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週刊READING LIFE vol.59

円くもない月を見て「円い」と思うのはどうしてか《週刊READING LIFE Vol.59 「世迷事」》


記事:千葉とうしろう(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)
 
 

世紀の大世迷言を紹介しよう。この記事では、「その世迷言とは何か」「どうしてその世迷言が『大』世迷言なのか」について話そうと思う。
 
時は紀元前500年頃、場所はギリシャ。この年代に、この土地で、世紀の大世迷言を言った人物がいる。哲学者・プラトンである。「アテネの学堂」という絵をみたことがあるだろうか。ルネサンスの時代にラファエロによって描かれた、古代ギリシャを代表する知識人たちが、一同に会している絵である。ソクラテス、ピタゴラス、プロタゴラス、ヘラクレイトス。そんなそうそうたる古代の知識人たちが、開放感あふれるキャンパスのような場所で、それぞれ思考している様子を描いた油絵だ。絵の中心にいるのは、向かって右側がアリストテレス、そして左側にいて右指を天に向かって突き立てているのがプラトンである。ハゲ頭と、胸まで伸びるあごヒゲ、いかつい体。プラトンは上流階級の人間だったらしい。自身はレスリングもやっていたらしく、「プラトン」という名前はリングネームだったという説もある。
 
このプラトンという哲学者、どんな世迷言を言ったのかというと、「現実の世界は偽物だ! 理想とするもので構成される世界は他に存在していて、そっちこそが大事なんだ!」というのだ。イデア論である。どういうことか。
 
例えば今、私の部屋の窓からは、月が見える。まん丸い満月だ。さてさて、この満月は真円だろうか。窓からは丸く見える月。この月の、円の中心から円周までの距離は、どこをとっても等距離なのだろうか。そんなわけはないだろう。月が真円なわけはない。月は岩石が集まって、長い年月をかけて丸くなったのだ。計算して丸く作られたのではない。厳密に計算すれば、縦軸と横軸の直径も違うだろうし、表面もボコボコとクレーターだらけだ。地球からだとよく見えないが、実際に行ってみると月だって山あり谷ありらしい。山脈もあるし渓谷もある。決してツルツルの表面ではないのだ。月は丸く見えるが、実際には丸くないのだ。
 
では、ノートにコンパスで円を描くとする。この円は、本当に円だろうか。中心線から円周までの距離は等しいのだろうか。実はこれも円ではない。だってよく見てほしい。顔をノートに近づけて、その目でよく見てほしい。ノートの表面は、ツルツルに見えて、実はデコボコしているのだ。ノートの材質はパルプである。つまりは木材だ。木材を手触り的にはツルツルにして、鉛筆で書く分にはわからないくらい、表面処理しているだけだ。実際には木材と木材が絡まって紙という体裁をとって、ノートとなっている。コンパスは、そこに鉛を塗りつけて線を描いているのだ。いくらキレイにクルッとコンパスを回したところで、本当の円は、ノートとコンパスでは描けない。
 
だったらどうすれば本当の円が描けるのか。どうすれば我々は、本当の円にお目にかかれるのか。それは不可能である。現実に本当の円は存在しない。MacBookのレティーナディスプレイに円を描こうと、製図用の文房具で円を描こうと、それは円に見えているだけで、本当の円ではない。顕微鏡で見てみたり、1万分の1ミリという単位で計算してみたり、厳密に円かどうかを確認しようとすると、決して円ではないのだ。我々の世界に、理想とする円は存在しない。
 
なのにおかしくないだろうか。我々は、円というのを想像できる。本当の円というのが「こんな感じ」というのを知っているのである。中心線からの距離を取れば、どこも同じな円。まん丸い円。そんな円を知っている。現実には円が存在しないにも関わらず、である。
 
例えば、イヌという生き物を見たことがあるだろうか。ワンワンと吠える、あのイヌである。ほとんどの人が、「イヌなら見たことがある」と答えるだろう。世の中には様々な種類のイヌがいて、ざっとイヌの種類を検索してみても、何百種類という種類のイヌが検索された。ドーベルマン、ポメラニアン、シベリアン・ハスキーなど、どれも個性的なイヌたちである。
 
ドーベルマンはジェームズ・ボンドのイメージだろうか。全体的に黒々としていて、スラッと手足が伸びている。眼光の鋭い男が細身のスーツを着こなしているようである。身体能力も高く、欧米では用心棒代わりにしている家庭もある。ポメラニアンはアイドルのような感じだ。毛がふさふさしていて、さわると手触りがいいのと同時に、いい匂いがしてきそうである。キャンキャンという仕草も、ただただ「かわいい」の一言である。シベリアン・ハスキーにはおおらかさを感じる。堂々としていて、体も大きいし。お母さんとのようなものか。歩く姿も凛としていて頼りがいがあるイメージだ。
 
で、こんな風に多くの種類がイヌにはあるのだけれど、我々はどのイヌを見ても、「あ、イヌだ」と思うのだ。ジェームズ・ボンドのようなドーベルマンを見ても、アイドルのようなポメラニアンを見ても、お母さんのようなシベリアン・ハスキーを見ても、同じようにイヌだとわかるのだ。これはおかしなことじゃないだろうか。だって、どのイヌにも「イヌ」という看板がかけられているわけではない。イヌが自分で「イヌです」というわけでもない。なのに我々は、これらの生き物を見て「イヌだ」とわかるのである。
 
確かにどのイヌも、イヌである特徴は持っているのだろう。哺乳類で、嗅覚が優れていて、肉食で。だがそんなイヌの特徴など、「イヌだ」と認識する過程では関係ない。いちいち「ちゃんと乳を飲んで育てられたか」とか「匂いを嗅ぎ分けられるか」とか「肉を食べられるか」「肉を食べるのに適した消化系を持っているか」なんて調べて「イヌだ」と認識しているわけではないだろう。イヌだといったらイヌなのだ。どのイヌも、それぞれの個性をもったイヌであって、完璧なイヌなどいない。なのに我々は、ひと目見たら「イヌだ」とわかるのだ。
 
例えば、我々は日々、うまい文章を目指して文章を書いている。人に読まれたいし、素のままの自分を表したいし、自分の考えや思いをうまく伝えたい。そんな思いで文章を書いている。けれど、これもおかしなことじゃないだろうか。だって、我々は本当の「うまさ」というのを知らない。確かにうまい文章に出会うことはある。自分で書いていて「うまい!」と思うことなんてあるとは言えないが、人気作家や巨匠と呼ばれる人の文書を読んでいると、真似したいと思うほど、「自分もこう書ける様になりたい」と思えるほどの文章に出会うことはある。けれど、それが完全無欠の、鉄壁の文章なのかというと、そうではないこともわかる。
 
いつの時代、どこの場所で、誰が読んでも「これぞ完璧な文章だ!」なんて、そんな鉄壁の防御を誇る文章なんてのは、あり得ない。人それぞれに価値観が違うからだ。男女という性別でも感じる所が違うだろうし、生まれ育った環境によって、響くところと響かないところが分かれる。現代の日本でのんびりと過ごしている私と、平安時代に貴族の宮廷で過ごしている女性作家とでは価値観は一致しないだろう。さらには戦時中の時代に「祖国のためならいつ死んでもおかしくない」という意思を持って過ごしている人と、何人もの召使いを従えて箸より重いものを持ったことがない王族の人とでは、価値観なんて一致しようもない。いつの時代、どこの場所で読まれても「うまい!」と思える文章なんて存在しないのだ。完全無欠な文章なんて存在しない。けれど、我々は「うまい」文章を目指して文書を打っている。欠陥のまったくない、完璧な文章なんてあり得ないのに。
 
プラトンのいうイデア論とはこのことで、どうして我々は現実に存在しないものを知っているのか、ということだ。現実にはあり得ない、完璧な円という図形、イヌという生き物、うまさという概念。それらをどうして知っているのか、なのだ。プラトンの説明はこうだ。「現実の世界なんて偽物だ。我々の理想が集まった、完璧な世界は他に存在する。そんな理想のことをイデアと呼ぼう。円のイデア、イヌのイデア、うまさのイデア。そんなイデアたちの世界、イデア界は別に存在するのだ」である。
 
プラトンはこれを、洞窟と奴隷というたとえ話を用いて説明している。洞窟があって、暗い洞窟の奥は壁で行き止まりになっている。その壁に向かって、奴隷たちが手足をロープで縛られて座らされている。奴隷たちは物心ついた時からこの状態である。洞窟の奥に向かって松明が燃やされており、洞窟の奥の壁には松明の明かりで影が映っている。松明の前を人が通れば奥の壁には人の影が映るし、鹿が通れば奥の壁には鹿の影が映る。奴隷たちはずっと影だけを見て生活しているので、影が影だと気づいておらず、人や鹿の本物は別にあることを知らない。この、影を見て生活している奴隷のような状態が我々の世界で、本物(イデア)は別にある、とプラトンは言うのだ。
 
影ではない本物の存在に気づいて、他の奴隷たちを導くのがリーダーであって国家を引っ張る資格のある者だ、という展開にプラトンの著書ではなるのだが、ここで大事なのは「本物は他に存在する」ということである。「現実の世界は偽物だ! 理想とするもので構成される世界は他に存在していて、そっちこそが大事なんだ!」ということなのだ。
 
このイデア論をどう思うだろうか。「そんなの古代人の妄想だろ?」「科学が発達していなかった時代の、でまかせなんじゃないの?」と思わないだろうか。私もそう思う。イデア論を初めて聞いたのは、高校での倫理の授業でだ。先生が言っている内容を「そんな昔の人の、身も蓋もない話を勉強してどうするんだよ」と思って聞いていた。
 
だがこのイデア論。案外、無視できない世迷言でもあるのだ。というのも、我々の生活の中に意外と浸透しているのである。我々の考えの、土台になっていると言ってもいい。だからただの世迷言ではなく、世紀の「大」世迷言なのだ。
 
たとえば我々は、日々勉強している。これまでも学校でさんざん勉強してきた。どうして我々は勉強しているのだろうか。だって勉強なんてつまらないじゃないか。教科書を眺め、先生の話を聞いて。そんなことよりも、外で体を動かしたり、映画でも見ていた方が、よっぽど楽しいじゃないか。なのにどうしてわざわざ、面白くもない勉強なんてものをするのか。決まっている。未来のためだ。今年よりも来年、来年よりも十年後、遠い未来にいい人生をおくれるために勉強をするのである。その方が後から振り返って「いい人生だ」と思えるだろうし、幸福の度合いも大きいだろうと考えられるからだ。
 
この「今ここにある現実」よりも「遠い未来を」という考えが、プラトンの影響なのである。思い出してほしい。イデア論とは、「目の前にある現実は偽物ですよ」「理想のイデア界は他にあるんですよ」というものだ。「目の前にある現実よりも、他に存在する理想が大事」なのである。
 
我々はよく、「目の前にある現実は表面的なもので、本質は別なところに存在する」ようなことを考えないだろうか。「現実的なものよりも非現実的な方に重きを置く」というのが、もはやプラトンの影響なのである。
 
たとえば、我々が想像する「この世とあの世」というのもプラトンの影響だろう。我々は「この世とあの世」を想像するとき、あの世の方に重きを置いて想像しないだろうか。この世とは時間的に制限があるものなのに対して、あの世とは永遠に時間が続く完璧な世界。あの世で幸せになるために、この世では少々我慢をしなければならない。この世で嫌なことを受け入れて我慢をすれば、あの世では幸せになるのだ。
 
「現実の世界は偽物だ! 理想とするもので構成される世界は他に存在していて、そっちの世界こそが大事なんだ!」などという身も蓋もない、プラトンの世迷言。案外、その影響は計り知れないのである。
 
今、私の隣の部屋では、息子が「ゲゲゲの鬼太郎」をDVDで見ている。鬼太郎が毎回「やあ、人間のみなさん」なんて言って、お話が始まる。目には見えない妖怪世界の面白さを現実の我々に紹介する鬼太郎も、プラトンの世迷言が土台になって作られたのだろうか。

 
 
 
 

◻︎ライタープロフィール
千葉とうしろう(READING LIFE 編集部ライターズ倶楽部)

宮城県生まれ。警察に就職するも、建前優先の官僚主義に嫌気がさし、10数年勤めた後に組織から離れてフリーランスへ。子どもの非行問題やコミュニケーションギャップ解消法について、独自の視点から発信。何気なく受けた天狼院書店スピードライティングゼミで、書くことの解放感に目覚める。
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2019-11-25 | Posted in 週刊READING LIFE vol.59

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