと思ったのだ。
 
当てをつけて入社した会社は、想像通り、いや想像以上に厳しかった。
体育会系の営業職。ある程度覚悟はしていたが、精神的にも身体的にもかなりしんどかった。
 
新人のうちは「テレアポ」という、いわゆる電話営業でアポイントを取る仕事がほとんどだった。
朝から晩まで1日中、電話をかけ続ける。
その数、1日平均200コール。多いときで300コール以上。
その日のノルマを達成したからといって、手を休むことは許されない。
明日もノルマを達成できるとは限らないし、グループ内にはまだ未達の人もいる。
グループ全体で達成するためには、できる人がさらに件数を稼がなければならない。連帯責任だ。
あまりの過酷さに、約30人いた同期のうち、数人は早々に会社を辞めていった。
 
私はというと、滑り出しは快調だった。
同期の中で1番に受注し、成績はトップ。
5人グループのリーダーを任され、社会人1年目としては幸先のいいスタートだった。
 
しかし、成績が順調な一方で、仕事が辛いことには変わりなかった。
入社前に抱いていた、「苦しくもやりがいのある華やかな職種」という営業に対するイメージは、これっぽっちのかけらもなかった。
まるでロボットのようにひたすら電話する毎日。
日次、週次、月次ごとに課される、ノルマのプレッシャーと戦う日々。
 
数ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、別の会社に就職した同級生たちに会うたび、惨めさはさらに浮き彫りになった。
大変とは言いながらも、様々な仕事を任され充実感を得ている友人たちに比べ、自分は何も成長していないように思えた。
同業他社に勤める友人と話しても、ある程度までは辛さを分かち合えても、最終的には「でも、電話ならまだいいじゃん。こっちは対面で怒鳴られるんだから」と言われる。
同じ営業でも、すでに外回りを経験している人にとっては、内勤営業は格下の存在なのだ。
 
しかし、ただひたすら電話をかけ続ける過酷さと精神的苦痛は、想像を絶する。
辛さとプレッシャーは、時間を追うごとに増す。
 
テレアポ部隊は50分ごとに10分休憩があった。
その休憩ごとに、女子トイレに駆け込んでは同期皆で泣いていた。
今日Aちゃんが泣いていたと思ったら、翌日にはBちゃんが泣いている。
皆で「大丈夫だよ」と声を掛け合い慰めあうも、明日は我が身なのである。
 
そんな中、私も身体に変化が出始めた。
通勤途中に救急車で運ばれること数回。
休みの日には、原因不明の蕁麻疹で一口も食べられないことがあった。
それでも、朝救急車で運ばれたあと数時間後には出社し、蕁麻疹で化粧ができないときはすっぴんにマスクをして出社した。
身体の悲鳴もろくに聞かず、自分の心の奥底は覗かないようにしていた。
そうしないと何もかもが崩れてしまいそうなほど、ギリギリのラインで生活していたのだ。
 
そうまでして保っていた自分の中の何かが「プツッ」と音を立てて切れたのは、入社して1年が経とうとしていた時のことだった。
 
私は、自分の中で過去最高の営業成績をあげた。
営業部全体で見ても、社会人1年目にしてはかなりの好成績だった。
 
「希望部署に行きたいのなら、営業成績をあげなさい」
入社当時からそう教えられていた私は内心、これでやっと解放されるかもしれない、という淡い期待を抱いていた。
 
しかし、現状は変わらなかった。
 
一方で、同じ月に私と全く同じ営業成績をあげた同期が、外回りの営業部署に異動になっていた。
 
なんで?
 
全く同じ成績で、なんで彼だけが部署異動して、私はそのままなの?
 
所属しているグループが違うから? 私が女だから?
 
考えても考えても、納得できなかった。
 
以前にも、納得できないことは多々あった。
好きでずっとテレアポをしているわけじゃない。
人事だったり、制作だったり、皆ぞれぞれにやりたいことがあった。
毎日の苦行にいつしかやりたいことも忘れ、「とにかく成績をあげたら解放される」とただそれだけを信じて、必死にやってきた。
 
しかし実際には、成績のいい人はそのままで、成績が芳しくない人ほど次々とバックヤードに送り込まれた。
異動になった同期は、「私は全然ダメだったから」「落ちこぼれだから」「営業部に残っているだけ花形だよ」と言った。
 
だが、自嘲気味に笑うその顔は、営業部に残されている私達に比べて、活き活きとしていた。
一緒に戦っていたときは皆等しく死んだ魚のような目をしていたのに、裏方に回ってからは、忙しさの中にも充実感を見出しているように見て取れた。
 
正直、羨ましかった。
しかし納得できないその事実に歯向かうように、私は成績をあげて希望部署にいくんだ、と言い聞かせていた。ただただ、解放されたかった。
 
そんな中、自分史上最高の成績をあげた。
周りからも「すごいね」「おめでとう」と声をかけられ、受注した九州案件の担当者からも電話がかかってきた。
たくさんの人たちから祝福され「多分、もうこれ以上の成績をあげることはできないだろうな」と思った。
 
だからこそ、全く同じ成績のもう一人の同期だけが異動し私だけが取り残されたことに、とてつもない絶望を感じたのだった。
 
もしかしたら成績以外に要因があったのかもしれないし、数か月も待てば私にも別の展開が待っていたのかもしれない。
 
でも、もう無理だった。
 
それまで必死にこらえて積み上げてきたものが一気になし崩しになるのがわかった。
ダムが崩壊したかのように、糸が切れたあとの私は歯止めがきかなかった。
 
朝起きられなくなった。
会社に行こうとして化粧をしながら、涙が止まらなくなった。
玄関を出ようとすると、吐き気がした。
 
それでも這いつくばるようにして出社し仕事をしていた。
仕事中は泣かなかったが、仕事をしながら、1分、1秒を呪っていた。
ただひたすら時間が過ぎることを願いながら、毎日を過ごしていた。
 
そんな私の様子を見て、ある日、マネージャーから「ちょっとおいで」とデスクに呼ばれた。
なんだろうと思っていくと、一枚の紙きれを渡された。
 
「今日はもう、仕事しなくていいから、ここ行っておいで」
 
——えっ?
 
紙きれに書かれていたのは、都内にある精神病院の名前と連絡先だった。
 
病院に向かいながら、「上司から精神科を勧められるってどうなんだろう」とか「ついに私も精神科を勧められるほどになったのか」とか、いろんなことを考えた。
 
診断結果は、軽度の鬱病だった。
初期症状が出始めているから、とにかく無理をしないようにと言われた。
繰り返し、「頑張らなくていいんですよ」と言われた。
 
はぁ、とカラ返事をする。
 
そう言われても。
 
頑張りたくなくたって、頑張らなきゃいけないことだって、世の中たくさんあるじゃないか。
 
軽度の鬱病患者らしく、わずかだがまだ反抗する気力が残っていた私は、心の中でそんなことを考えながら、どうすることもできずに泣きながら帰った。
 
医者の言うことも聞かず、処方された薬も飲まなかった私は、ますます壊れていった。
 
会社に行けなくなる日が増えた。
気付いたら泣いていることが増えた。
死んでいるように、生きていた。
 
そんなとき、所属部署の一番上の上司と面談があった。
 
席につくなり、上司は言った。
 
「おまえ、有給全部使って、一回青森の実家に帰ってこい」
 
選択肢はなかった。
あたかも決定事項のように伝えられた。
 
今思えば、おそらく上司も必死だったのだろう。
 
私はまだ、自分をわかっていなかった。
わかっているつもりだったが、まだ大丈夫、と自分に言い聞かせていた。
 
しかし、精神科を勧められるほどに、休養を強要されるほどに、私は危うかったのだ。
 
それでもまだ小さなプライドが邪魔をする私を見て、上司は最良の形で救済措置を与えてくれたのだと思う。

 

 

 

3週間の休養を経て、私はまた営業部に戻った。
戻るときの不安はとてつもなく、「周りにどんな目で見られるだろう」とか「復帰してまたダメになったらどうしよう」とか様々なことが頭をよぎった。
 
営業部は、休む前となんら変わっていなかった。
 
しかし、私を取り巻く環境が少しだけ変化した。
 
社内のメッセンジャーを通じて、いろんな人からメッセージが届くようになった。
そこには励ましの言葉と共に「実は私も同じような経験があって」とか「前職で自分も精神科に通ってて」とか「ベランダの手すりに足をかけて泣いたこともある」とか、自身の過去について赤裸々に綴られていた。
普段は明るくてちゃきちゃきしている人や、それまで一言も話したことのない他部署の人、今は上の立場で部下を取りまとめている人など、普段の様子からはとても窺い知れない様子がそこには書かれていた。
 
それからの私は、人を見る目が少しだけ変わった。
上っ面だけで判断しなくなった。
どんなに綺麗で華やかな人でも、地味で暗くてパッとしない人でも、見た目や肩書きだけでわかった気にならないようにした。
私にメッセージをくれた先輩たちのように、一見そうは見えなくても、過去にいろんな葛藤を経て今のこの人があるのだと、ほんの少しだけ思いを巡らせるようになった。
 
そして、私も先輩たちのように格好良く生きたいと思った。
不幸自慢するでもなく、何事もなかったかのように生き、しかし自分と同じ辛い経験を繰り返しそうな人が現れたときに、そっと手を差し伸べる優しさを持った先輩たち。
 
辛い経験も、生きていれば、いつかそれが肥やしになるんだ。
 
この10年で、私はそんなことを学んだ。

 

 

 

死んでいるように生きていた当時の私へ、伝えたい。
 
辛いよね。苦しいよね。
でもね、その経験は、いずれ武器になるよ。
生きてさえいれば。
 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
千葉 なお美(READING LIFE編集部公認ライター)

青森県出身。都内でOLとして働く傍ら、2019年6月より天狼院書店ライターズ倶楽部に参加。同年9月よりREADING LIFE公認ライターとなる。
趣味は人間観察と舞台鑑賞、雑誌『an・an』SEX特集の表紙予想。
天狼院メディアグランプリ29th Season 総合優勝。週間1位複数回。

 
 
 
 

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2019-10-21 | Posted in 週刊READING LIFE vol.54

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